3 あなたにだけは助けられたくないわ
初めてその姿を見たとき、ぬいぐるみが椅子の上に置かれているのかと錯覚した。
こじんまりと椅子に座り、細く華奢な指先で携帯小説を両端から支え、誰もいない部室でひとり、静かに読書を嗜んでいる。蒼生が部室に入ってもなお身動ぎせずに過ごしているので、誰か人がいると一瞬認識できなかった。
肩まで掛かるふんわりとした髪は明るいブラウンで、前髪の隙間からは慈しみを含んだ瞳を覗かせる。見たところ平均よりも僅かに背丈が低いらしく、幼さの残る顔も相まって、見たところ中学生かと疑ってしまった。
しかしその疑いを晴らすかのように、健やかに発育した身体は本人の意思にかかわらずその全てを主張していた。
出るところは出ていて、シュッとするところはシュッとしている。ふんわりとした雰囲気に魅了され、思わず抱きつきたくなるようなその容姿は……何というべきか、男子にとっては目に毒だと思った。
「マジかよ……」
蒼生は、一度も実物を目の当たりにしたことはなかった。
そもそも他人に興味がないからというのもそうだが、教室も離れていて、内部生と外部生とでは授業を合同で受ける機会がなく、月一である全校集会は、マンモス校特有の体育館に敷き詰められる現象のせいでそれどころではない。
でも、見ればすぐに分かった。目の前にいるこの人物こそ、"なごみ姫"と謳われる彼女なのだと。
遠巻きに眺めているだけなのに心が洗われるような、殺伐とした空気を一瞬で和ませてくれるような、常人とは明らかにオーラが違った。
(確かに。アイツらが直視しづらいっつってたのも頷ける)
クラスの男子が言っていたことを思い出していると……澄み切った麗らかな瞳がこちらに向いているのに気づく。さっきまで携帯小説に向けられていたはずのその眼差しは警戒の色を含んでおり、入り口で立ち尽くしている蒼生の顔を怪訝そうに捉えていた。
「あなたは?」
「あ、えっと……千鶴ちゃんにここに来るよう言われて。生徒相談部で合ってる?」
「ちづるちゃん? ……ああ、逢瀬先生ね。ええ、合ってるわ。とはいえ、まだ仮屋に過ぎないけど」
「先生から話は聞いてるわ」と落ち着いた口調でそう続けると、手元の小説を閉じ、軋む音とともに天香は立ち上がる。その一連の所作は素人目で見ても洗練されていて、さり気なく見せつけられたお淑やかな立ち振る舞いに心が奪われてしまう。
だからだろう、天香が部室奥にある席に来るよう催促していたのに、気づくのが半歩遅れてしまった。
「? ボーっとしてどうしたの?」
「え? あ、あ~いや、なんでも」
咄嗟に冷静さを取り繕うが、かえって訝しげに思われてしまっただろうか。しかし天香は気にする素振りを見せなかったので、このまま強行突破する。
「先生なら職員会議が終わり次第いらっしゃるわ。それまではここで座って待ってて」
「はいよ」
案内された客席に着くと、蒼生は古めかしい木製の椅子を引き出し、その座面に腰を下ろした。
「……なんかこれ、ガタガタするんだけど」
「ごめんなさい。余った備品を借りてるから仕方なくて」
去り際に申しわけなさそうな表情で告げると、文句を垂れる蒼生を横目に、天香は自身の席、蒼生の左斜めの席に戻った。……え、普通正面に座らない?
しかし彼女は気にせず読書を再開する。客人などお構いなし、ただひたすら自分の趣味に没頭していた。
(ん~なんか距離感じるんだよなぁ)
初対面だから仕方ないといえば仕方ない、が、もうちょっと挨拶程度に雑談しようとか客人をもてなそうとかないんだろうか。いくら俺でもそのくらいはする。なんならバイトで培ったお客様スマイルでもキメてやろうか? 店長のお墨付きだぞ?
