第2話 老年時代

魚を獲る網に蛸が入ったそうです。

「こいつは反・救世主の手下だ。反・救世主は海の彼方から来るというからな」

 若い信者がそう言いました。確かに太陽は西の方角に沈み、そこには海があります。《神》と縁の浅い者どもが、あの夕日の下に住んでいても不思議ではありません。蛸の気持ちの悪い姿はいかにも反・救世主を思わせます。御本に蛸が悪魔の手下だとは書いてはいないけれど、人々は自然にそう思っています。

 息子が死んで11年になります。思えば息子が十字架の死を遂げたのも33歳のことでした。私が15歳で産んだ子どもだったので私はずいぶん歳をとりました。

 今は息子の弟子で一番最年少だった者の世話を受け、海辺の街で暮らしています。私達の一族は十字架刑の者を出した一家として村人に忌み嫌われ、一家離散をしました。あの不思議な3人の博士達が下さった黄金・乳香・没薬は、夫が作った寄木細工の箱に入れて、一族で一番信頼のできる者の一家に預けました。いつかあの宝物の謎が解ける日が来れば、私のあの息子に纏わる謎も解明されるでしょう。

私は息子の弟妹や従弟妹達と共に息子の信者と一緒に生活を始めました。教団名を「貧しき人」といい、入信者達は病人に塗油の治療を行ないながら、「神の御国は近い」と宣べ伝えることを仕事としています。

 息子は私にとって遂に理解できない存在でした。信者達は息子を「神の子」として崇め、私は処女のままで息子を産んだ「神の母」と、息子同様に信仰の対象とします。私は息子の人生を振り返り、本当に息子が「神の子」であり、「救世主」であったかを考えたいと思います。


 あの息子の生誕には不思議がたくさんあります。私がまだ何も知らないのに婚約中の身で身籠ったことや、あの息子の誕生後に現れた不思議な異邦人の3人の博士のことなど。

 しかし、あの息子の生前には、私達夫婦は息子に一切それらの話はしませんでした。あの息子が思い上がってしまうのを恐れたからです。

 一方では私達夫婦は、あの息子が《救世主》になるのにふさわしい人格の教育をしました。

 私達夫婦が思う、理想の救世主、民族の統率者は、人々を怒りや暴力で従わせる人物ではなく、人々に仕え奉仕する人物です。神を敬い真摯で正直で謙遜に満ちた性格に、あの子を育てたかったのです。幸いあの子にとって祖父に当たる私の父も、夫の親類も、みんな律法を守り、それを誇りに思うのではなく、穏やかで腰の低い人達が多くいました。

 でも、親が思うように子どもは育ちません。

 あの息子は、よく言えば早熟に、悪く言えば傲慢で生意気な子どもに歳と共になりました。

 息子は文字を覚えるのが早く、5つのときには、もう御本を読み終えていました。そして御本の矛盾した内容について質問をするのです。それも他の子どもがするような、「最初の人類は男女2人だけだけど、どうやって増えたの?」とか「最初の殺人が起こった後、人間は他にいたの?」などの素朴な質問ではありません。7才にして律法学者でなければ議論できないような、私や夫にすら理解できないような質問を平気でして、律法学者が戸惑うのを見ていました。

 息子は父親の仕事を手伝う以外の時間は、御本を読んで暮らしていました。他の年代の近い兄弟従兄弟達とは子どもらしい遊びもせず、ひたすら読書をするのが毎日の暮らしでした。

 そんな息子が唯一友達のようにしていたのが、私の親元の隣の町の、私達が「おじ様・おば様」と呼んでいた、律師の夫婦の息子さんです。名をヨハネといいます。息子より半年ほど年上でしたが、ヨハネと遊ぶときには御本の話を一切せず、父親が仕事で作り残した木切れで何か遊んでいました。その律師の息子さんも、13歳で成人式を終えてからは律師の修行のため父方の家に帰り、息子と会う機会もなくなりました。 

 10代の頃の息子は、家業の指物作りや寄木細工の修行に打ち込む傍ら、御本に読み耽る日々が続きます。不思議なことに、息子は父親ほどには指物師として上達しませんでした。特に不得意というのではなく、だけど上手ではなく、全くの凡庸でした。

有名な逸話ですね。息子が12歳になったとき、私達夫婦は息子と共に首都エレサレムに詣でに行きました。息子はいつの間にか私達から離れ、迷子になりました。私達は息子を探しました。息子は宮殿で律師達の真ん中に座り、話を聞いたり尋ねたりしました。息子の話を聞いている人々は皆、その賢い受け答えに感心していました。私達は驚き、息子に声をかけました。すると息子は

