もうすぐイグナチオ教会の鐘が鳴る

 なんだかわからないまま、歩みを進める。進めている。


 四谷では、毎日イグナチオ教会の鐘が鳴る。イグナチオ教会はカトリックの教会で、神学を学ぶ私からすれば、けっして無関係なところではない。


 毎日昼の12時と、夜、あれは6時かな、教会の鐘が鳴り響く。大きな音だ。四谷全体に、鳴り響いているように感じる。


「神さまを思い起こすため」


 鐘が鳴る理由について、とある方が説明してくださった言葉だ。昔の人達は、仕事をしていてもその鐘が鳴ると手を止める。ミレーの絵画『晩鐘』においても、鐘が鳴っているのだという。畑で仕事をしていた農民の夫婦が、晩鐘が鳴って、手を止め祈るのだ。

 手を止めて、祈る。

 音と一体になっている絵画というもの、とても月並みな言葉になってしまうけれど、すごい。人間の文化はそこまでできるんだって、そう思って改めて目がさめる。


 ほかにも、鐘の音の話。

 たとえばカトリックの幼稚園なんかでは、鐘が鳴ると、子どもたちが「ごはんだ!」と騒ぐらしい。ご飯の鐘ではない、神さまを思い起こすための鐘なのよと、シスターが微笑むさまが目に浮かぶ。


 信仰に生きるひとというのは、なぜああまでうつくしく、明るさに満ちていて、背筋がぴんと伸びているのだろうか。


 と、書いていたら、なんと電車が止まった。総武線上下、中央線上下ともに、完全に運転見合わせ。

 四ツ谷駅が人でごった返している。

 なんということだ。帰りの電車で日記を書き始めて二日目、こんなイレギュラーなことが起こるとは、まさか。


 普段とは反対の人の流れ。どんどんどんどん、改札へ人が集まっている。駅のホームは、新宿に向かう人たちが立川行き中央線に乗り続けているけれど、普段よりずっとしずまっている。普段なら夕方にしずまり返ることなどない四ツ谷駅のホームが、ぽつんと朽ちるみたいに、すこしずつ沈黙を取り戻していっている。

 その現象のかけらだけ感じて、私はそのまま振替輸送へ向かった。振替輸送。実は、初めてだ。


 改札で定期券を見せると、別の鉄道会社のものなのに駅員さんが通してくれる。とてもすんなり、スムーズで、こういうとき情報の共有というのはどうしているのだろうと思いを馳せる。

 もちろん、マニュアルとか、決まりとか、方法とか、そういうのがあるのだろうけれど、それにしたって駅員さんたちは本当に、スムーズだ。手慣れている。仕事をしているひと、プロ、としての余裕を感じる。そしてある種の、職務、言ってしまえば仕事上の権限を有しているひと特有の、さばさばとした、ぱきぱきとした、自信、なめらかな自信も感じる。


 当たり前かもしれないけれども、私が同じ立場だったらきっと混乱して終わりだ。ごったがえす人々をあるべき方向へ導くこと、ちょっと早口になっている人たちから矢継ぎ早に問われる質問に的確に答えること、私だったら、できるはずもない。

 本来だったらこんなところで自分のできなさを想うのもおかしくて、だから、人にはバランスが必要なのだろう。バランスが欠けていれば結局、自分のことばかり語る。


 自分のことばかり語ることの、何がいけないのかというのは、難問だ。結局のところエッセイも日記も主語は私、私で、私はひとのエッセイを読むのもひとの日記を読むのも好き。

 だけども、それは文章というかたちで成されているからかもしれなくて、実際、私はたとえばグループディスカッションのときに話したい、と思っているはずだ。自分の、話を、自分が語る話を、したいと。


 自分の話を、すること。

 自分が、なにかの話をすること。

 そのふたつは本当は違うのかもしれないけれど。


 運賃を払ってないのに、普段は乗らない電車に乗る。もちろん振替輸送という、正当な、認められた方法によって。

 だけども普段はけっして、他の鉄道会社の定期券を見せたところで電車に乗せてくれるわけもない。災害のときには他人の車を奪って逃げてよい。緊急のときにはカトリック信者でない人が洗礼を授けてよい。どこの世界にも、そういう、なんというのだろう、いわば例外的なルール、取り決めというものが存在していて、なんだか、人間らしいと感じる。


 とくべつ扱い、ある種の、とくべつ扱い。べつに何か誇れるものでもない。一見なんでもないようなこと。振替輸送、運転を見合わせた路線で普段行き帰りしているから、その路線が止まれば他の路線を、定期券を駅員さんに見せるだけで利用できるという、なんだか当たり前のようなお話で、でも、本当に当たり前なのかな。


 自分で運賃を払って勝手に帰れとか、歩いて帰れとか、そうはならないということ。人類がその考え方を身に着けたのは、いったいいつのことなのだろうか。


 そして、私がこうしてとくべつ扱いについて書いている、そのおおもとには、事実としての「人身事故」がある。

 言葉にしてしまうと本当にこれだけで、だからこそ、狭く虚しく、不甲斐ない。

 それは、急に雨が降ってきたのとは違う。嵐で運転を見合わせるのとは違う。

 ひとの現実がある。だれかの、ひとりの、そのひとにかかわる、ひとが、そこにいる。


 責任、ということを考える。哲学でも神学でも、よく考える。

 見て見ぬ振りなどほんとはできない。なのに、どこか遠くなってしまっているのは、どういうことなのだろうか。


 ひとりのひとの現実を考える。

 そのひとの、ことを考える。


 もうすぐイグナチオ教会の鐘が鳴るはずだ。祈りましょう、きっと教会ならば司祭がそうおっしゃりみなが祈る。そのなかで、不器用でもまだ信仰がなくても祈ろうなんてそれこそ越権行為なのか。


 飛び越えたい。無関心を。つめたさを。おまえのことなんか、おまえの生きざまなんか、いのちなんか、どうでもいいよって、そんな、個人を尊重したいという気持ちがゆがんでゆがんで煮詰まったような、無関心、そんなものは、飛び越えてしまいたくて、でも、でも、だから嫌われるのかもしれないよな。


 人間には、少し休みが必要だ。

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