と、居心地の悪さについそんなことを考えていたところ、天香は小説に視線を注いだまま「ありがとう」とだけ溢した。
「なんだよ急に?」
「あなたが名前を貸してくれたおかげで、創設に必要だった部員数に達したの。部員がもうひとりいないと許可を出さないって話になってたから。感謝してるわ」
「……にしては、少々薄情な気がするんだが」
「それだけの関係だからよ。親しくする理由がない相手と仲を深めるなんて、意味がないでしょう?」
「淡泊な奴だな……」
口ではそう悪態をつくものの、元々在籍するだけという条件での入部、蒼生としてもありがたい相手だ。
「せっかく同じ部の仲間なんだし、もっと仲良くやろうぜ!」みたいな熱血系が相手ならと内心危惧していたが、これなら部に顔を出さなくても変に気を遣う必要もない。
……ただ、ひとつ気になるといえば、この学園の人気者だという天香がこうも非友好的なこと。“なごみ姫”と謳われるからには、誰にでも隔てなく優しさを振りまく女神を想像していたのだが。
(……まっ、俺が気にすることじゃないか)
どうせ話すのもこれっきりだ。仲を深める必要がないのだから、周囲から聞き入れた不確かな噂にいちいち疑問を抱いても意味がないだろう。
それに名前はもう貸したのだから、あとは人助けするなり生徒の相談に乗るなりどうぞ勝手にやってくれ。
(くぁ……眠ぃ)
寝不足だからか、学園だとどうしても睡魔に襲われてしまう。こじんまりとした部室は広々とした教室よりも閉鎖的で、不思議とまぶたが重くなる。
頬杖を突き、蒼生は押し迫って来る睡眠欲に身を委ねようとして―――
「―――ごめんね~! ちょっと遅れちゃった~!」
直前、片引き式のドアを開いた衝撃と共に千鶴が現れ、静寂に慣れ切っていた蒼生は驚きのあまり頬杖を解いてしまった。突然背中越しに轟音が響き渡るのは、かなり心臓に悪い。
これには天香も驚いたようで。小説から顔を上げると、眉をひそめ、溜息交じりに注意する。
「逢瀬先生、できれば音を立てずに入室してください。心臓に悪いです」
「いやあごめんね? 会議が長引いちゃったから焦っちゃって……ったくあのジジイ共め、金ならたんまりあるんだから教師の給料くらい倍にしろっての」
ひとりボソッと愚痴を吐く千鶴だったが、天香に向けられていた視線がだんだんと揺れ動くと、伝播するように全身をプルプルさせ始めた。
「逢瀬、先生?」
「……ぁああ駄目! やっぱ我慢できないぃ~!」
そしてついに我慢できなくなったのか、凄まじい勢いで椅子に座る少女に駆け寄り、困惑する当事者に構うことなく一方的に抱きついた。
「あ~もう可愛いぃ! このままお持ち帰りして部屋に飾りた~い!」
「……いつも言ってますが、事ある毎に抱きつくの止めてください。ちょっと、いやかなり暑いです」
「いいじゃんいいじゃん! こうして可愛いものに飛びついてる自分に酔いしれてれば、もうすぐ三十路になる事実から目を背けられるんだもん!」
「……それ、自分で言ってて悲しくなりませんか?」
両腕をがっちりホールドされているせいで身動きが取れず、天香は、目の前で駄々こねる教師を呆れたような眼差しで見つめていた。
紛れもなく、威厳という言葉と最もかけ離れた大人だ。が、今更な事実だろう。若干置いてけぼり状態になっていた蒼生は、その光景を遠巻きに眺める。
眉間に皺を寄せて、目を澄ます横顔すら美しいと感じられる。恵まれた容姿に勝るとも劣らない仕草や所作は、どこかの令嬢なのかと勘繰ってしまうほどに。
大きな子供に抱きつかれていてもそれは相変わらずで。凛とした佇まいのせいで、千鶴がかえって滑稽に見えてしまう。
(なんか、あれだな。この既視感……テディベアだ)
眺めているだけで感性を揺さぶられるというか、無性に愛くるしくなる存在。束の間の安らぎを与えてくれるそれに、天香は瓜二つだった。