「なぜお探しになったのですか? 私が天のお父さまの家におりのは当たり前でしょ? ご存知なかったのですか


 あれは息子が13歳になったばかりの頃です。息子は御本の中の「『子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくが良い』と命じた」の部分について、「僕だったら、そんな命令には従わないよ。自分が殺されてもいいから、敵であっても女子どもを守るよ」と、公然と言ったとき、私達夫婦はおおいに困りました。夫と相談し、私の父方に当たる律師の所へ連れて行きました。もうその頃は私の父親ヨアキムは死去し叔父が家長となっていました。叔父は涙を流しながら息子の尻を鞭で何度も打ちました。

 帰り道、夫は息子にこう言いました。

「今日の言葉をもっと大人になって、女を本当に知れば、どれだけありがたい言葉に思えるだろう。それでも敵の女子どもを生かして守ると言い続けるのであれば、お前は大した人物になれる」と。

 息子はそれきり、その話をしません。

 

息子が19歳のときです。息子の身にはいろいろなことが起こりました。

 まず私の4つ歳下の妹、私と同じ名前のミリアムが、息子にとっては歳の近い叔母が嫁ぎました。あまり人と話をしない息子は、この歳の近い叔母とは時々、姉のように相談事をしていました。私の親元の家では妹の夫に隣町の律師の息子さんヨハネを考えていました。妹より2年半歳下でしたが、息子さんがしっかりしていることと、妹が従順な性格だったことから、誰がみても良い縁談にみえました。だがその息子さん自身が「私はまだ修行中の身で」と、断り続けていました。せめて婚約だけでもと考えていたのですが、妹ももう23歳、早く嫁がせなければならず、結局、正直で勤勉な天幕屋の後妻として嫁に行きました。

 妹が嫁いでまもなく、私の夫、すなわち息子の父親ヨゼフが急逝しました。

 そして、これは息子にとって大きな出来事ですが、あの律師の家の息子さんのヨハネが、「修行の旅に出たい」と言い残し、家出をしたのです。

 父親と子ども時代の友人を失くし、息子はますます無口になりました。息子が、家業の指物寄木細工作りに以前以上に身が入らなくなり、日雇いの大工石工の仕事に出かけるようになったのは、その頃からです。

 と同時に、息子は徴税人や罪人とされる人々、そして娼婦と一緒に食事をするようになったのです。幸い、賭け事や女遊びなどは覚えなかったのですが、私にとっては心配の種でした。弟妹や従兄妹達も、あの息子を避けるようになり、息子は独りぼっちなのでした。息子は家にいるときは御本を読み耽っていました。

 その頃の息子の気持ちが今でも痛いほどに私には分かります。あの息子は自分の出生に悩んでいたのでしょう。

 周囲の者は誰もあの息子を懐妊してから後のことを直接話す者はいませんでした。

 しかし、私が婚約中に身重になったことは誰からとなく聞いたでしょう。華やかな宴会もせず、ひっそりと夫の家の者になった噂を耳にしたこともあるでしょう。

 あの息子は、両親が婚前交渉をした結果生まれたのだと思い込んでいたのでした。

 婚約期間中でありながら婚約者を誘惑する母親。そして自分の肉欲を満たすために誘惑を拒絶せず交わった父親。

 そんな姿が大人になるに連れて、あの息子の胸中を走って行ったことでしょう。

 不潔な両親から生まれたのに、両親は信仰深か気な顔をして道を説くのに我慢ならなかったのだと思います。息子は自分の苦しみから救いを求めるように御本に穴が開きそうなほどに目を通しましたが、息子にとって救いとなる言葉は見つかったでしょうか。

 そして息子は父親が亡くなって以降、私のことを「お母さん」と呼ばずに「ご婦人」と、呼ぶようになりました。ご存知のように私達の民族の間では、妻や婚約者などを、改まったときには名前で呼ばず「ご婦人」と声をかける習慣がありますが、自分の息子に「ご婦人」といつも呼ばれるのは、何だか寂しい気がします。

 結婚話を断り、家柄のいい若い女性には一瞥もせず、なぜか娼婦達とは清らかな友情で付き合っていた息子でした。


 息子とは一度だけ、《善行》について話し合ったことがあります。真夜中に野外で音がするので見に行くと、そこで息子は指物師が使う鑿などの道具を研いでいました。男達が使う道具だけでなく、私達女が使う料理包丁や裁縫鋏なども研いでいるのです。昼間は仕事場に向かわないのになぜそんなことをするのでしょう。

