第三話 宙、泳ぐ

「……これが、ちょうど三年前。お前が事故に遭うまでと、遭った直後の話。僕が覚えている限りのことだ」

 網膜を貫く光とともに告げられたその事実は、目覚めたばかりの自分雨依にはあまりにも重すぎるものだった。

 途端に、混濁していた記憶の底から得体の知れない気持ち悪さが込み上げる。真っ白な壁を背に立つ目の前の若干大人びた少年と、そこから発せられる聞き慣れた兄の声。

 その小さな違和感はさざなみとなり、やがて大きな記憶の波となって脳を割れんばかりに穿うがち、またたく間に全身を飲みこんでいく。

「ママ……」




 そうだ、あの日。兄と喧嘩をして家を飛び出した日。

 お気に入りの公園でうずくまって泣いていた私を、母はすぐに見つけ出して、何も言わずにそっと抱きしめてくれた。

『ねえママ。雨依はやっぱり、おかしいのかな。今まで気がついていなかっただけで、本当はみんなおかしいと思ってたのかな』

 喉を涙で詰まらせて震える私の背中を、母は優しくさすり続ける。そのてのひらの温かさに、悲しみに強張った心が少しずつほぐれていくのを感じた。

『大丈夫、大丈夫だから』

『でも、でもお兄ちゃんは』

『大丈夫。おかしくない。……どっちもおかしくなんて、ないんだよ』

 芯の通った母の声が胸の中でじんわりと広がり、こだまするかのように体中からだじゅうを駆け巡る。大丈夫。それは、ゆりかごみたいなぬくもりをはらんだ、不思議なおまじないの言葉。

 あれだけ心を支配していたはずの不安は、今やお日様の香りに包まれてフワフワとどこかへ飛んでいってしまった。


『ねえ、雨依ちゃん。……お母さんもね、実は少しだけ、ほんのちょっぴりだけではあるけど、見えるの。そういうのが』

『……嘘』

『本当よ? あの時飲んだ水の中に何かがいたこと、飲む前からわかってたもの』

 それなら、どうして。驚きと疑問がごちゃ混ぜになって、自然と口からこぼれ出る。その問いかけに母はクスッと微笑んで、いつくしむように目を伏せた。視線の先、膨らんだお腹から、答えるように小さなノックが返ってくる。

 水の中、陸を夢見て眠る生命いのちが、身体越しにこちらを見つめているような気がした。

『さあ、なんでだろう。上手くは説明できないんだけど……でもね、見た瞬間に思ったの。この子が家族になったら、きっともっと賑やかで、もっと楽しくなるんじゃないかって』

 お兄ちゃん達には内緒。母は唇に人差し指を押し当てて、お茶目に笑ってみせる。

『……帰ろっか』

 差し伸べられた白い掌に、ちょこんと座り込む一匹のカエル。その存在を指先で確かめるかのように、私はそっと手を重ねた。




 確か、それが母と交わした最後の会話だったように思う。あの後、帰り道で急に産気づいた母が車にかれそうになって。それで私がかばおうと飛び出して。

 ……でも、結局間に合わなかったみたいだ。

「ごめん、なさい」

 頭から血を流して倒れ込む母。赤い視界の隅に映ったその姿を、昨日のことのように思い出す。

「……ごめんなさい。雨依のせいで、死なせてごめんなさい。守れなくて、ごめんなさい!」

 決壊した涙腺から、とめどなく感情が伝い落ちる。苦しい。自分だけこうして生き残ってしまった罪悪感が、どうしようもなく苦しくて、悔しい。いくら涙を流したところで、この悲しみは、失った月日は変わらないと言うのに。

「そうじゃ、ないだろ」

 ベッドの上、行き場を失ったか細い手を、少年は優しく掴んで離さない。

「……お兄、ちゃん?」

 その意固地さ。顔を歪めて泣く姿。懐かしい面影が、少しずつ記憶の中の兄と重なっていく。

「責められるべきは、謝らなきゃいけないのは僕の方だ。今更謝ったところで、どうにもならないことくらいわかってる。ただの自己満足なのかもしれない。それでも、あの時のことを……! わざと雨依を傷つけたこと、母さんが亡くなる事故のきっかけを作ってしまったこと、お前から、三年間も奪ってしまったこと——それをきちんと、目の前で謝りたかったんだ」


