大学入試の面接で泣いた話
今日はとあるカトリック大学で行われている講座から帰っている。
普段カトリック大学に通ってるのに、授業がない日も、別のカトリック大学に行っている。先生は聖公会の方で、そこでもキリスト教について学んでいる。私のいまの日常はキリスト教で満ちている。
私自身は洗礼を受けていなくて、信仰もいまのところもってない。神学を勉強しています、と言うと、とりあえずクリスチャンだと思われることが多いけれど、私の場合は違う。
しかし、確かに神学という学問を、神への信仰を公に宣言していない私が取り組むことには矛盾があって、ひとが首を傾げるように、私も根本的なところでは首を傾げている。
私は高校を卒業してすぐに、今いる大学の今いる学部に来た。そして一年間の休学を挟み、三年目に中退した。その後は通信大学に入学し、卒業してから、再入学の制度を使ってこの大学に戻ってきた。
なぜ神学をもう一度やろうかと思ったのかというと、結構シンプルな動機で、宗教がいちばん「かなしんでいる」ひとたちに寄り添っていると思ったからだ。
私は卒業した大学の哲学専攻で、結構長いこと、3、4年かけて、東日本大震災における宗教の活動について卒論研究をしていた。あまりこういう場では積極的には言ってこなかったけれど、べつに隠していたわけじゃないし、これからは、いっぱい言ってもいいかなと思う。
そして卒論で扱ったなかでも、「グリーフケア」という分野にひどく惹かれ、先生に相談したところ、やっぱりグリーフケアをやるなら四谷にある大学だ、と。
奇しくもそこは私が中退した大学だった。「もう二度とカトリック神学なんかやらない!」と、逃げるように、私は目を背けて、四谷から去った。
苦い思い出だ。いまでも思い出すと心が痛む。あのときの私は狭くて、閉じていて、睨みつけてばかりで、いまもそういうところはあるけれど、そういうのを個性と履き違えて隠そうともしなかった。
やっぱり哲学をやればよかった。そう思いながら中退したのは、寒い秋だった。四ツ谷駅前の交差点を渡りながら、コートがぶかぶかすぎてうける、と思った。もう二度と来ないよ。四谷。さよなら。そう思って、私は中央線に乗って友達と遊びに出かけた。
私は現役生のとき、哲学科には落ちたのだ。フランス文学科にもフランス語学科にも落ちてるし、なんなら、受かった学部も補欠入学だった。繰り上げ合格だ。入学者のなかで最も下の位置にいたということだ。
当然だと思う。受かる領域にはいなかった。受かったのが奇跡のようなものだ。
世界史と漢文が全然できなかった。世界史は当時のセンター試験で100点中21点という驚異の結果を叩き出した。驚異、というか、私には当たり前の結果で、模試でもまあ10パーセントくらいだった。
目も当てられない、とはこういうことを言うのだろう。
適当にマークした方がまだ得点率高いのにね、なんでだろうね、と高校生のときお世話になっていた東大生のアドバイザーの方に爽やかな笑顔で言われた。あの方は、最後まで私をどうにか第一志望の大学にねじ込もうとしてくれて、本当に感謝している。ここではいま語りきれないけれど、高校の先生にも。
漢文は世界史よりはマシだけど、50パーセント取れればいいほうだった。完璧にわかるのはレ点だ、というような状態で、もう本当に、ひどかった。
古文もあまりできなかった。漢文よりちょっとはましだね、という程度だ。
加えて、試験の二次試験で私は泣いた。圧迫面接でもなんでもない。ただの、普通の、緊張感はあるけれど、どちらかというと優しささえ透けて見える、本当に普通の、面接だったのだけれど、わけがわからなくなってしまって私は泣いてしまった。
18歳にもなって、ただ面接をするだけで、小学生みたいに泣きじゃくった。
「落ち着いて、ゆっくりでいいよ」
面接では、ひどく気遣われた。まるで親戚の大人が小さな子どもに対してそうするように。しかし、当時の私はこれから大学生になろうとする18歳だったし、面接をしているのは大学の教授陣だった。
落ちたな。ただそれだけを思いながら、大雪の降る四谷の交差点を渡った。その日はなぜか、すごい大雪で、小論文の試験、静かな1号館、生まれて初めて実際に見たかもしれないシスターのヴェール、シスターも、受験してるのだ、そんなことを思いながら小論文を書いて、書いて、書いたときにも外の窓にはとにかくとにかく雪が降っていたことを思い出して、また泣いた。
補欠合格で、最初は合格してはいなかった。別の大学の哲学科の入学手続きをして、3.11が起きて、翌日私は入学を許可された。あれは慈悲だったのだろうか。まさか、そんなわけもないだろうけれど。
哲学をやったほうがいい。たとえ第一志望の大学ではなくても。あなたはずっと哲学をやりたがっていた。まわりからそう言われて、それなのに私は、第一志望の大学の第一志望ではない学部に進学した。
そして案の定というかなんと言うか、いやになり、哲学をやるためまたしても四谷を去った。中退するまでに、学部の先生方に何度も面談をしていただいた。学部の同級生にも気にかけてもらった。それでも、辞めた。
大変に傍迷惑な学生だ。そしていま、再入学という、これまた枠を取ってしまうのかもしれない枠で、在学を続けている。
入学試験で最下位合格だったであろう、しかも面接で泣いた学生が、結婚して大学を卒業して子どももいて、それほどの時を経たのにいまも大学に居続けている。居座り続けている、と言ってもいいのかもしれなくて、それなのに、私は今日も明日もその先も、たぶん四谷に向かい続ける。
大学入試で泣くなんて、そんなみっともないことをしておいて、大人になったいまでも私は大学で学んでいる。しておいて、ではなく、そんな情けなさだからこそ、こんな歳になってもとくに優れているわけでもなく学問なんか、つづけているのかもしれないけれど。
四谷の交差点は、私が何度背を向けてもとくに変わっていない。朝は眩しくて、帰るときには鐘が鳴る。
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