 私が声をかけると息子は言いました。

「善行をしているのです。自分の右手がしている善行を、左手に悟られないように」

 私は息子がしていることが善行なのか不思議に思いました。善行というなら、昼間はもっと他の人達と一緒に働いて、刃物研ぎが善行ならば皆と一緒にやるべきだと考えたからです。

 私は息子に私の考えを伝えましたが、息子は無視してそれからもひっそりと刃物を研ぎました。怠け者、役立たずと陰口を家族皆から言われている息子の研いだ鋭い刃物で、一家の者はそれぞれの仕事をしたのでした。


 息子は30歳になったとき、再び人生の大転機を迎えます。

 あの隣村の律師の息子さんのヨハネが旅から戻ってきたのです。しかしその息子さんの姿は旅に出る前とは大きく違っていました。彼は駱駝の毛皮を着て腰には鞣革を纏い、食べ物といえば蝗と野生の蜂の蜜という、律法が許すぎりぎりの食事をしていました。そして強い酒はもちろん、葡萄酒も飲みません。

彼は自らを《洗礼者》と名乗りました。救世主や預言者ではなく。

 《洗礼者》は怖い表情でいいます。

「悔い改めよ。神の国は近づいて来た」と。

 《洗礼者》は続けます。

「神の国が現れるとき、死者は全て蘇り、

救世主は羊飼いが羊と山羊を選り分けるように、羊である善い人を右側に、山羊である悪しき人を左側に立たせ、そしてこう言います。

『右側の者よ。用意された御国を相続しなさい』と」

 どうやら彼によると私達の死後に異教徒の言うような『天国・地獄』の観念があるようです。

 こうも言います。

「蝮の末どもよ」

 と。

 どうして私達が蝮の末裔なのでしょうか。私達は最初の人類の子孫であり、私達民族は皆同じ祖先アブラハムを持っています。その御名前を《洗礼者》は知っているはずなのに私達を蝮の末と呼ぶのです。

 さらに続けます。

「良い実を結ばない木はどんな木でも切られて火の中に投げ込まれる。斧はすでに木の根にある。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の祖先は何某だから大丈夫だ』などと考えてはいけない。神はそこいらの石ころで人間を作ることが出来るのだから」

「もし右の目が罪にいざなうのであればあなたを罪にいざなうのなら、くじりだしておけ。体の一部を失っても、全身が地獄に投げ込まれない方が得であるから。もし右手が罪にいざなうのであれば切り捨てておけ。手足が1本なかったとて全身が地獄に投げ込まれるより得だから」

 そう言いながらヨルダン川での沐浴でこれまで犯した罪の禊ぎを進めるのです。

私達には川での沐浴の習慣がないのですが、異教徒めいたこの新しいやり方に共感して、《洗礼者》から洗礼を受け、罪を流そうとする人々も一方では大勢いました。

「息子は異教徒になった。異端派になった」

と、彼の母親であるおば様は嘆きます。そのときおば様は随分と歳を取っていたので、嘆き過ぎて病気にならないかと私も心配しました。

 世間は噂します。

「墓場から全ての死者が復活するって、変な話だな。7人の男兄弟がいて、1人の女と結婚し、子どもを残さないうちにその男が死に、律法に乗っ取ってその次男が女を妻にし、その次男も子を残さずに死に、そして次の弟と結婚してその弟も子どもを残さずに死んでついに7人目での男とまで結婚して子どもを残さず死に、その女も子どもを残さず死ねば、女は誰の妻になるんだろう」

 私達の宗教では、異教徒のような、「前世・来世」の観念はなく、輪廻転生の思想なく、死ねば塵や灰になると考えられています。神から約束された永遠の平和の王国は、もし自分の世代に来ないのなら私達の子ども・子孫に与えられるとされています。そのため私達は子どもへの教育を大切にします。