千鶴がどうして飛びついたのかと疑問に思っていたが、成程、確かに魅了されるのも頷ける。ここが公共の場でなければまだ擁護できただろう。もう遅いけど。
「ああそうだ。二人が一緒ってことは、もう挨拶は済んだ感じ?」
ようやく天香から離れると、千鶴は気を取り直したようにそう尋ねてくる。その隣では、抱擁から解放された彼女が、純白のブラウスと慎ましいスカートにできたシワを丹念に正していた。
「いや、してないけど」
「ええ? じゃあなにしてたの?」
「席に案内されて、ちょっと雑談したくらいか」
「後は、名前を貸してくれたお礼を少し」
「いや、せめて自己紹介くらいはしなよ。キミらもう高校生でしょ?」
「別に、今日だけの付き合いなんだからするだけ無意味だろ」
「明日以降も関わるなら、話は別ですが」
「えぇ……人付き合い不器用過ぎない?」
社交辞令を弁えない二人に、千鶴は呆然とする。
後頭部を搔きながら溜息をつき、「ったくもぉ」と呟くと、依然として小説に視線を注ぐ天香の肩へと手を置いて、蒼生に聞こえないよう小さく囁いた。
「天香、人助けがしたいならまずは自分から心を開かないと」
「そ、れは……」
華奢な瞳が小さく揺らぐ。その動揺を逃すまいと、千鶴は説得を続けた。
「親御さんみたいになりたいんだろ? 相手に信頼してもらいたいなら、まずは自分が、じゃないかい?」
「……分かって、ますよ」
痛いところを突かれたからだろう、天香は拗ねたように頬を膨らませるが、千鶴に反論することなく渋々ながらに頷く。
悔しさを押し殺すように唇をキュッと結ぶと、ゆっくりと携帯小説を閉じて腕を組み、人差し指で髪先を弄りながら蒼生へと向き直った。
「? なんだよ?」
「……一年一組、一色天香です。よろしく、お願いします」
「へ? お、おう……よろしく?」
そう返事しつつも、頭の中では疑問符が浮かび上がる。何も知らない蒼生からすれば、二人がコソコソ話し始めたかと思うと今度は突然自己紹介されたのだから、戸惑うのも無理はなかった。
両腕を胸の下で組んでいじらしく髪先を遊ばせる天香に、蒼生が違和感を覚えていると……その視線を僅かに上げて目の前の男子を捉える。
「次、あなたの番よ」
「……俺もやれってか」
「ほれほれ男子~、美少女に恥かかせる気か~?」
「おい野次馬。ガムテープで塞ぐぞ」
無邪気に揶揄ってくる千鶴に嫌気が差すが、これ以上言い返しても変に刺激するだけだ。腹底で沸く苛立ちを抑えると、蒼生はうなじに手を回しながら煩わしそうに答えた。
「一年十一組、長雨蒼生。よろしく」
「……え?」
名前を告げた途端、天香が目を丸くして声を漏らす。……え、何か変なことでも言っただろうか?
疑問に思い蒼生が片眉を上げていると、次の瞬間、しばらく見開かせていたその目はキリっとした目つきへと変わり、警戒色をより一層濃くした。
「成程、あなたが長雨くん……」
そう独り言ちると、天香は席から立ち、小説を片手に部室を後にしようとする。
これには千鶴も予想外だったようで。慌てて椅子を引いて立ち上がり、去り行く背中を声で引き留めた。
「ちょっ! ど、どうしたの天香?」
「すみませんが、彼の名前を借りる件はなかったことにしてもらえませんか?」
「ええ!? これからやっと部活動を始められるって時になんで!?」
「他の人なら問題ありません。……でも、長雨くんなら話は別です。私が納得できません」
肌を刺すような香りと共に天香は振り返り、席に座ったままの蒼生に嫌悪を含んだ眼差しを向ける。その睨みはまるで親の仇のようで……
一転して敵意を剥き出しにし、訝しげな様子を見せる蒼生にこう告げる。
「私、あなたにだけは助けられたくないわ」
その言葉を最後に、天香は部室を去って行った。
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