 兄は深々と頭を下げて、何度も何度も謝り続けた。「ごめん」と呟くたびにあふれる涙が、足元に小さな水溜みずたまりを作る。それでも、降り注ぐ謝罪の雨は一向に止まなかった。

 三年経っても、兄はやっぱり私の兄のまま。ぶっきらぼうだけど、母と同じ、優しい心を持っている。それが余計に、眠っていた辛い気持ちを次から次へと呼び起こす。

「違う、違う……! 勝手に飛び出した雨依のせいでしょ! 何も出来なかった、一人だけ生き残った雨依の!」

「それは違……」

「違わない! お願いだから謝らないでよ……。どうにもならないってわかってるなら、もうこれ以上優しくしないで。お願い、だから……」

 白い病室に、すすり泣く私たちの声だけが暗く満ちていく。春らしい、うらららかな日差しとは裏腹に、吹き抜ける風は冷たく虚しいものだった。


「どーしたの?」

 重い沈黙に差し込む一筋の光。不意に、開かれた扉から、幼い子供が歩み寄る。ぺたり、ぺたりとおぼつかない足取りで、それでも真っ直ぐ、私を目指して。

「あっ」

 途中で転んでしまったその女の子に、私は思わず手を伸ばす。しかしその子はすぐに起き上がり、ニコニコと平気そうな顔で、ただ前だけを向いていた。

「だいじょーぶ、だいじょーぶ」

 普通なら、泣いたっておかしくない歳のはずだ。それなのに目の前の、年下の子供は、その明るい笑顔をちっとも崩そうとしない。

 引っ込めかけた手の甲に、一回り小さく柔らかい手がゆっくりと触れて重なり合う。その体温は、忘れもしない、あの日の母と同じ温もりだった。

「お姉ちゃん、なんで泣いてるの? だいじょーぶ?」

 その言葉が、まだ胸に残る母のおまじないが、ますます目頭を熱くして、周囲をぼやけさせていく。

「これ、あげる。だから、泣かないで」

 そんなことをこの子が知っているはずもなく、困り果てた女の子は折り畳まれた紙のようなものをポケットから出して、布団の上に広げて見せた。

 所々につぎはぎの、テープの跡が走る一枚のスケッチ。それは三年前、私がかつて思い描いていた、幸せな家族の落書きそのものだった。

「これ……! でも、なんで……どうして、この子が?」

「だからさっき言ったんだ。違うって」

 兄は女の子の頭を撫でながら、窓の外に広がる空を見やる。

「一人だけ、お前だけ生き残ったわけじゃなかったんだよ。確かに、母さんはもうこの世にはいない。でも、最後の最後に妹を……ソラを残してくれたんだ。雨依のおかげで、この子は今ここにいる」

 久しぶりにつなぐ兄の手は、心なしか震えているように感じた。


 左手には妹の、右手には兄の、確かな感触がそこにはある。血の通った、紛れもない生命の温かみ。

「雨依は、ちゃんと守れてた……?」

「ああ」

 二人の手を、見失わないように強く握りしめる。

「ソラちゃんは、雨依の妹は、ちゃんと生きてる……」

「ああ」

 握り返された両手から伝わる温度が、心を静かに満たしていく。

「そっか、なれたんだね……。大きく、なったね」

 あの夏の自由研究は、もう二度と出来そうにはないけれど。それ以上の、何者にも変えられない最高のプレゼント……母が残してくれた思いを、家族みんなで一緒に育てていく。これもまた、新たな自由研究の第一歩なのかもしれない。

 広げた紙の中央にポトリと落ちたしずくは、もう悲しみに染まってはいなかった。

 きっとこの先、私は何度もあの日の悪夢にさいなまれて、そのたびに泣いてしまうことだろう。カエルも、母の顔も、いつかは涙に滲んで消えてしまう日が来るのだろうか。だとしても私は、全て忘れずに生きていきたい。

 母の命日は、大切な妹の誕生日でもあるのだから。

「あ!」

 妹が指差す先、窓の向こうの青空に、見慣れたシルエットがふとよぎった。

 おたまじゃくしは、今日も元気に、自由にそらを泳いでいる。

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おたまじゃくし、宙を泳ぐ 御角 @3kad0

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