 しかし「復活」「天国・地獄」そして「永遠の生命」の観念が全くないのではありません。

 イザヤ書によれば

「あなたの死者は生き返り、私の屍は立ち上がります。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え」

ダニエル書には

「地の塵となって眠る人々の中から、多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと」

 ただしそれらは律法学者の議論の中にあり、一般的な信者には知られていません。私がそれを語ると、それこそ神の経綸を暗くするので語るのを止めます。

 それにしても「神の国」とは何でしょうか。

普通には《神の御座しまする所》と考えられ、それは私達の王国の首都エレサレムの天上にある、《シオン》という場所だとされています。

 だが洗礼者の言う「神の国」は、救世主が王になり永遠の平和と繁栄が与えられる私達の国と、どう違うのでしょうか。

「異端者になった息子はこの家に入れるんだろうか。あの息子は親の死に目に会えないだろう」

 おば様は苦しみ哀しみます。

 おば様の心配通り、息子さんである《洗礼者》は投獄されやがて王の狡計により、斬首されました。おば様は悲嘆の内に亡くなりました。

 話は前後しますが、この《洗礼者》の登場に息子は大喜びし、すぐにヨルダン川へ向かい洗礼を受けました。《洗礼者》は私の息子のことを

「私の後に来た者は私よりも力がある」「私はその人の靴を脱がせる力もない者である」と褒めたたえます。


 私の息子はこうして4か月あまり方向不明になりました。息子自身は44日と弟子達に語っていたようですが、私には息子の不在が4か月のように思えるのです。

 そして息子はようやく我が家へ帰って来ました。私は遠くから息子が帰還したと分かり、大声で息子の名を呼び手を振りました。

「死んだと思っていたあの子が帰って来ました。皆で仔牛を屠りましょう」-

 すると息子の弟妹や従妹弟は不満げに

「私の友達が来ても山羊1頭もご馳走しないのに、あいつのために宴会をするのか」

と言います。私は

「あなた方はいつも私達と一緒にいるでしょう。あの息子は死んだ、躓いたと思っていたのに還ってくれたのだから、皆で歓迎しましょうよ」

 さて息子の様子ですが、体躯は壮健なのに顔立ちは以前より老けてみえました。

近所の人が「まだ50歳にもならないのに」と噂をしたほどです。

 息子はしばらくは家にいましたが、《洗礼者》の投獄の噂を聞き、黙って家を出ました。書置きもせずに。《洗礼者》の一番弟子だと思われていた息子は、《洗礼者》の異教徒めいた教えを、私達の宗教の教えとを繋ぐ義務もありました。そんな、まるで薊の茎に無花果を挿し木するような、困難なことが待っていたのです。


「超能力者現る」。こういう噂が程なくして村や町の人の噂が立ちました。その超能力者はこの国の北の方の湖のある地域で、病人を治す業を見せているというのです。

 治す病人は主に貧しい人で、治した病人は盲者や聾者、脚の不自由な人、重い皮膚病科者などで12年間、月経血が止まらなかった婦人も治し、中風の者も立って歩けるようにしたと言います。

 治療法はお祈りの他、自分の唾を患者につけたり、その辺りの土を塗りつけたりしたとのことです。

 時代が時代でしたから、本当はあちらこちらと預言者や救世主を自称する者が大勢いました。また、「熱心党」という団体は武装した集団で武力によって帝国からの独立を目指し、軍事訓練すらしている団体もあります。

 そのような世の中なので、その超能力者は人々の噂では、彼は救世主ではないかと言われていました。

 私はその超能力者のことを噂で聞いても本当だとは思いませんでした。治療家は怪しく賤しい職業とされ、律法でも地位の低い、よくない仕事となっていました。

 病気は悪魔によるものもあれば、主の経綸、つまり何だかの理由によって主が与えた試練であったり、「業病」と言い、主による罰の病とも考えられていました。

 大昔、主と人間が近かった時代は人間は長生きをし、魔法めいた能力を持った統率者すらいましたが、今は主は沈黙をし、魔法使いなんていません。治療家の多くは塗油をした後、悪魔祓いの儀をして多額の報酬を求めましたが、治せる病は少なく、そういうとき治療家は病人やその家族の信仰の浅さを叱るように言うのです。

 そんな治療家・超能力者の正体が私の息子だなんて思いもよらないことでした。

 その超能力者は治療の傍ら、「神の御国は近い」ということを述べ伝える仕事もしていました。

 

 その超能力者が私の息子かもしれないという話を聞き、私は息子の弟妹や従兄妹と共に、息子のいるという村まで訪ねました。

 私達がその村を訪れたとき、ちょうど息子はある家で『神の御国は近し』と説法をしている所でした。神の御国。そこは何1つ誇るもののない、心貧しき人、温和なる人、平和を作る者、そして義に飢えた者が主から相続を受ける、平和で満ち足りた国とのことです。息子は、私達が聞いたことがないような、美しい張りのある、どこか威厳を感じさせる話し方で、魅力的な《神の御国》の話をしています。

