5 あんな奴なんて大嫌いよ
昼休みを終えると、午後の授業が始まる。
この時間帯は魔性だ。空腹を満たした影響で身体が次第に安らぎを求め、そのまま居眠りする輩が続出する。
そのため、どの教室でも居眠りムードが漂う。退屈な授業を受けていればその傾向も尚更だろう。
しかし今日に限って、とある教室では例外的に空気がピりついていた。
普段なら居眠りするであろう男子生徒も息を潜め、いつも退屈そうに授業をする年配教師ですらその険しい雰囲気に背筋を伸ばしている。
呼吸すら許されないような緊張感が漂っている。教室内の生徒らは、張り詰めた空気に気圧されつつも、声を潜めて囁き始めた。
「(な、なんかさ……空気重くね?)」
「(なんかもなにも、明らかにそうだろ)」
「(てかあれしかないよな、原因って)」
各々の視線が自然とひとりの生徒へと注がれる。
その先にいるのは、我が学園が誇る美少女様。“狷介孤高のなごみ姫”と称される一色天香が、普段の無機質な表情を崩し、頬を膨らませたまま、苛立ちを露わにして頬杖を突いている。どう見ても不機嫌だった。
「(あんなに不機嫌な一色さん初めて見た……昼前まではなんともなかったのに)」
「(教室に戻って来てからだよな。なにがあったんだよ?)」
「(あ、私たまたま食堂で見たんだけど、なんか男子と揉めてたんだよね。確か……長雨って男子と)」
「(……
長雨という単語を耳にした瞬間、周囲の目つきがガラリと変わる。
内部進学が大半を占める英怜学園における数少ない外部生であり、これまで一位をキープしてきた天香の努力を嘲笑うかのようにその席を奪った張本人。
授業を真面目に受けず、捻くれた性格から教師と揉め事を起こしているという話は、遠く離れたこの教室にも届いていた。
「(アイツのことだ、失礼なことを言ってうちの姫を怒らせたに違いない)」
「(全く、俺達が軽々しく話しかけていい存在じゃないのにな)」
「(そうそう。遠くから拝めるだけで十分すぎるのにね)」
この学園において、一色天香は絶世の美女だ。
麗しい美貌とそれに勝るとも劣らないきめ細かい素肌、甘さたっぷりのミルクに落ち着いたブラウンが合わさったような髪色を兼ね備え、ふんわりと艶めく髪が揺れるたびに柔らかい香りが舞う。
手先から足先と全てに至るまで魅惑的な女子と同じ教室で授業を受けられるのは、まさに奇跡と呼んで差し支えない。
仮に卒業まで一度も話せなくてもいい。毎日そのご尊顔を拝むことができる権利を享受できただけで、同級生は皆満足していたのだから。
だというのに、そんな美少女の機嫌を損ねるような真似をした大バカ野郎が現れた。
和やかな雰囲気だった教室は様変わりし、一触即発の臨戦態勢へと変貌を遂げた。となれば……目を合わさなくとも、ひとりを除くクラス全員の意見は一致する。
「「「「(長雨絶対〇す)」」」」
しかしそんな雑音など知らず存ぜず、天香は頬杖を突いて頬を膨らませていた。
確かに、クラスメイトが感じているように機嫌が悪いのは事実だし、その原因が蒼生であるのもまた事実だ。
だが怒っているのは、意地悪されたことに対してだけではない。その原因、頬に米粒を付けるという恥を晒してしまった自分に対してもだった。
(あぁあああっ~~~! なんで自分から隙を見せるような真似をぉ……!)
生まれてずっと真面目を貫いてきた天香にとって、他人に隙を見せるという行為は万死に当たる。
弁護士として働く両親の背中を見て育ち、動揺を見せずに常に凛としている姿に憧れ、次第に真似るようになった結果、今では他人にも自分にも厳しく接するようになった。
隙を見せれば後手に回る。だからこそ、常に上を目指し、佇まいを律し、内外問わず完璧を目指すようになった。
だというのに……
(みっともない姿を、あろうことか公共の場で……し、しかも長雨くんにぃ……!)
ただでさえ一位の座を取られて自尊心がズタズタだというのに、佇まいまでボロが出てしまってはもう無理だ。あまりにも屈辱的で、今まで積み上げてきた理想の自分が崩れそうになる。
今すぐにでも記憶を消してしまいたい。そう思い、目を瞑って懸命に忘れようとしても……思い出すのはあの憎たらしいにやけ顔。
心の底から嬉しそうに揶揄ってくるあの顔が、頭の中にこべり付いて離れない。
(大嫌いっ! あんなっ、あんな意地悪な男の子なんてっ!)
