帰りの電車で書く日記

柳なつき

ディストピアのひかりのようだ

 朝、保育園に子どもを送っていくときのひかりがどこか煙のようで、なぜこんなにひかりがくすんでいるのに眩しいのか、毎朝考えている気がする。


 ああそうだ。ひかりが、書きたかったんだな、ひかりが。そう思ったところで、日常は容赦なく押し寄せる。

 保育園も駅も大学も賑やかで、それらはいつも間違いなく現実の色に、色づいている。しかし、単なる情景に見えるなかでも、各々がほんとうは各々のひかりを頭のうえだか心のなかだかあるいはからだのどこかに、ひっそりと隠しもっていることを、忘れてはならないとも思う。


 結婚していて、子どもがいて、大学を卒業したのに、またしても大学に通っている。そしてまだ小説を書いている。そんな日々のなか、電車のなかで、文章を書くことにした。

 しばらくエッセイ的な作品は載せていなかったし、書いていなかった。その時間を小説にあてていたし、そうするべきだとも思って、そうしていた。

 行きの電車の時間は、おおむね用事にあてていた。メールやライン、SNS、あるいは本当にこまごまとした日々の営み。


 でも、帰りの電車はなんだかいつも気が抜けて、スマホのゲームをやったり暮れていく東京の街並みをぼんやり見ていた。それがべつに悪いわけではない。

 だけども、その時間で文章をつづることもできるし、まあ小説をやったほうがいいのは本当かもしれないのだけれど、たとえば暮れていく東京の街並みを見て浮かんでは消えていく思考がある、だったら、べつにまあ文章をつづるのも、いいのかもしれないと、思った次第だ。


 考えが浮かんでは消える。すべてを捉えることが正しいとは、いまは思わない。ただ、自分のなかに響くものを、自分の人生の音楽を、書きしるすことはまあありなのではないかと、思ったりする。


 電車に乗る時間はかぎられている。乗り換えもある。だから、つらつらと書く文章になってしまうかもしれない。

 価値があるのかなんて、自分で問い始めてしまったら、結局自分の文章にも思考にもなんの価値もないというところに落ち着いてしまう気がする。外へひらくのはいつだって怖いことだ。

 

 だからこそ、私はこの文章を公開する。日々のことを、日々において記しているから、だから、一応。とでも言わんばかりに、「日記」という名前をつけて。読んでもらえればいい。なにかを受け取ってもらえばいい。願わくは、なんらか価値があればいいね。

 そんなのは、祈りというにも傲慢かもしれないけれど。


 朝の光は、まるでディストピアにそそぐようなひかりだ。いつかこういうひかりを私も自分の小説で出したいと思う。ディストピアはいまや私のもっとも取り組みたい、そういうもののひとつになった。もっとも本質的なものかもしれない。

 そこではきっと、ひかりはけぶる。そのひかりが最も眩しいものだと、私は信じてる、と、言い切るのも、危うさを感じる。信じる。ふしぎな言葉だ。強さにもなるし、危うさにもなる。


 ディストピアにそそぐようなひかりを、日々受けている。ここは本当にただしい世界だと言い切れるのか。

 神の福音、資本主義、現代国家、多様性、ジェンダー観、SNS、ありとあらゆるモノ、価値観のあふれる世界で、おぼれそうになりながら抗おうとして、でもやっぱりおぼれてる気がするな。


 私はどこからもはみ出てしまう。それが実感だ。


 今日も青ペンと消せるボールペンを忘れて、わざわざ地下一階のお店で買った。アームレストをなくした。関係ないかもしれないけれど、いつも私はこんなくだらない生産性のないことばかり繰り返している。


 生産性のないことばかり、繰り返している。そのことでいまは必ずしも自己卑下をしようとは思わない。でも、それが私の現実だ、まあ生産性がなくてなくてなくて。

 いったいそのことを生かしていけるのか、これから、生きていて。だれかに謝るのではなく、自分をささげて、生産性がないことで、最後はひとに向けて微笑むことができるのか。

 そんな神聖さ、いまの私からはやっぱり程遠いけれど。


 ディストピアに、そそぐようなひかりが、私のばかみたいな在り方を、祝福してくれているような気がする。

 私だけではない。すべての、価値がないとされたひとびとへ。


 いつまでもいつまでも繰り返している。ばかみたいで、ほんとうに、ばかそのものなのかもしれなくて、だけど、だけれども、泣くこと咽ぶこと打ちのめされること、さまよい悩み叫ぶこと、その果てにこそすべてのひかりが集まるのだと、危ういかもしれないかもしれないけれどやっぱり、信じさせつづけてくれますか。


 すべてのかなしみは、ディストピアのひかりのように輝くのだと、あるいは、輝きうるのだと。

 そんなこと、やっぱり、ばかみたいに信じながら、私は歩み続けることしかできないようだ。どうやら。夢見ていた立派なひととは、まあ、ずいぶんちがったこと。立派ではない。すごくもない。どちらかというとみっともない。なのに、私はこの在り方しかできないようで、この在り方を選びとっているみたいだ。

 ほんとうに、不思議だ、気が抜けてしまいそうなほど笑ってしまいそうなほど。


 そして、電車が最寄り駅に着いた。ひかりはどうして煙るのだろうと、そんなこと、満員電車の端っこでひとを押しつぶして押しつぶされて考え続けているのだ。

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