しかし私達の訪問を聞き、息子は

「母とは誰だ。きょうだいとは誰だ」

 と言って、私達との面会を拒絶しました。


 息子とその弟子の一団は私達の暮らす町にもやって来ました。

 不思議なことに私達の町では、息子は超能力を発揮できませんでした。ただ病人に手を乗せただけでした。町の人々は『神の御国』の話を誰も信用しません。

 人々は

「あの噂の超能力者は、大工ではなかったか。ミリアムの息子ではなかったか」

 と、言いました。

 息子は

「預言者が尊敬されないのは」

と、自らを《預言者》と名乗りました。

「その故郷と親族と家族のところだけだ」

と。

「あなた方は徴と奇跡を見せなければ信じないのですか」

 息子は肩を落として弟子達と共に町を去りました。私の目には、そのときの後ろ姿が今も忘れられません。

 私はこのとき、息子は十字架刑に処されるのではないかと、不吉な予感がしました。そして思いました。他の家族は息子は気が狂ったのだと思い、何とか家へ帰そうと考えていました。

 私は言いました。

「息子は必ず首都エレサレムへ向かいます。私は首都へ行きます」

 すると家の者での中で首都の神殿詣を望んでいた者が「一緒に行きましょう」と言いました。

 首都にはベツレヘムのときとは違い、私達の一家の縁者もいます。

 私達は首都へと先回りして行きました。


 3月になり、過越しの祭りが近づいていた頃、予想通り息子一行は現れました。

 息子についていろいろな噂を耳にしました。

 空腹なので傍にあった無花果の木に実が実っていないのを見て立腹し、無花果の木を呪ったとか。その翌日、無花果の木は枯れていたとか。繋いであった仔ロバに乗って、救世主のように首都へ入って来たとか。神殿の前で両替商や捧げものに使う生きた鳩や羊や仔牛を売る商人に対し、暴行事件を起こしたとか。かと思えば「この神殿を壊してみろ、三日で立て直して見せる」と、神殿を冒涜する発言をしたとか。

 何しろ世の中がこういう世の中でしたから、あちこちに自称・救世主がいて。ある者は帝国への武力攻撃を叫び、別の者は私こそ本物の救世主で私に着いて行けば神の御国へ行けると主張したりという具合ですから、どの噂が本当の息子の言動なのかよく分かりません。

 

 過越しの祭りの前には各家庭で生贄の羊が屠されます。そして罪ある者は世を清めるために十字架にかけられます。この十字架刑は異邦人、すなわちローマ帝国の定めた法律によるものです。死刑の執行権を、帝国の支配下にある私達は持っていません。姦淫など重大な罪を犯した者は死ぬ寸前まで石打の刑に処せられます。

 十字架刑は律法を大きく逸脱した者や帝国に逆らう者、すなわち政治犯になされますが、表面的には盗賊・強盗などの罪名がつきます。

 この年は政治犯の多い年でした。誰が十字架刑になされるのかはまだ決まっていません。しかし、私の息子が十字架刑に処せられるだろうというのが専ら街の噂でした。しかし息子とその弟子達の居場所は不明とのことです。

 私はこれが主の御予定でないのなら、息子が十字架刑に架からないことを真剣に祈りました。


 息子を裏切った男。ケリトヨ出身の男性。イスカリオテのユダ。教団の会計係。

 この男の密告がなければ息子は死ななかったかもしれません。

 しかし、私はこの男を憎むことができないのです。

 その頃の揉め事について弟子達から詳しく伺いました。ある姉妹の家を訪問したとき、妹の方が上等な石膏でできた容器に入った香りのいい油を、息子の頭に突然注いだそうです。

イスカリオテのユダは

「こんな高価な油をもったいない。この油を売って貧者に施した方がましだ」

 と言ったそうです。ご存知のように救世主には頭から油を注がれることになっています。

「ご婦人はよいことをした」

と、息子は語ったそうです。

 イスカリオテのユダは心の中でこう思ったのでしょう。

「救世主ぶり上がって」

と。

 救世主は民達を率いて、悪の帝国、すなわちローマと戦わなければなりません。しかし息子には、熱狂的な信者や弟子達はいても多数派ではなかったのです。どうして救世主になり得るのでしょうか。ユダは息子の教団を救貧団体として運営したかったのかもしれません。貧しい人を救うのは、早急の義務でしたから。

 息子を捕らえる一行は息子の居場所はもちろん、息子の顔さえ知りません。息子とその弟子はオリーブ山近くの搾油所で夜を過ごしていたそうです。

 ユダが息子にキッスをしたのが合図で一団は息子を捕らえました。

 その時、他の弟子達は、あんなに息子を、救世主とか神の子とか慕っていたのに、誰1人、追手から息子を守ろうとせず、算を乱して逃げていったとのことです。

  

