知恵は、何のために

 人間を、人間とも思わない視線が嫌いだ。人間を、人間とも思わない視線が苦手だ。嫌いで、苦手で、とても痛い。


 ここのところ電車日記で、学歴とか、お金の話をしてきた。本来踏むべきいろんな論理をすっ飛ばしてしまうかもしれないけれど、私が、学歴やお金を通して本来に嫌悪しているのは、人間を、人間とも思わない視線そのもののほう、なのかもしれない。


 学歴やお金というのは、とかく、人間どうしの分断が起こりやすい。

 うえか、したか。相手より、優れているか、劣っているか。


 くだらない。ほんとうに、くだらないと思う。

 言葉が強すぎるかもしれないけれど。ほんとうに、ほんとうに。


 知恵は、人間を自由に、幸せにする。

 富は、人間を豊かに、幸せにする。


 たとえば、知恵について。

 これはあくまで、一学部生としての、現状での単なる感想のようなものだけれども。


 私は、社会におけるいわゆる学歴の過剰な価値には懐疑的だけれど、大学で行う学問には、おおいに価値があると思っている。

 勉強なら、大学でなくてもできる。独学でも、全然、できる。独学のほうが、むしろいい場合さえあるかもしれない。


 だけど、学んで問うことは。

 やはり大学だからこそ、できることだと思う。


 問うためには、問うための学びが必要だ。問うための学びとは、体系的であること、批判的であること、だと感じている。


 体系だった学びを独学で行うのは、率直に言って、非常に難しいことだと思う。

 体系だった学びを独学でできるというのはつまり、自分でカリキュラムを立てられるということで。

 だけどもここで矛盾が生じる。カリキュラムというのは、学ぶ内容を熟知していなければ、とてもとても立てられない。

 初学の分野のカリキュラムを立てる、というのがまず矛盾している、ように思うのだ。


 だから、カリキュラムが、体系が、体系だった学問の場としての大学が。必要となってくる。

 

 そして、学問としての学びには、かならず批判がつきまとう。

 これはもちろん、相手を攻撃するとか、あら捜しをするということではない。

 批判するところは批判して、自分の論を組み立てねばならないし。もちろん、自分の論にも、たっぷりと批判を受けねばならない。


 大学での学問の特長は、おそらくもっともっとあるだろう。私がまだ気づけていないものも含めて。

 だけども体系だっていること、批判的であること。このふたつについては、やはり大学ならではだと、現段階でも思っている。


 学ぶことなら、どこでもできる。

 だけど研究する、創造的に学んで問う。大学での勉強は、きっと、だからこそ意義も価値もあるのだ。


 電車がもうすぐ着いてしまう。はじめと終わりで、すこし違う話になってしまったかもしれないけれども。

 大学では、確かにある種の知恵が得られるようだ。


 知恵は、何のためにあるのだろう。


 他者のために生かす。生かさなくてはと思い、それ以上に、生かしたくなる。

 ほんとうの知恵とは、そういう性質のものではないかと思うのだ。ひとと比較したり、ましてやひとを見下したり。そういうための、ものではない。


 知恵は、まず自分自身を幸せにする。その意義も価値も、けっして否定はしない。むしろ、自分自身がまず幸せになることは、とってもとっても大事なことだ。

 だけども。それはむしろ、出発点なのかもしれない。長い長い旅路に向かうための、ひとつの。


 そして。突き詰めれば、きっと。

 ひとを生かすために、愛するために、幸せにするために、知恵はある。

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