宝石は、光が当たれば輝き人々を魅了するのに、光が当たらなければ存在すら認知されない。光が無ければ価値どころか存在も認知されない石ころに、はたして、存在している意味はあるのだろうか?
物語の主人公、終わりが迫る国に終わりの王として座することになったリゼルの行いもまた、意味を問われ続けるものだった。自分の心も願いも殺し、民に献身し続ける健気な王様。民を守ろうと頑張り続けた彼の行いには、しかし誰かを殺すことから始まり、その手は血に染まり続けた。
リゼルの思いは正しい。本当に? リゼルの行いは正しい。本当に? 本当かどうかの繰り返しに、やがてリゼルは消耗しきり、彼の隣を望んだ天のみ使い、クライノートの悲しみと慟哭は重なっていく。かつての王が失ったみ使いを取り戻そうとして、そうはならなかった出来損ないの彼女は、壊れゆく正しい王様のために考える。どうすればよかったのだろうと。
作中で現れる選択と矛盾、罪と罰、正否の数々は、本当を問うものばかり。錬金術師の王様が治める国に、真のものなどあるのだろうか。真のものがあるとして、それは万人に認められるのだろうか。
どこまでも優しく残酷な真実。どこまでも正しく純粋に追い求められた本当。今まさに読もうとしているあなたは、読了して終わりを見届けたあなたは、この世界に何を思うのでしょうか。いずれにせよ、最後に残された輝きを、どうか末永く記憶してほしい。誰にも認められずとも、確かに輝いていたものを。
『私は悲劇を愛する。悲劇の底には何かしら美しいものがあるからこそ悲劇を愛するのだ』
喜劇王と呼ばれたチャールズチャップリンの名言である。この物語を読み終わり、目を閉じたとき、かのチャップリンの言葉が頭に思い浮かんだ。
本作は悲しき物語である。そして、それゆえに美しい物語である。
望まずに王となった錬金術の天才少年リゼル。
片翼の翼をもつ天の御遣いと呼ばれる少女クライノート。
宝石のように美しく、硝子細工のように儚い彼らの人生が、ここには鮮烈に描かれている。
読んだものは思うだろう。
――救いがない。しかし、なんと美しいのか。
それはひとえに作者様の秀麗な感性と、キャラクターに対する愛がなせる技ではないかと私は考える。ただ残酷なだけではない。風と散る桜が美しい情緒を引き出すように、砕け散っていく世界とキャラクターたちの心理描写があまりにも情緒的で、愛をもって書かれているからこそ、美しいのだ。詳しくはネタバレになってしまうからかけないが、大切なものを次々と失い、望まぬ力を手に入れ、世界のために自分の体さえ差し出したリゼルの孤独な心情や悲愴が、そんなリゼルたちを愛を持って心配し寄り添うクライノートたちの想いが、これでもかと丁寧に丁寧に、まるで石を磨くような繊細さで表現されている。その心理描写の巧みさも、本作の特徴ではないかと思う。
また、この物語のもう一つの特徴として神話性が上げられよう。たとえば、冒頭の天の御遣いと初代錬金術の王との物語。たとえば、死とともに石となる人間たち。錬金術で生み出されたホムンクルス。世界の終末を予感させる様々な概念。こうした一貫した神話性は、この物語の美しさを支えている重要な要素の一つだろう。あまりにも神秘的だから、残酷な悲劇すら敬虔に映る。そうした効果もあると思う。
ネタバレを避けつつ、色々と語ってしまったが、まずは手にとって、この物語に流れる作者様の鋭い感性と、悲劇の中に宿る美しさを感じとってもらいたい。私が雄弁に語るより、そちらの方がかならず良い悲劇のカタルシスを感じられるはずだから。
斑鳩睡蓮氏の、美しき残酷な世界をあなたも楽しんで欲しい。
読み終われば、かならず心を動かされるはずだから。