 ユダは、息子を捕らえる手助けをしたことで褒賞として銀貨30枚を渡されました。しかし私の息子が十字架刑にかけられると知り、いそいで銀貨を返したそうです。

 結局、この男性は花蘇芳の木の枝で首を吊って自殺したとのことです。3月から4月に美しいピンクの花を咲かせるこの木の下で、ユダは何を思って自殺をしたのでしょう。自殺は私達の宗教では絶対的に禁じられていますから。

 祭司長達は銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言ったそうです。司祭長達は相談して、その金で陶器師の畑を買い、異邦人の旅人たちの墓地にしました。

そこでその墓地は、今でも血の畑と呼ばれているとのことです。

 私はいつの日か、花蘇芳の木の枝で自殺した男を、「自分の罪の代わりに贖い死んだ者」として、教祖に奉る日が来るかも知れないと思います。


 十字架刑の日がやって来ました。

 十字架刑を受ける者は最初に鞭で激しく打たれます。次に重い横木を開いた両腕に括り付けらます。十字架刑を受ける者はその重い横木を自分で背負って長い道を歩かなければなりません。罪状が首に架けられますが、息子の場合は「偽・ユダヤの王」でした。王を決める権限は帝国の側にありましたから、これは死に値する重罪になります。息子の場合は棘の多い、野生の薔薇の枝で出来た王冠が被せられました。

 刑場に着くと、横木をつけたまま寝かされ、両手に鉄の釘が打ちつけられます。横木が上に引き上げられ、縦木と既に立ててあった縦木と組み合わせられます。そして全裸にされ、さらに鞭で打たれ唾を吐きかけられます。

 正午から午後3時まで3月の炎天下の中、大勢の観衆の元、人目にさらされます。時にはお腹を空かした野犬やカラスに身体の一部を齧られることもあります。あまりにも残虐な刑なので、私の言葉ではこれ以上、説明できません。

 十字架の刑に処せられたのは3人の男で、息子は中央に置かれました。左右に居たのは政治犯の男達です。十字架刑の開始の前に1名の恩赦される者が群衆によって選ばれますが、息子は恩赦されませんでした。代わりに恩赦されたのは熱心党の者で、この男がもし死刑されたなら、群衆は怒って蜂起したかと思われます。

 苦しい中、息子はさまざまなことを話しました。1つは御本の詩編22の朗読です。

「我が神、わが神、何ゆえ私を捨てられるのですか……貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主を褒め称えるでしょう。どうか、あなたがたの心が永久に生きるように。地の果ての者は皆思い出して、主に帰り、諸々の国の輩は皆、御前に伏し拝むでしょう。

国は主のものであって、主の諸々の国民を統べ治められます……地の誇り高ぶる者は皆主を拝み、散りに下る者も、己を生きながらえさせえない者も、皆その御前に膝まくるでしょう……主がなされたその救いを後に生れる民にのべ伝えるでしょう」

 と、息も絶え絶えに述べました。十字架にかけられても、息子の『神の御国』の信仰は変わらなかったのです。

 後で知ったことですが隣で十字架刑に架かっている政治犯―札には『強盗・人殺し』と書かれていますが—

「あなたが御国へ行ったとき、私のことも思い出して下さい」

 と言いますと、息子はなぜか

「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」

 と、返事をしたとのことです。十字架の高い所に架けられた息子の目には、来るべき御国が、楽園が見えたのでしょうか。

 こうも言いました。

「ご婦人よ、見なさい。あなたの息子です」

 息子はこの事態になっても、私を「お母さん」と呼んでくれません。しかし私は息子を、自分の産み育てた息子だと確信しました。顔は年より老けているが肉体は壮健でした。息子は私の初乳を飲み、私の乳を飲み、私が作った料理を食べて成長したのです。息子が私を許してくれなかったのは悲しいことですが、息子の立派さには、我が子ながら感動しました。

 処刑に立ち会った役人が、息子の苦しみを楽にしようと、海綿に浸した葡萄酒を口元に近づけましたが、息子は毅然と拒否して飲みませんでした。

「父よ、私の霊を御手に委ねます」

 息子の最期の言葉です。

 午後3時、死刑場の兵士は息子の脇を槍で刺して絶命させました。空はどんよりと曇り始めましたが、何の奇跡も起きませんでした。


 息子の墓場からの復活の話をします。

 十字架刑の受刑者は墓地に埋葬されるのを禁じられていました。しかし息子の場合は奇特なことに衆議会議員の1人の男性が息子を憐れんで、息子の遺体を引き取り、没薬と沈香を混ぜたものを遺体にふりかけ、亜麻布で巻きました。近くの墓園に空いている墓地があり、そこに葬られました。

