第二話 天、かえる
「それで? 自由研究の発表はどうだったんだ」
あっという間の夏が過ぎ、既に色づき始めた木々が、その身に染み付く残暑を払うかのようにざわめき鮮やかな葉を
「『失敗は成功の母、また来年頑張ろう』って、先生が。……ねえ、お兄ちゃん。シッパイとセイコウなんて名前の人、実際にいるのかな?」
妹は何やらとんだ勘違いをしているみたいだが、まだ一年生ということもあって先生も大目に見てくれたようだ。僕としては、いっそのこと叱り飛ばしてくれた方がよかったのだが。
「まあ、観察結果が毎日、あのコピーしたみたいな絵ばっかりじゃなぁ……」
「だって! ソラちゃん、ママの周りを元気に泳ぐだけで全然成長しないんだもん」
結論から言えば、確かに妹の研究は、誰が見ても明らかに失敗だった。だが、それは別に発表内容が
単純に、普通のおたまじゃくしでもカエルになるまでには一、二ヶ月かかる。そのため、まさか発表されたおたまじゃくしが実際には存在しないなどとは夢にも思われず、学校における妹の立場が危うくなることも当然なかった。あくまでギリギリで、普通だと見なされた。ただ、それだけの話だ。
「あ、また飛んでるよ。おたまじゃくし」
ほら! と晴れ渡る空を指差して、妹は朗らかに笑う。つられて視線を上げると、確かにそこには、白い
妹が言う「おたまじゃくし」の存在と、母の妊娠。これは果たして、偶然なのだろうか。それとも、僕が認識していなかっただけで、本当に……?
目をいくら
「お兄ちゃん?」
ハッとして隣を見ると、妹は不思議そうな顔で僕の瞳を覗き込んでいた。まるで、その奥底まで見透かされているような。そんな純粋無垢で、たまらなく嫌になる視線だ。
目を逸らそうとして、ふと気がつく。妹の姿が、なんだかやけに曖昧で、そこらじゅうに綿飴が張り付いているように、白い。
妹だけではない。先程まで見上げていた空も、地面も、水たまりに映る自分自身でさえも。ありとあらゆる景色の中に、
「目、かゆいの? ……大丈夫?」
その左目の違和感を隠すように、僕はそっと自分の顔に手を
なんだ、そういうことか。頑張れば、いつか同じものが見えるんじゃないか……なんて。一度でも、信じた僕が馬鹿だったんだ。
『あー、これは……。
その後、病院で何を聞いたのかはよく覚えていない。難しい専門用語ばかりが耳を素通りして、それでもたった一つだけわかったこと——それは、一度濁ってしまった角膜は二度と元に戻らないという、あまりにも残酷な事実。たとえ片目が無事だとしても、視界を遮るこの白い靄と一生付き合わなければならないかもしれない。淡々と告げられた診断結果に、僕は絶望せずにはいられなかった。
『まあ、まだ若いですから。ドナーさえ見つかれば、移植のチャンスもあるでしょう。あまり気を落とさないで』
目を閉じれば、帰り際にかけられた慰めの言葉が脳内で
「クソッ……」
そうじゃない、逆なんだ。若いからこそ、簡単に諦められなくて辛いのに。角膜、移植、ドナー。その可能性が限りなく低いことは、検索すれば一発でわかることだ。
「なんで……なんでだよ!」
暗い自室を
ゆっくりと、それでも確実に、季節は巡り、流れていく。冬から春になるにつれて、母のお腹は少しずつ膨らんでいき、いつの間にか妹の描くおたまじゃくしも成長の兆しを見せていた。
「……お前、まだそれやってたんだ」
「自由研究はいつやっても自由だからね。これで次こそバッチリ、花丸間違いなしだよ!」
そう息巻いて、妹は生き生きと手を動かし続ける。「この前、やっと足が生えてきたんだよ」と嬉しそうに渡されたその
もう、ほとんど見えやしない。母の腹の中で、妹の頭の中で、何かが育っていくのに対して、僕の視界は半分も奪われてしまったのだ。一度そう思うと、なんだか無性に悲しくて。そして無性に、この世の全てに腹が立った。
「ちょっと、ちょっと! 見るフリじゃなくて、ちゃんと見える方で見てよー」
その妹の何気ない一言が、
「……見える方って、なんだよ」
紙を握る手に、より一層力が加わる。
「僕は……僕は!」
指先に伝わるのは、しわくちゃの、弱くなった繊維がじわりとほつれていく感覚。
「僕には! はなっから、お前の言っているおたまじゃくしなんて、見えちゃいないんだよ!」
一度入った
「お、お兄ちゃん……なんで? なんでそんなことするの、ひどいよ!」
「ひどいのはお前のほうだろ! いい加減にしろよ。僕の目は、両方ともおかしくなんてない。見えるお前が……お前の方が、ずっと、ずっとおかしいんだよ!」
妹の
「……嫌い。お兄ちゃんなんか、大っ嫌い!」
引き止める間もなく、妹は部屋を飛び出して、そのまま家の外へと逃げるように駆けていってしまった。
騒ぎを聞きつけた母が慌ててその後を追う。情けなかった。今の母に比べれば、僕の身体は飛ぶように軽いはずなのに。真っ先に動くべきなのは自分自身だとわかっていたのに、手は震え、足は底なし沼に浸かったように動かない。結局僕は拳を握りしめたまま、ただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
もしあの時、プライドなんかかなぐり捨てて、僕が妹を引き止めていたら。自分の心を押し殺してでも、妹の相手をしていれば。そんなことを考えたところで、過去にこびりついてしまった罪を今更拭うことなど出来はしない。もう、取り返しなんてつくはずもない。
ようやく意固地になっていた
仕事場から急いで帰ってきた父は、玄関に入るなり泣き崩れて、
「う、雨依が、車に……。あいつも……お母さんも、それに巻き込まれたって」
硬直していた体から、血液が抜けていくような冷たい感覚。指の間からすり抜けて落ちた
それからの日々は、まるで目まぐるしく巻き取られていく映画のフィルムのようだった。濁った角膜はドナーのおかげで無事取り除かれ、今では空の青さが一段と目に染みる。火葬場の煙もこれならよく映えそうだ。
思えば、僕はいつも家族からもらってばかりだった。愛も、知識も、経験も、そしてこの角膜も。いくら視界が晴れたところで心にかかった
葬儀から帰った日の夜、一人自室で握りつぶした紙を丁寧に広げると、そこにはなぜか一匹のカエルがいた。下手くそなタッチで描かれた、父と僕と、妹と、生まれたてのカエルを頭に乗せて笑う母。
おたまじゃくしの裏に描かれたそれは、僕が今までずっと見逃してきたもの。目を逸らし続けていた、現実そのもの。
父に抱きつかれた時も、お通夜でも、葬式でも泣かなかった僕は、この時初めて両目が痛くなるほどに、熱く透明な涙を流した。
僕は生涯、この後悔を背負って
何年かかるかわからないけれど、もう一度雨依に会えたら、その時は……。その時まで、この繋ぎ合わせたカエルは、僕がきちんと責任を持って見守っているから。
柔らかい炎が、煙となって安らかに天へと還っていく。
「……さようなら」
遠く淡い空を
「ありがとう、さようなら……母さん」
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