9 人助けをする理由
その後どうなったかというと、結果から先に言えば勝負に負けた。
遅れて蒼生が中庭に戻った頃には既に事は終わっていて、天香が自ら救出した猫を来実に帰していたところだった。
「随分遅かったわね。迷子にでもなってたのかしら?」
「ふふん」と心底嬉しそうな顔で言われた時は腹が立ったが、負ければ煽られると事前に分かっていた以上、ここは大人しく黙って受け入れる。散々揶揄ってきたのだから、倍返しされても敗者に言い返す権利はないのだ。
一方の来実は満面の笑みを浮かべていた。
両腕で抱え込んでいる愛猫に「ヴェルサイユ二世~!」と頬擦りをしながら、それはもう喜びを爆発させていた。
「よかったわね、やっとその子が帰ってきて」
「はい! これも全てはお二人のお陰です!」
「それは良かったわ。今後もなにかあれば生徒相談部の
「ん? え?」
やけに“私”を強調する天香に疑問を抱いた様子の来実だったが、腕の中で愛猫が暴れてしまい、興味を移さざるを得なかった。
「よしよし、もうおうち帰るからね~。……じゃあすみませんが私はここで失礼します。あっ、今日のお礼は後日しますので」
「そんなのいらないわよ。こっちは人助けがしたくてしたんだから」
「でも私が納得できないんですよ。とびきり美味しいの用意するんで、楽しみにしててくださいね?」
「佐々木さんがそう言うなら……有難くいただくわ」
純粋な善意を返されて、天香は呆気なく折れる。蒼生と喧嘩していた時とはえらい違いだ。
手を小さく振ってその場を後にする来実に手を振り返し、残ったのは蒼生と天香の二人だけ。補足だが、天香が呼んだ教師と蒼生が協力を仰いだ用務員は、ハシゴを回収して既にいなくなっていた。
見送りを終えると、天香は蒼生を下から覗き込むような体勢になって、再びニヤニヤと挑発的な笑みを見せてきた。
「じゃあ勝負は私の勝ち、ということでいいのよね?」
「……随分とご機嫌だな」
「ふふんっ、負け惜しみならいくらでも聞いてあげるわよ?」
「いや、遠慮しとく」
勝負に勝ったのが余程嬉しいのだろう、天香は普段の凛とした佇まいを崩し、まるで子供のように無邪気な笑みを露わにしている。
鬱陶しく思った蒼生が視線を逸らしても、追いかけるようにわざわざ立ち位置を変えて視界に入ってくる。右を向けば右に、左を向けば左にと、目を合わせてはニタニタと煽ってきた。
その後も何度か試みるが結果は同じなので、やはり蒼生には観念するしか方法がない。せめてもの抵抗として、溜息はついておいた。
「ふふっ、残念だったわね。私が職員室に向かったと見てすぐさま用務員さんを探しに行ったようだけど、運に見放されたみたいね」
「まさか、日頃の行いが悪いからとか言い出すんじゃないだろうな?」
「よくご存じで。長雨くんが私にしてきた蛮行の数々を考えれば当然の報いよ」
「蛮行て……」
「そこまで言うか?」と蒼生は小首を傾げるが、天香としては自尊心に関わる大問題。それまで幾度となく揶揄われてきた以上、失礼極まりない彼に対して仕返しするなら、これ以上ない表現だと思った。
(言い返したいでしょ? 言い返したくなったでしょ? でも残念。長雨くんは負けたんだから、敗者に口答えする権利はないのよ~?)
嬉しさのあまり、天香は柄にもなく鼻歌を口ずさむ。
舐め腐った態度を取られ、下手にものを言えず、後手に回らざるを得なくなっていたが、ついに彼を言い負かすことができたのだ。
彼よりも優位に立ち、一方的に揶揄うことができるなんて……こんなの嬉しいに決まってる!
(ふふっ、なんて言ってやろうかしら? 奨学金が手に入れられなくて残念だったわね、とか? それとも私に負けてどんな気分? とか?)
もっと見たい。これ以上なく悔しさを露わにして、それでも言い返せずに喉元で言葉を押し殺している彼の顔を。
今まで一方的に揶揄ってきた相手に揶揄われようものなら、それはもう屈辱的だろう。自らがやられたからこそ、倍にして仕返ししてやりたい。
こじつけという手段に手を染めてまで負けを認めなかったのだから、屈辱的なのは尚更―――
(……あれ?)
ふと天香は気になった。あれほど勝負に熱を注いでいた彼が、こうもあっさり負けを認めるとは。
「フライングしたんだからノーカンだろ!」とこじつけてくるつもりはないのだろうか? ……いや、一応スタートの合図は伝えたからズルではない、と思うけど。
天香は蒼生の顔を見る。
確かに悔しそうな顔だ。でもよく見れば、仕方ないとどこか自分に言い聞かせているような、自分の中で必死に折り合いをつけているような、複雑な瞳の色を覗かせていた。
呑み込みたくてもうまく呑み込めない。虚空にそう訴える表情はとても苦しそうで……天香が尋ねようと口を開いた瞬間、背後から若々しい声が校舎に反響して聞こえてきた。
「あっ! さっきのお兄ちゃん!」
蒼生が振り返るのに一歩遅れて天香も振り返ると、下校中だろうか、そこにはオーバーオールの制服を着た初等部の少年達がいた。
そのうちのひとりが、目を輝かせて蒼生を見上げていた。
「おまっ、……さっきのガキか。どした? 下校か?」
「うん! 友達と帰るとこ! お兄ちゃんは?」
「俺は……まあ日向ぼっこだな」
「え~変なの~」
その少年と蒼生のやり取りは特別親しそうに映る。
もしや兄弟なのだろうかと天香が思っていると、丁度同じ疑問を抱いたらしい、少年の友人らが訝しげに尋ねた。
「ねえねえ、この人誰?
「えっとね、僕の恩人! さっきみんなとはぐれた時に助けてくれたんだよ!」
「え~? この人が~? ほんとに~?」
「死んだ魚の目してるのに?」
「おい最後。完全に悪口じゃねえか」
生意気な発言を受けて、蒼生は堪らずツッコみを入れる。心底煩わしそうに、でも強くあしらうわけでもなく、口元を薄らと綻ばせて。
しかし天香はそんな蒼生に構うどころではなくて、聞き捨てならない言葉を聞き、思わず自分の耳を疑っていた。
(助けてくれた? さっき? ……え、どういうことなの?)
天香は理解できなかった。
さっきまで彼は猫探しに従事していた。それは言われようもない事実で、他の人を助ける余裕なんてなかったはずなのに。
……何度考えても分からない。
でも、あの少年の表情を見れば、嘘をついているとは思えなかった。
さっきとはいつ? お昼休み? それとも朝? ……疑問はいくら浮かべども消えなくて、次第に焦りの色が頬を伝う。
「ね、ねえ長雨くん、どういうことか説明してよっ」
つい責めるような言い方になってしまい、慌てて口を噤む。動揺が先走ってしまった。
そんな天香の心内を知ってか、蒼生はきまりの悪い顔をすると、目の前で茶々入れてくる少年達を両手で押しやる。
「ほら、ガキ共はもう帰る時間だ」
「え~ちょっとくらい大丈夫だよ」
「親が心配してるだろ。いいからとっとと帰りやがれ」
「うぅ分かったよ。じゃあまたねお兄ちゃん~。あっ、お姉ちゃんも~」
「え、えぇ」
校門に向かっていく少年達に手を振り、その姿が小さくなると、蒼生は一安心とばかりに一息ついた。
「お前、子供の前でいきなりシリアスな話始めようとすんなよ」
「……ごめんなさい。軽率だったわ」
「そこまで落ち込まなくても……いや、黙ってた俺にも非はあるか」
気まずそうに後頭部を掻くと、蒼生はいたって真摯な口調でようやく質問に答えてくれた。
「……用務員を探してる時に偶然迷子になってた奴を見つけてさ。で……まあ、初等部の校舎まで付き添った。それだけだ」
「…………」
用務員を探してる時、それは勝負の最中でということ。
つまり彼は、勝負を捨てて人助けを選んだということだ。
……本当は気づいてた。気づいてたのに、動揺を必死に抑えて、分からないふりをして自分を誤魔化そうとしていた。
自覚してしまえば、人助けに勝負事を持ち込んだ自分がいかに愚か者か思い知らされてしまうから。
「……どうして黙ってたのよ?」
「言い訳はダサいだろ」
「ダサいて……」
それを言ったら、私はどうなるのよ?
人助けがしたくて部を作ったのに、最初にやったことが賭け事。相手に寄り添うのが大事なことなのに、勝つ事にこだわってそれを疎かにして、肝心な部分を見落として、
(バカなのは私の方じゃない……)
気づけば無意識に握りこぶしを作っていて、ハッと我に返ると、天香は慌ててその手を隠す。また揶揄われると思った末の行動だったが、今の真面目な雰囲気には似つかわしくない杞憂だった。
実際、蒼生はその手の不自然な動きに気づいていたが、揶揄う気にはなれなかった。
(ほんっとに、なんで助けちゃったのかな……)
魔が差したというべきか、今更ながら蒼生は後悔してしまう。合理的に考えれば、自分の利益を優先した方が遥かにメリットがあったというのに。
目的はあくまでも奨学金。誰かのために献身的になるだなんて、目的達成のための手段でしかないはずなのに、どうして余計なことをして勝負を捨ててしまったのだろうか。
あの少年に自分を重ねてしまったから助けた。勝負に勝って奨学金を得るために猫探しに尽力した。……確かに理屈は通るが、どうも腑に落ちない。
それだけが理由で人助けをしたという論理では、どうしても納得できなかった。
「私の負けよ」
「……え?」
不本意そうな口調で呟かれた一言に、蒼生は半歩遅れて気づく。
無意識に下げていた頭を仰いで彼女を見れば、不服な顔を作り、気まずいのか視線を逸らしていた。
「なんだよ急に? さっきまで俺に勝ったって喜んでたのに」
「勝負に目がくらんでた私と違って、長雨くんはちゃんと人助けを優先した。……悔しいけど、あなたの方が困ってる人に寄り添えてた」
「いや、俺はただ自分がしたいと思ったからしただけで、寄り添ったつもりは全く……」
「だとしてもよ。あなたがなにを思って助けたかなんてどうでもいいし、知ろうとも思わない。……けど、その結果として誰かを助けられたなら、笑顔にできたなら、それは人に寄り添えたと誇っていいと思う」
「…………」
悔しそうにそっぽを向きながらも、天香は自分の勝ちを否定する。別に否定しなくてもいい、というか実際負けたのは蒼生なのだから、遡ってわざわざ否定する必要はないのだが。
本当に、根っこからの真面目なんだなと思った。このまま何も言わずに勝ちを主張し続けた方が遥かに自分に利があるというのに、それすら正そうとしてしまうほどに。
融通が利かないというか、頭が固いというか、なにかと損する生き方をしている彼女の言葉は、裏表のない本心を明かしてくれている気がして……蒼生は思ったことをそのまま口にした。
「一色はさ、どうして人助けしようと思ったんだ?」
「……それ、あなたに教える必要あるの?」
「あぁいや、別に言いたくないなら言わなくていい、けど」
何も考えずに踏み込んだ発言をしてしまったと遅れて気がつき、蒼生はしどろもどろに身を引く。彼女が自身に対する詮索を嫌っているのは、最初から分かっていただろうに。
しかし天香は、一瞬の躊躇いこそあったものの、蒼生の質問に答えてくれた。
「両親みたいになりたいと思ったからよ」
「両親、みたいに……」
「私の両親ね、弁護士なの。ご近所トラブルとかお金の貸し借りとか、日常生活で困ってる人に手を差し伸べてる。決して楽な仕事ではないし、忙しくて家に帰ってこれない日も珍しくないわ。……でも」
「でも?」
「……昔、一度だけ尋ねたことがあったの。大変なのにどうしてこの仕事を続けているのかって。家族の時間を犠牲にしてまで人助けする意味はあるのかって」
「それはまた随分突っ込んだな……」
「誤解されないように予め言っておくけど、今では二人の事情をちゃんと理解してるし、家族の時間を犠牲してるだなんて微塵も思ってない。パパとマ―――お父さんとお母さんだって、どんなに忙しくても月に一度は家族で集まる時間を作ろうとしてくれてるから」
優しい両親だと思ってる、そう言う天香の瞳には煌びやかさが映る。
心の底から両親のことが好きなんだなと、蒼生は思った。
「でも昔はそんな事情なんて知らなかったから、二人が人助けをする理由が知りたくて、家族三人で集まった日に思い切って聞いてみたの。……そうしたらね、ふふっ、なんて返ってきたと思う?」
「お前に不自由ない暮らしをさせるため、とか?」
「……好きだから、だって」
「好き……? それだけ?」