 日曜日に—前日は土曜日の安息日なので—私は刑場で知り合った息子の女弟子達と共に息子の墓へ行きました。女弟子の、マグダラのミリアム―私と私の姉妹と同じ名前ですね―は、私の面立ちが息子にあまりにも似ているので、私のことを息子の姉か若い叔母だと思って声をかけてきたのです。

息子に塗油するため墓石を除けると、その墓の中は空っぽでした。私は誰かが息子の遺体を取り出して切り刻んで捨てたのだと思いました。息子のような十字架の刑を受けた者は墓に入れません。それに息子は神殿を侮辱するような発言をしていたので、信仰深い方から憎まれて当然なのですから。

しかし、弟子達・女弟子達はそうは思いませんでした。


 復活し生き返った息子に会ったという弟子達女弟子達の噂が広まったのは、その後まもなくのことです。

 弟子達は苦しんでいました。息子が捕縛されるとき、なぜ師であり《救世主》である私の息子を守ることが出来なかったのかと。

「本来なら我々も十字架に架かるべきだったのだ。我々は師であり主であるあの方と、生死を一緒にすると誓ったではないか。あのお方が投獄されれば我々も投獄され、死刑にされるなら我々も一緒に死ぬべきではなかったか」

 そう苦しむ弟子達の前に息子が、刑場で傷ついた身体も癒され、完全な姿で弟子達の前に現れたというのです。男性の弟子だけでなく、私と一緒に墓参りをした女弟子達の前にも息子は現れました。「義人の復活」はあり得ることだと私は信じます。

 しかし、息子は、私の前には現れませんでした。

 復活した息子に会った弟子達の間には新しい信仰が生まれました。

「あのお方はまことに神の子で、我々の罪を代わりに背負って十字架に架かった」

「あのお方は我々の罪だけでなく、全人類の罪を背負って亡くなられた。穢れた罪深い我々の罪を贖うのは、羊や鳩の遺骸では済まない。原罪なき神の子、あのお方は、神への捧げ物として、過越しの祭りの日に死んだのだ」

 と。

 弟子達の師とも主とも仰ぐ私の息子の死は辛いものでした。師の後を追って自殺しようかとすら考えたものもいたほどです。しかしイスカリオテのユダのように自分達は自殺を出来ません。自殺は律法でも強く禁じられた死に方だったからです。

 そう苦しむ弟子達の前に、生前よりも活き活きとした姿で蘇った息子をみて、そのような信仰が新たに生まれたのも不思議ではありません。

 弟子達は私の息子が自分達の師であり主である方の生母だと知り、いろいろ質問攻めにあいました。私は何気なく息子の謎多い出生にまつわる話を、言葉に迷いながらしました。

すると弟子達は言ったのです。

「あのお方は、処女から生まれたのですね。聖霊とは神であったのですね。まことに神の子だったのですね」

 と。

「御国は近い」という信仰も続いて信じられ布教されています。

心貧しい人、平和を作り出した者、義に飢えた者が行く国。争いも貧困も差別もなく、豊かで平和な国。それが御国です。私は御国を信じます。そうであって欲しいものです。

そして地上で罪を犯しても、悔い改め身を低くした者、私の息子を「まことに神の子であり、救世主であった」と信じる者が御国への狭き門に入れるとのことです。

 息子の遺志を受け継いだ教団「貧しき人」には、ギリシャ語を話す我が民族の同胞も増えて来ました  

 それと共に「御国へ入れる者」は、我が民族だけなのか、異邦人でも入れるのかということが取り正されています。つまり異邦人にもこの教えを広めるべきかどうかが問題になっているのです。

 そうだとすれば、我が民族にいつか与えられる平和で繁栄し独立した、我が民族の王国は、どうなるのでしょうか。

 もしかしたら我が息子は本当に「神の子」で、神の御国についての契約も我が息子を介して書き替えられたのでしょうか。

 全人類・諸民族も「神の御国」に入る資格を持つようになったのでしょうか。


 信者達の、私に対する評価は2つに分かれています。

 まず私を「神の子を産んだ処女であり母である女」として信仰することです。

 息子の生前の顔や姿を知らない、新しい信者はこう言います。

「きっとあのお方は、お母さまを男にしたような方だったのですね」

 と。

 私のことをギリシャ語風に「マリアさま」呼ぶ人すらいます。聖母マリア。

 私の息子は原罪がなく清らかな存在とされます。その息子を産んだ母親も、原罪なき存在なのです。

 ご存知のように全人類・諸民族の最初の人間は、主に禁じられた果物を食べ、その息子は人類最初の殺人者です。私達全人類・諸民族は、義人であろうとも、生まれながらの罪を背負っています。

