やがて日常になる

01

 晴の髪を切って、服を買いにいった。

 短い髪はすぐ洗えるし乾くし、白じゃない服は汚れが目立たない。楽だ。

「お母さん、おこらないかなー」

 言いつけを破ったことを晴は気にしていたけど、もうその必要がないんだから大丈夫だろう。

 思った通り、ねえさんは何も言わない。もういないのか、それともどこかに隠れているのか、おれたちにはわからなくなってしまった。とにかく、もう髪を伸ばしたり、白い女物の服ばかり着たりしなくてもよくなったというのは、おれたちにとってはいいことだ。

 晴は以前と同じようにまた小学校に通い始めた。突然男子っぽくなったことがどう出るかな、と心配したけど、案外普通に受け入れられたらしい。あっさりイメチェンを果たして日常に戻ったようで、おれはひとまず胸をなでおろした。

 一方、おれの方もやることが山積みだった。分家と崇叔父のところが全滅しているから、相続だのなんだの大変なことになっている。結構な金額が動くし、こういうときだけ連絡をとってくる親戚(自称も含め)もいる。分家と交流があったという弁護士の先生がいなかったら、どうなっていたかわからない。その人にかなりの部分を放り投げて、なんとかかんとか暮らしている。

 最近、日常を維持するというのは大変なことだな、みたいなことを考える。一日が終わって何もない自分の部屋に戻ると、おれはこのままでいいのか? みたいなことも考える。答えはなかなか出そうにない。今は目の前のことで精一杯だ。


 晴の髪を切る少し前、志朗さんがうちに来た。

 一人だった。どう考えたって黒木さんに車を出してもらった方が早いし楽だろうに、わざわざ公共の交通手段とタクシーを乗り継いで来たらしい。チャイムの音を聞いたおれが玄関を開けると、門の手前に志朗さんが立っていて、まだ何も言わないのにこっちに向かって手を振った。

「聖くん、ひさしぶり」

 本人の申告どおり元気そうだ。一応こないだまで入院してた人だから、何事もなさそうでほっとした。いわく、暇すぎて病院内で仕事をしていたというから、本当に何ともなかったらしい。黒木さんに殴られたところが一番重症だったみたいだ。

「シロさんひとりー? くろきさんは?」

 晴は嬉しそうだけど、残念そうでもある。黒木さんのことを気に入っていたから、会えるだろうと期待していたらしい。

「ごめんねー、危ないから置いてきた。黒木くん、あれに覚えられてるかもしれないからね」

 志朗さんはそう言うと、ふっと山の方角に顔を向けた。

 本家と分家と、それから崇叔父の家にも回ってもらった。志朗さんの見立てでは、とりあえず、ばたばたと理不尽に人が死ぬ段階は終わったらしい。

 山から来たものは山に帰った。晴にももう、何も憑いていない。

 分家や崇叔父一家、それにねえさんやサヨさんについては、檀那寺でちゃんと供養してもらった方がいいだろうと言われた。志朗さんがさっぱり消してしまうよりも、その方がいいという。

 供養と言われて、おれはもうひとつの大事なことをようやく思い出した。

「そういえば阿久津さん、どうなりました?」

「そうだ! 阿久津さん、あの人マジで何!? 全然いなくなってくれないんだけど! なんかもう、うちになじんでるし……」

 志朗さんは、阿久津さんに対してはもう諦め半分という感じらしい。申し訳ない……そのうちちょっとずつ削ると言っていたから、いずれは彼女もいなくなるのだろう。

「夜になると、どう?」

「今のところ何にもないっす」

 サヨさんはもう家の周りを回らない。正直、違和感を覚えている。彼女が来なくなった夜は妙に静かだ。ともかく今のところは平和で、でも、

「終わってはないよ」

 と志朗さんは言う。

「元凶は山に戻っただけで、いなくなったわけじゃないからね。ボクにもあれがどういうものかよくわからないから、悪いけどこれ以上は何もできない。よもうとするとぼやけるし、そもそもリトライしたくないな」

「今までみたいに過ごせって言ってましたけど、あれも継続っすか?」

「そうだねぇ。刺激しないように過ごした方がいいと思う」

 そう言うと、志朗さんは一度、深く息を吐いた。

「悪いけど、ボクももうここには来れないよ」

 そう言った声が妙に掠れていた。

「ああいうのとは関わりたくないけぇ、聖くんから連絡があっても無視するよ。もしどうしても必要になったら、アポなしで直接うちにおいで。ボクはたぶん当分あそこから引っ越さないし、もし引っ越してても同じマンションの中にはいるだろうから、そしたら管理人室で聞いてね」

 一瞬突き放されたようでぎょっとしたけど、すぐにこれが精一杯なんだと気づいた。おれは志朗さんが住んでるマンションと、そこに着くまでの時間のことを考えながら「わかりました」と答えた。その後に「ありがとうございます」と付け加えると、志朗さんはまた、以前電話で話したときみたいに、

「気をつけてね」

 と言った。

 今回の料金は割ったガラスと相殺だという。つまり連絡だけじゃなく送金まで拒まれたということだな、と思った。来たときと同じようにタクシーを呼んで、志朗さんは帰って行った。

 よく晴れた冬の日だった。


 志朗さんに「気をつけてね」と言われたとき、おれは昭叔父からの手紙を思い出していた。

 あの手紙には、おれたちを責めたり恨んだりする言葉がひとつも書かれていなかった。

 おれは何度も手紙を読み返した。結局おれは、サヨさんのために戸を開けることはしなかった。叔父に託されたのは、「長く生きてほしい」ということだけだ。

 だから、なるべく長く生きたい、と思う。


 晴とふたりぼっちになると、この家はますます広い。というか広すぎる。

 近い親戚は全滅してしまったし、この家に大人数が集まることはなくなるだろう。いずれ結婚とかなんとかする日が来て、親族が増えたとしても、本家の部屋が全て埋まるようなことには多分ならないだろう。

 特に夜はそう思う。この家には使われていない部屋が多い。暗い場所もたくさんある。

 夜九時を過ぎると、もう晴は寝る時間だ。憑き物が落ちてから晴は前より寂しがり屋になって、一人で寝付けなくなった。

 その夜もおれが居間で本を読んでいると、風呂場から寝る支度を終えた晴がやってきて、「きっちゃん、ねよう」と言う。

「いいよ」

 そのうち寝かしつけも卒業するだろうと思いながら、おれは立ち上がる。

 廊下は寒い。やっぱり無駄に広い家だ。もっと小さい家に建て替えられたらいいのに。

 そんなことを考えながら晴と玄関前を横切る。そのとき、突然背中に寒気が走った。

「きっちゃん」

 晴が振り返りながら、おれの手をぎゅっと握りしめた。


「だれかいるよ」


 もう片方の手は、玄関を指さしている。

 扉一枚隔てた向こう、曇りガラス越しに、ぼんやりとした影が見えた。

 姿形のよくわからないそれは、なぜだろう、笑っていることがはっきりとわかった。


〈『白は日の色』 了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白は日の色 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