その血の色は滅紅

ハヤシダノリカズ

その血の色は滅紅

【濱本 裕理 個展 ― 人魚と祈り ―】

 海沿いの町の小さなビルの入り口に貼ってある小さなポスター、そこには私の名前と今回の個展のテーマがそっけないテキストで書かれている。その上部には私の代表作である海に浮かんだ小さな島とその上の家を描いた抽象画がプリントされている。そのポスターが貼られた壁の脇の狭い階段を上がった所にあるギャラリー、ここが今日という私の人生の一ページだ。


 作家在廊日さっかざいろうびをギャラリーが積極的に情報発信してくれたおかげで、私が在廊している日の訪問者数はまずまずのようだ。作家と呼ばれる事も在廊という言葉にも随分慣れた。昔はそれがこそばゆかったものだが、今では、数十点壁に掛けられた絵の内の一点を深く味わうように見ている人に、私の方から積極的に話せる位になった。それを「私の絵を買ってください」という営業努力だなんて思ってはいないけど、満足いく絵が描けるようになり、自然に人に話しかけられるようになってからは、展示している絵の売れ行きは好ましいものになってきた。もちろん、妙に馴れ馴れしくなったり、大家たいかのように偉そうに振る舞ってしまわないように常に自分を律していかねば、とは思っているが。


「こんにちは。この絵をとてもじっくりと見て下さってありがとうございます。私は今回このギャラリーにお世話になっている濱本 裕理と申します」私はじっと一枚の絵を見つめている一人の青年に声をかけた。【夜明けのマーメイド】とタイトルを付けた10号サイズの作品だ。

「あぁ。どうも。こんにちは。……、人魚が描かれている絵は他にも沢山展示されているけど、この絵の人魚が一番上手く描けているなと思って」

「ありがとうございます。まるで、実際に人魚を見た事があるみたいな感想ですね」と、言った後でヒヤッとする。『上手く描けている』なんて評論家みたいな物言いに対しての返答として少し嫌味に聞こえなかっただろうか。

「あぁ。人魚は美しく見えて、おぞましいものだ。他の人魚の絵にはまるでその悍ましさが見えなかったが、この絵の人魚にはそれがある」

 私の言葉を嫌味と捉えていないようでホッとしたが、青年のその感想を聞いて私はその絵の中の人魚を見、そして、絵を凝視している青年の横顔を改めて観察する。肌艶からは三十代前半の様に見えるが、深い哀しみや重い苦しみの様な何かを湛えた目はまるで老人の様にも見える。

「人魚って、悍ましいものなんですか?」

「あぁ。それを知ってしまったら、あなたはおそらく、今まで描けていた人魚がきっと描けなくなる」

 目の前の老人のようなその青年はそう言った。暗闇のような瞳を私に向けて。


 ---


 私には目の前の光景が信じられなかった。「見たいというなら、見せてやる」と言った青年――『洋介』とぶっきらぼうに名乗った彼の案内で明け方の海岸に来てみれば、確かにそこには人魚としか言いようがない生き物が岩礁の上に腰を下ろしていた。

「約束の物を持ってきた」洋介は人魚にそう話しかけて近づき、小さな布袋ぬのぶくろを人魚に渡した。人魚はそれを受け取り、中の物を確認すると「確かに。ワシらには山でしか取れぬコイツを得る手段がないのでのう。助かったわ」壊れた鈴のような、美しくもしゃがれた声で人魚はそう言った。

「では、教えてもらおう。オレがちゃんと死ねる方法を」洋介は焦りにも似た性急さで人魚に聞く。「キャーハハハ。そんなものは無いよ!我ら眷属の肉を喰らって生き残ったお前は永遠を生きるのさ。死ねるものか」人魚が言い終わるのも待たずに洋介は右手で人魚の首の辺りを薙ぎ払った。一拍の後に、人魚の首から鮮血が噴き出す。洋介の右手には鈍く光る短刀。洋介の半歩程後ろにいた私にも人魚の血しぶきが降り注いだ。


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 私は一枚の絵を描いた。人魚の、絵だ。バストアップの人物画として描いたから、これが人魚の絵だと分かるのは私だけだろう。

 二時間も共に過ごしていない洋介からは多くを聞けなかったけれど、人魚の肉を食べて不老不死となった彼の経験談や、実際に私が見た人魚の記憶を反芻しながら、私はカンバスの上に筆をくねらせた。人魚の返り血を浴びた服を煮出して、取り出した色水を煮詰め、絵の具に混ぜたそれを塗りこめた。


 無表情の美しい女。三日三晩寝ずに仕上げた絵。女はそして、絵から抜け出し、同性であるはずの私を時に優しく、時に乱暴に愛撫した。潮の香りと、メス特有の意地悪なにおいに包まれて、私は何度も何度も絶頂に達した。様々な色で汚れた冷たい木の板の床が私の背を刺し、女は私に覆いかぶさり身体の隅々をまさぐった。


 何処からが夢だったのだろう。私は裸で毛布にくるまって、アトリエの床で眠っていた。アトリエには当然私しかいない。絵は確かに完成している。絵から抜け出した女がそのままどこかに行ってしまったという事もない。


 ただ、無表情だったハズの女は僅かに笑みを浮かべている。


 美しくも悍ましい、笑みを。

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