 そして「神の子」を産んだ私には原罪がないという考えです。原罪なき子どもを産んだのですから、その出産も軽かったと信者はかんがえます。私の誕生すら、私の父が荒野で荒行中に私の母に聖霊の力で宿ったと考えます。それでは私には男の血が流れていないことになります。私は原罪なき神の子を産むための機械に過ぎないのでしょうか。


 もう1つの考えは、私はただの母親であり、息子を「神の子」と信じていないというものです。実際には、それに近いのです。

 でもただの息子としての思い出は沢山ありますね。

 例えばあの息子はパンが大好物でした。乾酪や肉すら興味を示さず、ただパンを好んで食べていました。こちらにいたときも、食事がパンと水だけのことが多かったそうですね。

 飲み物の好みは葡萄酒です。山羊乳や牛乳はあまり飲みませんでした。

「私の肉はパンである。私の血は葡萄酒である」

 息子らしい、一種の諧謔でしょうか。

「人はパンのみにて生きるにあらず」

 それでもパンだけの食事の日々が続いたようです。

 誰かの結婚式で水を葡萄酒に替えた奇跡ですか。結婚式の宴会が長引いたので「もう葡萄酒はありませんよ」と暗に息子に宴会を打ち切る相談をしました。息子は、相も変わらず「私と何の関係があるのでしょう。ご婦人。私の時はまだ来ていません」とか何とか言って、そのうち清めの儀式に使う大きな甕に真水を入れました。客にそれを出すと「なんと美味しい葡萄酒だ」と言われたのです。私達女は、宴会の接待で忙しく、その水だか葡萄酒だか分からないものを飲んでいません。悪い酒で悪酔いした後は、真水が美味しく感じられますからね。信者が葡萄酒を『主から許された善き飲み物』と勘違いしないか心配です。


 他に息子の思い出は……息子の説教には、私や私の夫の話が多いのです。「誰かが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」は、正に私の夫、あの息子の父親の生き方でした。「『はい』『いいえ』だけを言いなさい。それ以上の言葉は悪魔の言葉です」は、実はあの息子の父親があの息子に言った言葉なんですよ。あの息子が小さいとき、あまりにも屁理屈が多いので、父親が「『はい』だけを言え。しかし相手が間違ったことを言ったときは『いいえ』と勇気を持って言いなさい。それ以上の言葉は悪魔が言わせる言葉だと思いなさい」と叱ったことがあったのです。

 土曜日の安息日に治療をしたことは、私の母や継母を思わせます。私の母や継母は仕事のない日雇い労働者のために金曜日に大鍋にシチューを作り、土曜日にそれをふるまいました。その中に手が不自由で自分でシチューを掬えない人がいると私の母や継母は「主よ、ごめんなさい」と言いながら掬うのを手伝いました。主がその人の手を不自由にしたのは主の御予定があってのことかも知れないので、主への無礼を謝ったのです。

 息子は、安息日以外の日は仕事で治療を受けられない人のため、治療を施しましたが、主に詫びたのでしょうか。息子のしたことが主の御意志に沿っていたのか心配です。


「救世主は処女から生まれ、十字架に架けられ3日後に復活し、40日後に昇天した」

 信者達がよく唱える言葉です。

 しかし私は「十字架に架けられ」の部分しか信じられません。それでもこの教団に居るのは生活のためだけでなく、「神の国」すなわち御国を信じているからです。

 神の御国。心貧しき者、平和を作る者、温和なる者、義に飢えた者のための国。平和で満ち足りていて争いも差別もない国。そんな国が全人類・諸民族に来てもらいたいものです。

 しかし、最近では、その御国すら、私は信じられなくなってきたのです。

 罪深き人類に、平和で満ち足りた国が与えられるのでしょうか。

 例えその人が、心貧しく温和で義に満ちていても、周囲には罪人がいます。この世は罪人が作り、支配されているものです。自分1人だけ、義しい人間であることはあり得るのでしょうか。

 そして御国を相続しても、心貧しい人、温和なる人、平和を作る人、義に飢えた人ばかりであっても、その中で新たな争いが、その世を穢すできごとがないとは限らないのです。救世主が独裁者に変ずることもあり得るのです。

 私はこうして御国すら信じられなくなりました。

 私のあの息子も言っています。

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」

 と。


                    ―了―

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ミズ・ミリアムの独白録 高秀恵子 @sansango9

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