悔しくて堪らない。初対面で知らなかったとはいえ、あの時、あんな男に感謝を告げてしまった。
初めから長雨蒼生だと知っていれば、あの意地悪さをよく知っていれば、辱めを受ける羽目にならなかったのに。
名前を借りる話だって、最初から断ってたのに。
「…………」
天香の表情には、次第に陰りが映る。
両親のような人助けをしたい。そう思ったからこそ、ずっと燻っていた天香は意を決して人助けができる部を創設しようと決めた。
でも現実はそんな甘くなくて、色んな人に勧誘して回ったり掲示板にポスターを貼ったりして呼びかけても誰も頷いてくれない。「なごみ姫と一緒なんて恐れ多い」とか「私じゃ足引っ張っちゃうから」とか、そんな断り文句が大半だった。
勿論、自分に問題があるのだと自覚している。己に厳しい分、他人にも相応の厳しさを求めてしまう。それは疑いようもない事実だから。
かといって他人を甘やかすつもりは全くない。人を助けるのが目的なのだから、献身的になれる人でないと入部させる意味がない。
だからこそ妥協するわけにはいかないし、生半可な覚悟を持って入部してくる生徒が現れないよう、入部条件は厳格にしたつもりだ。
(けどもう二週間。誰も入部しようとしてくれないし、やっぱり自分ひとりで始められるよう先生ともう一度交渉すべきなんじゃ……)
ひとりだと部の運営に負担がかかるのでせめてもうひとりほしいと千鶴が制約を課してきたので仕方なく勧誘活動をしているが、正直、ひとりの方が自由に立ち回れるし、なにより、足枷になる相方がいない方が個人的に楽だ。
なのに、どうしてひとりでやらせてくれないのだろうか? 今までだってひとりでやってこれたのだから、この先だって自分ひとりでなんでもできる自負があるのに。
……でも、一度交わしてしまった約束を途中で投げ出すなんていう半端な真似をしようものなら、今度は自分自身を許せなくなる。それだけはプライドが許さなかった。
(ならやっぱり長雨くんから名前を借りて形式上は取り繕えば……いやっ、それだけは絶対ダメ! あんな人に頼るなら、勧誘活動してた方が遥かにマシよ!)
そうだ。まだ声掛けしていない生徒ならまだいる。活動範囲を広げれば入部させるのに申し分ない生徒が見つかる可能性はあるはずだ。
とにかく、あの男だけは認められない。絶対。断じて。
(うぅううっ~~~! また思い出しちゃったじゃないっ……!)
終始ニヤニヤしているその顔が再び脳裏に浮かび、天香はキリっとした目つきになる。
怒りの眼差しは威圧感を増し、教壇に立っている教師は、その眼差しを一身に受けて委縮してしまう。その矛先は当然蒼生に向いているのだが、周囲がそれを知る由はなかった。
「じゃあ五十頁の三行目からの音読を~……え、えぇ~と……いっし……いや小池さん、お願いできる?」
すっかり気圧されてしまった教師は、順番を一つ飛ばして後ろの生徒を指名する。飛ばされた側からすればラッキーと思うのが普通だろう。
だが、それを許せないのが天香であって、自分の番が飛ばされたことに気づくと、肩を竦めている教師へと意見する。
「先生、次は私ですが?」
「え? あ、ああ、そう、ですね……すみません」
ぼそぼそと頷いた後に謝罪する教師に軽く会釈すると、天香は該当箇所を読み始める。
不機嫌であろうとも取り組むべきことにはしっかり取り組むその姿勢には、周囲の生徒も感嘆を隠せずにいた。
とはいえ一仕事を終えればすぐに元通りになったので、緊迫した空気は最後まで続いた。
チャイムが鳴ると、教師は表情を弛緩させる。まだ音読は途中だったが、読んでいる生徒に中断するよう促して、手元に広げた教材を片付け始めた。
「はい、じゃあ今日の続きは次回にということで。……起立。気を付け。礼」
生徒らが一礼を終えると、教師はさっさと教室を出て行く。重々しい空気から逃げるその背中は、とても小さく見えた。
「……あ、ああ~なんか腹減ったな~。なあ、食堂行かね?」
「あ、俺も……ってさっき行ったばかりじゃねえか!」
「あ、あははっ、男子って馬鹿ね~」
生徒だけが取り残された教室でも、ひとりが風を切ったようにおどけてみせると、他の生徒達も次第に空気を和ませようとわざとらしく笑う。
次第にいつも通りの雰囲気になると、皆が思い思いの休み時間を過ごし始めた。
しかし、やはりと言うべきか、天香だけは機嫌を損ねたままで。
周囲から距離を置いた席でひとり不貞腐れ……だが、小さく溜息をつくと、頬杖を解いた。
(……揶揄われただけでいちいち気にし過ぎよ私。もっと冷静にならないと)
気分転換でもしようと思い、天香はカバンに手を入れると、一冊の小説を取り出した。最近ハマっている恋愛小説だ。
中学の頃、勉強の休憩時間にと思ってお試し感覚で購入してみたのだが、その魅力にどっぷり浸かってしまい、今では少女漫画と恋愛小説だけで本棚が埋まってしまうほどだった。
特に「俺様」シリーズは傑作で、普段はぶっきらぼうな狼系男子がふと見せる優しさに、主人公に感情移入して胸焦がれてしまう。
(はぁ、こんな恋愛がしてみたいな……)
……なんて思ってみたり。
実際興味はある、けど、誰でもいいわけではない。取り敢えず付き合ってみるなんて考え方は、あまり好きではないから。
ちゃんと好きになって、正しい恋をしたい。正しい恋の定義がなんなのかは分からないけど、対等な関係を築いているのならそう呼んでいい、気がする。
(まあ、この学園では無理だと思うけど……ん?)
甘くない現実に諦念しつつも小説を読もうとし、その直前でポケットの中でスマホが震えているのに気づく。
取り出してみれば千鶴からのメッセージだった。
「逢瀬先生?」
一体何の用だろうかと思い、メッセージアプリを起動して受信した内容を確認する。
だがそこには「放課後に仮部室に集合」とだけ書かれており、詳細は分からず仕舞いだった。
「……行けば分かるかな?」
特に疑問に思わず、天香は「分かりました」とだけ返信した。
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