おたまじゃくし、宙を泳ぐ
御角
第一話 空、想う
「……暑い」
容赦なく照りつける日差しに思わず目を細めると、額から
「お兄ちゃーん!」
田舎道に響き渡った甲高い声に、僕はうんざりしつつも振り返る。小学生になったばかりだというのに、興味のままにほっつき歩くクセは相変わらずらしく、妹は水の入ったペットボトルを抱えながら遅れを取り戻すかのようにこちらへと駆け寄った。
「そんなに大声出さなくても聞こえるっての。てか、その勝手にどっか行くクセ、いい加減に直せよな」
「だって、
僕の小言なんてどこ吹く風と言わんばかりに、妹はペットボトルの
「おっ、なんだ。
そう言って反射的に伸ばした僕の手は、思いがけず
「ちっがーう! これは飲み水じゃないの! おたまじゃくしのおうちなのー!」
「は? おたま、じゃくし……?」
水で満たされたその容器を恐る恐る
昔からそうだった。妹の雨依は時々、訳の分からないことを言っては、僕ら家族を困らせてきたのだ。それは幼さゆえの嘘、いや、空想であると、何度も自分に言い聞かせては、その虚構に耳を傾けて構ってやる。それが家族の、兄である僕の役割なのだと、父も母も、僕自身も理解はしていた。
けれど、妹があらぬ方向を指差して声を上げるたびに……妹が、空を見上げて笑うたびに、付き合わされる父と母。そんな両親を見ていると、何故だか僕の心は、どす黒い沼につかったように重苦しくて仕方がなかった。
悪気がないことくらい知っている。妹のことだって、別に嫌いなわけじゃない。それでも、まるで僕だけを置き去りにして、妹ばかりが注目を集めているようで……。それがどうにも気に食わないというのが、僕の正直な気持ちだった。
「お兄ちゃん……もしかして、おたまじゃくし、嫌い?」
「え、なんで」
「……なんか、変なお顔、してるから」
透明なペットボトルに映る自分は、確かになんとも言えない表情でこちらを見つめていた。言えない。僕にはおたまじゃくしが見えないなんて、とてもじゃないが告げられない。
「ごめん、ごめん。ちょっと考え事してただけ。それで? 雨依はその『おたまじゃくし』をどこで捕まえてきたんだ?」
そうやっていつものように話を合わせると、妹の目は再び日の光を吸い込んで、キラキラと乱反射し始めた。
「うん! あのね、えっとねぇ……降ってきたの! 空をたくさんおたまじゃくしが泳いでてね、それをじっと見てたら急に一匹、雨依の頭に落ちてきたんだ。でも水が無いと死んじゃうと思って、お水の中に入れておいたの。どう? 雨依、偉い?」
「あー、うんうん、偉い偉い」
適当に相槌を打ちつつ、そのフワフワした髪ごと頭を
大方そのニュースでも見て、妹は興味を持ったのだろう。そして結果、この架空のおたまじゃくしが出来上がったというわけだ。
「空飛ぶおたまじゃくし、ね」
そんなものが、本当にあるなら見てみたい。貼り付けた笑顔の裏で、僕は皮肉混じりにそう
二人、手を繋いで帰る
そもそも今日出かけたのは、夏休みの自由研究に向けてお互い題材を探すためだったはずだが、今の妹はそれを覚えているかどうかも怪しいものだ。
「なあ、雨依。お前、結局、自由研究どうするんだ?」
「ふっふっふ……そういうお兄ちゃんは?」
予想に反して自信満々に微笑む妹に若干の気味悪さを感じながら、僕は鉛筆を回すのをやめて頬杖をついた。
「そうだなぁ……。『火を使わずに外の暑さだけで、目玉焼きは焼けるのか』とか?」
「何それ、雨依も手伝う! 食べる係、します!」
「いや、食い意地張りすぎだろ! ……まあ、その時が来たら頼むかもな。それで、お前のほうは」
振り向き、質問しかけて、ふと口をつぐむ。妹の考えが何となくわかってしまった自分に、心の中で舌打ちをした。
「そりゃあもちろん、このおたまじゃくしだよ。『空から降ってきたおたまじゃくしはちゃんとカエルになるのか』……きっとこれは、自由研究のテーマが思いつかなくて悩んでた雨依に神様がくれたプレゼントに違いない! ねー、ソラちゃん」
「……ソラちゃんって?」
「空から来たから、ソラちゃん! ふふ、可愛いでしょ」
もう名前まで付けたのか。僕から見れば、ただのペットボトルに話しかけ、挙句の果てに
翌朝、絶好の
「お兄ちゃん、大変! 大変だよー!」
「……」
「ちょっと、お兄ちゃん? 起きて、起きてってば!」
「うーん、あと五分……!」
毛布を引っ張り合うこと数分。ようやく諦めて起き上がった僕の前には、あの例のペットボトルが置かれていた。
ただし、空の状態で。
「あれ、水は? 飲んじゃったのか?」
「え? 雨依、てっきりお兄ちゃんが飲んだのかと思って……」
心外だな、と思いつつ、寝起きで
「どうしよう、これじゃ自由研究出来ないよ……」
「まあまあ、また別の題材を探せばいいじゃないか。普通に池で捕まえたおたまじゃくしを飼ってみるとかさ」
「やだやだ! 雨依はあのおたまじゃくしのがいいのー!」
「消えたものはしょうがないだろ! 大人しく諦めろよ、どうせ……!」
全部全部、お前の、妄想じゃないか。
「どうせ……何?」
「あ、いや、その」
カッとなって、つい漏れ出た負の感情。慌てて口を抑えても、
いっそのこと、もう言い訳なんかせずに、真実を突きつけてしまおうか。そんな残酷な考えが、沸々と腹の底から
「ねえ、お兄ちゃ……」
「あら、どうしたの? 珍しく早起きしたと思ったら急に
口論を聞きつけたのか、母はあくびをしながら僕らの間に割って入った。
喉元で渦巻いていた悪意は、再び心の奥へと沈んでいく。妹を傷つける一歩手前で何とか踏みとどまれたことに、僕はホッと胸を撫で下ろした。
「別に、喧嘩ってわけじゃないよ。ペットボトルの水がどうのこうのって、雨依が騒ぐから……」
「あ、あー!」
その時、突然妹は母を指差して、今日一番の大声を上げた。いや、もっと正確に言うならば、その指は母のお腹に向けられている。
「ああ、そのお水……昨日置きっぱなしだったから飲んじゃったんだけど、雨依ちゃんのだったかー。ごめんね、また同じの買ってくるから」
「……いる」
「うん? うん、今はないけど、買ってきたらあげるね」
母はまた大きなあくびを一つして、そのままのろのろとトイレに入った。
一方、妹はというと、口をぽかんと開けて固まり、ただじっとトイレの扉を凝視している。なんだか、無性に嫌な予感がする。
「は、はは……まさか、な」
重い沈黙の中に、ただ水の流れる音だけが広がっていく。さっき顔を洗ったばかりのはずなのに。それなのに、トイレから出て廊下を歩く母の
母の妊娠がわかったのは、それから数週間ほど後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます