たとえ読まれなくとも長篇は書くもの

朝吹

たとえ読まれなくとも長篇は書くもの


 いきなり「読まれない小説には意味がない」という、ごもっともなお声が空耳しそうになりますが、書きはじめます。

 カクヨムに来て一か月過ぎました。長篇をあまり読んでもらえない人はたくさんいらっしゃるようです。わたしもそうです。

 流通している本でもこれがweb小説だったら果たして読まれているだろうかと考えると脱落する本のほうが多そうなので、web小説の長篇は最初から巨大ハンディキャップを背負ってそこにあるといえましょう。


「長篇ですが大勢の人に読んでもらえていますキリッ」という方にはこのエッセイは用がありません。どうぞそのままで。

 短篇専門ですという方も閉じて下さい。長篇が読まれないかた向けのエッセイです。


 長篇作品が読まれない。更新してもPVゼロである。一話二話で見放されてしまう。

 よく聞く話です。

 でも、それでも、長篇の書き手さんはまずたゆまず、長篇は書くものであるとわたしは考えます。

 物語を「完結」までもっていって欲しいからです。


 未完のまま途中で放棄することを、永遠に完結しないを略して「エタらせる」というそうですが、それっきり創作自体を辞めた人も少なくありません。どうにも動かなくなって筆を止める作品が一つくらいならあってもいいのですが、「エタらせる」を常習化していると、それが癖になってしまいます。


 わたしは物語を書き始めた頃、完結だけはしようと心掛けていました。「完結させる」ことが「巧く書く」よりも上でした。完結までもっていくことが一番勉強になったからです。完結しなかったのは、刀が自分の意志で主人を選ぶ話を書いていたら「刀剣乱舞」が始まってしまい、巨大マーケットと化したその作品を前にしては、どう見てもわたしが盗作したようになったので書けなくなった時くらいです。


 10万字を超える長篇を完結させた方はお分かりだと想いますが、短篇や中篇とはまったく違う気力と体力が長篇には要ります。あれを体感に落としこむこと、そして完結させることには、短篇では味わえない物語を創り上げた力、完結させた時のなにものにも代え難い充足感、長篇を書けたという達成感があじわえます。


 長篇であっても、今のところわたしはプロットや登場人物などまるで決めずに一行目から書き始めるタイプで、基本的には「三銃士」のアレクサンドル・デュマや、「宝島」のスティーヴンソンと同じ出たとこ任せな書き手なのですが、以前ある人から云われました。


「設定を細かくたてる物語が最高なのであって、設定やプロットを立てないのは駄目だ」


 設定資料集を作ってプロットを固めてから小説を書くのが素晴らしいというのです。

 べつに異論はありません。

 トールキンの「指輪物語」のように創り込まれた作品に対して何の反感もありません。それが最高にして唯一の小説の書き方だとは想わないだけです。

 その方は、書かれていないところを全て事前に決めておくことが物語に厚みとリアリティをもたらすと云われる。なるほど。

「詳細な設定を作ってその世界が本当に存在するかのように食べものも通貨も、国の成り立ちの歴史も全部きめている」と。

 それはどの程度まで? と突っ込みたくなりましたが、現実の人類の歴史と同じ分量を立てるわけではさすがになくて、アニメの設定資料程度のことを指しているようでした。それでも創り込んでいるには違いないです。

 ところが、わざわざいろんな処に顔を出してそう豪語されていたその方は、「エタらせる」人でした。いや、エタらせるよりまだひどいかな、実際にはほとんど書かない。

 完結した長篇作品がないのです。


 キャラクターの身長から癖から家族から、その世界で使われる単位、表には出てこない細部まで設定することはしても、その作業から「物語を書いて完結させる」というところまで到達しない。でもプロットは細かくて、第一章はここまで、第二章ではこんなことが起きる、最後はこうして終わると出来事の年表は作っている。

 それなのに、いざお話を書き出すと、想うように地の文や登場人物が動いてくれないようでした。


 せっかく長篇のラストまで考えているのなら、泣いた、笑った、戦ったという表現でいいので、最後まで書き通して完結させる方がいいのではないかなぁと口には出しませんでしたが想っていました。書かないのなら、設定自慢の超大作も「頭の中で想像するだけの傑作」のままです。

 長い物語を完結にまでもっていく楽しさやしんどさというのは、実際に書いてみないと分からないのです。

 設定資料集の厚みがあればそれで全てに勝るとでもいうのか、自分では書けないその方は誰かが長篇を書くたびに、すかさず設定について質問を投げかける設定至上主義の批評家きどりに堕ちておられました。「これだけ設定しているのだから書いたら私のほうが実はすごいんだぞ?」と今でも想っておられるかもしれません。

 プロットは立てる。でも書き通せない。

 設定は細かい。でも物語は前にすすまない。

 創ったキャラは大勢いる。でも生かせない。

 短篇ならなんとかごまかせても、これらの欠点がはっきり浮き上がるのがまさに長篇で、その人は壮大な物語の設定は創っていても、はてしなく地味で日蔭の作業である「書く」が出来なかったのです。


 構想はあっても書かないことには物語ははじまらないし終わらない。エタらせると登場人物はそこで石化して止まったままです。

 反応うすいから長篇かくの止めま~すという人は、もとからその物語は書くべきではなかったのです。

 長い物語の流れを体感しながら完結させてみた時に、頭の中にあったお話がちゃんと出てきて終わってくれたという実感が出てきます。


 たとえ読まれなくても長篇は書くもの。

 長篇を完結させるたびに想います。

 もう二度とこんな大変なことやらない。

 なのに、くたくたになってからしばらく経つと、また長篇を書いていたりします。

 頭の中にお話がある。その人たちが動き出す。彼らと一緒に長い時間を共有して生きているような、幾つもの人生を経験するような、わたしはそんな気持ちで長篇を書いています。

 終わった時の惜別と恍惚は、「そういえば読者ゼロだった」ということすら忘れさせます。

 

 読まれない小説には意味がない、読まれない長篇は虚しいだけだ。

 本当にそうでしょうか。

 わたしは小説を書いている間はかなり倖せなので、それだけでも書いた甲斐はあるなあと想っています。

 そうはいっても、今すぐ読者が欲しい。反応が欲しい。

 こういう承認欲求に悩まれるならば、短篇や中篇で意識的に得るようにするのもおすすめです。読まれない長篇に対する心持ちは、現状、書き手がなんとかするより他ないからです。

 わたしは設定もプロットも立てません。でも彼らの顔も暮らしている家も風景も、はっきり見えています。たくさんの人々の営みがわたしの手から生まれては、彼らの生命を一生懸命生きている。

 登場人物のやることにわたしも一喜一憂しています。書き手にして読者という立ち位置から、一冊の小説を読んだような気持ちで最後の光景を一緒にみます。

 短篇でも長篇でも、そのお話はあなたが実際に書かないと、この世には永遠に存在しないのは一緒なのです。


 これからも誰にも読まれない長篇小説はwebの中で山のように生まれていくのでしょう。その小説を知っているのは書いた本人だけなのかも知れません。

 「そんなの虚しい」

 では書くのやめますか? 反応がないからや~めた、と途中で切り上げますか?

 それもいいと想います。短篇中篇を書くのに向いた人もいます。でももし、頭の中の長い物語を外に出してあげたい気持ちがあるのなら。


 誰にも読まれていなくても、わたしは長篇を書いてよかったなといつも想ってます。これが書けたら死んでもいいくらいの気合で一行一行はりついて長い物語を書くことで、書く前よりは少しだけ上達しているような気もしています。

 もしその長篇作品を存在しなかったことにするなら、中篇か短篇に1億PVあげると誰かに云われても断ります。

 たとえ読まれなくても長篇は書くもの。書かずにはいられないもの。

 「PVゼロです、でも完結まで書きました」この人たちの数の多さが物語っています。お話がそこにある。外に出して欲しいといっている。たまたまそれが長かった。それが長篇なのです。だからあれだけ大勢の人が完結まで書き通すのです。

 意味があるとかないとかの問題ではなくて、あなたが書きたいかどうかです。



[了]

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