「それだけ。自分勝手すぎる理由で思わず呆れちゃったわ」
そう言いつつも、天香の口元には笑みが生まれている。
その矛盾を目の当たりにし、蒼生が困惑のあまり眉をひそめていると、天香が「けどね?」と続けた。
「あの時の二人、穏やかに笑ってた。困ってる人に手を差し伸べて、笑顔になるお手伝いをする。それがなによりの喜びなんだって。……ほんと自分勝手な理由。だけど、その結果として困ってる人を救って、笑顔に変えられたなら、それは人に寄り添ってると誇っていいんじゃないかと思う」
「……だから両親みたいになりたいのか」
「ええ、敬愛してるわ」
天香から向けられる眼差しはとても真っ直ぐで、それだけで彼女の言葉に嘘偽りがないのだと分かった。
寵愛を授けてくれた両親への憧れ。それが彼女が人助けをしようとする動機であり、目標であり、前へと進むための道標となってくれているのだろう。
(一色って凄い奴なんだな……)
羨ましいと思う。同時に、嫉妬してしまう。
常に前を歩く彼女の背中が少しずつ遠のいて、前に進めない自分が浮き彫りになっていく。
あの時迷子になっていた少年のようにその場にうずくまって、泣くこともできなくて、暗闇の中で独り、時間だけが過ぎていく。
……あの頃から、俺はなにひとつ変われていない。
他人を信じられなくて、誰かを信じようともしないで、自分から嫌われようとする。そうした方が余計に傷つかなくて済むと知ってから、そういう生き方が身体に染みついてしまった。
別に今が悪いと思っているわけじゃない。他人と深く関わらない方が面倒事を避けられるし、自分の時間を大切にできるから。バイトを優先できるのだってそうだ。
……ただ、彼女のような生き方をバカにしつつも、心のどこかで羨ましいと思ってしまう。ぶれない芯の強さがあって、自分のやりたい事が明確で、それに向かって突き進む彼女の生き方は、損得勘定でしか物事を考えられない俺には眩しすぎる生き方だから。
他人に誇れるものなんて、俺にはなにもないから―――
「どうしてあの時あなたが笑ってたのか、今ならなんとなく分かるわ」
そんな時、沈黙を切るような声が耳に届いて、蒼生は天香の方に振り向く。
(笑ってたって……ああ、あの時か)
猫探しをしていた時、彼女からそう指摘されたのを思い出す。
でもあれは……
「俺でも分からないのに、なんでお前が分かるんだよ?」
「分かるわよ。……だってあの時の長雨くん、二人と同じ目をしてたから」
同じ目―――?
「好きなんでしょう? 人助け」
心臓が跳ねた、気がした。
(好き? ……いやいや、そんな気持ちだけが理由で人助けしたっていうのかよ? 俺が? 有り得ねえだろ……)
人助けなんて自己犠牲の一環でしかないし、メリットはひとつとしてない。仮にあったとしてもそれは多大なる自己犠牲の上に成り立ったものであって、デメリットの方が遥かに大きい。
好きだから? そんな簡単すぎる言葉で納得していいはずがないのに……
でも、一番しっくりきてしまう。
胸のつっかえが取れたようで、もやもやしていた何かが喉元を過ぎていく。
(……人助けが、俺のやりたい事なんだろうか?)
分からない。なにか明確にしたいと思えるものが、俺には今までなかったから。
でも彼女が、真っ直ぐに生きている彼女がそう言うのなら、信じてみても良いのかもしれない。どうしてか、この時だけはそう思えた。
「……自分に正直に、か」
素っ気なくもどこか噛み締めるように、蒼生はそうひとり呟く。
成程、確かに自分勝手な理由だ。でも、その結果として誰かが救われるのは悪い気がしない。
「正直に言えば、あなたのことは認めたくないわ。……でも、部に入る資格はあると思う」
「いいのか? 嫌いな奴が入っても」
「あくまで目的は人助けだから。多少の悪事は目を瞑るわ」
「悪事て……まあいいけど」
ぶっきらぼうながらも歩み寄ろうとする天香に呆れつつも、蒼生の口元には笑みが零れている。
面倒事に足を踏み入れるべきでない。そんな制止を振り切って、蒼生は彼女と面と向かう。
「じゃ、これからよろしく、一色」
「……よろしく」
不機嫌な返事を返されるが構わない。そう告げる蒼生の胸の内は、とても晴れ晴れした心地だった。
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