明るい時間、昏さの輝き

 四ツ谷駅にいても、イグナチオ教会の鐘が聞こえることに気がついた。

 不器用なので、イヤホンが外れて、駅で立ち止まってつけ直していると、気がついた。


 鐘の音。交差点ではイヤホン越しでも強く響いてきて、普段はそのまま帰るのだけれど、今年ここに来るのがおそらく最後だからか歩きながら少し振り返ってしまった。

 でも、人通りもあってちょっと危なかったかもしれないから、これからは不用意に振り返らずに立ち止まって振り返りたい。


 今年も終わる。年を重ねるごとに、年が暮れるのが凍えるように沁みなくなってくるのは、成熟なのか、あるいはただ鈍くなってきているだけなのか。どちらかと言うと、後者な気がする。


 クリスマスは結局、ミサには行かなかった。夫とも相談して、まだ子どもも小さいし、やはりちょっとやめておこう、と。

 来年以降は行きたいね、と話した。


 もともと、クリスマスイブは出かける予定で、スカイツリータウンに出かけた。

 前日までに予約のケンタッキーとケーキの受け取りを済ませておいたので、わりと余裕をもって行けた……はずなのだが、クリスマスイブのスカイツリータウンというのはやはりめちゃくちゃな混みようで、駐車場に入るのにめちゃめちゃ時間がかかってしまった。


 だけども、すみだ水族館は思ったよりはゆったりと見ることができた。

 子どもにとっては初めての水族館。ずっと水族館や動物園に連れて行きたくて、せっかくなら、と思ってクリスマスイブのお出かけの日にした。

 魚やペンギンを指さしては、不思議そうにこちらを振り向いていた。大きくなったものだと思う。

 私は、くらげの水槽がきれいだと思った。相変わらずああいう水槽はじっと見てしまう。


 水族館の後、休憩がてら、ゴディバに寄った。スカイツリータウンは確かに混むのだけれど、休憩する場所が多めに用意されていて、わりと座ることができる印象だ。

 ゴディバのドリンクとチョコを食べながら、子どもにもおやつをあげて話していると、ふいに夫に写真を撮られた。後ろの窓ガラスから私に光がさしていたようで、後光のようだったらしく、「聖母さまのようだったよ」と言われた。その表現が適切かどうかはちょっとわからないのだけれど、とにかく私たちは笑った。


 そしていつもお世話になってる大好きな文房具屋さんで、万年筆をプレゼントしてもらった。最近手紙を書く機会が増えており、せっかくなら万年筆で書けるようになりたい、と思っていたのだ。

 いろんなインクがあることにびっくりした。カラフルだ。いずれはカラフルなインクも欲しいけれど、まずは黒いインクで、とりあえず万年筆で文字を書けるようになりたい。


 そのまま移動して、チーズやオードブルを買い込み、帰って家族でクリスマスパーティーをした。


 文章にしてしまえば、あたたかく、キラキラとしている。あたたかくてキラキラしていることは、まったくその通りだし、否定する余地がない。


 それでも、心が太陽のようにぴっかりと輝くことはけっしてないのはなぜか。どのようなときにもどのような時間も、どこか息をつくかのような眼差しで、感じとっているのはなぜか。

 ありあまるほどの、自分にはもったいないほどの、時間、かかわり、ある種の生き方。


 イグナチオ教会の夜の鐘を聞いたときの、あたりの暗さ。図書館から景色を見たときの暗さ。暗さ。暗さ。私はやっぱり、昏いひかりばかり見続けている気がする。


 明るいのは、すばらしいことで、明るいひとに明るくいてほしい。ほんとうに、ほんとうに、明るいひとがいるから、明るさがあるから、この世界は輝いて生きる。

 明るさはたぶんいのちに欠かせないものだ。豊かさにも。

 だから明るくなれないことにはやはり一抹の申し訳なさもあって。


 だけども。こんなにも、温かく輝く、もったいないほどの時間を手に入れてもなお、いちど昏さに向かった心は、やはり完全には明るさに向いていかないらしい。


 明るく温かく、やわらかく優しく。

 そう生きて。生きながら。

 この世でもっとも昏いところに目を向けて、目を俯ければ、もっとも昏いところに生きることができたなら。


 それは、理想かもしれないけれど。

 もしかしたらそれは、すごく、ものすごく難しいことかもしれない、けれど。


 昏いままだって、明るくなっていい。昏いままだって、まともという意味の普通を目指して、普通になっていったっていい。

 そして、明るくて普通の在り方をしながら、昏いままだって、きっといい。


 もう、なぜ歩み始めたのかも朧げになってきた。泣いて、泣いて、辿り着いたのは、四ツ谷と明るいところだった。

 もう簡単に泣きはしない。けれど、ただぼろ切れのように、進みたい。どうせ、取るに足らない人間だった。プライドも自信も捨てて、それでも歩み続けることができたなら、いつかは昏さがみえるだろうか。


 もっと。もっと、もっと、もっと。ほんとうの。昏さ、というものと、その輝きと、顔と顔を合わせて向き合える日はくるのだろうか。

 

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