???


「はい、もう大丈夫です……いいえ、こちらこそ、申し訳ありませんでした……はい……ありがとうございます。宜しく、お願い、します————」


 カーテンが開かれた窓から差す光。

 ベッドのサイドフレームを背もたれにし、床に直に尻を置く彼女は、スマートフォンの通話を切った。肩から後頭部に当たる陽光が、春、を感じさせる。

 通話の履歴ボタンを押す。一番上には「——教授」と書かれていた。その下には「お母さん」。更にその下には————。


 彼女は一度、かよっていた大学を辞めた。他人のせいで。そして、自分のせいで。

 しかし、もうすぐ始まる今年度から、また同じ大学に、通うようになる。復学、ではなく、再入学、だ。あと一年で卒業だとはいえ、それなりに高い授業料だった。

 ——ふふ、私って大人になっても、色んな人に迷惑、かけっぱなし。

 何故彼女がまた入学する気になったのか。それは母校を数回訪れた時に、彼を、見たからである————。


 初めは四月。

 在学中にお世話になったよねばやし先生に挨拶、いや、と職員室へ行った時に偶然、机の上にある名簿が目に入った。どこにでもある平凡な苗字、名前は、少しだけ非凡かもしれない。自分が夢中になり、落ち込んだ理由にもなった、彼の名前だ。

 米林先生は思った通り彼女を慰めてくれたが、せっかくの先生の言葉も半分程度しか耳に入って来ない。

 ——なぜ彼が、くら高校に? 

 自分を追って来たのか。彼の方から自分を切ったのに。しかし彼女はそれを、即座に否定した。そもそも彼に、自分の通っていた高校などは、教えていないのだから。

 気分が晴れないまま彼女は恩師に礼を済ませ、四角いフォルムに丸いヘッドライトの付いた、水色の軽自動車に乗る。彼女の住まいはここから遠く、電車を使ったほうが早い。それでも彼女は、それに乗って来た。

 どこかに寄り道をしても良かったが、それすらも今の自分にはおっくうだ。少しは気晴らしになるかもしれないと期待した自分の選択を、彼女は後悔していた。

 しばらく車を走らせると、彼がいる。少しだけあの頃よりも髪が短かったが、それでも見間違うはずがない。忘れたくても、忘れられないその後ろ姿を見た時、思わず停車した。

 彼はボロボロのアパートの中へ消え、間もなく後ろからクラクションの音が鳴る。一車線だけの混みやすいこの道では、車が一台停まっただけでも迷惑のだ。

 慌てて車を走らせた彼女は真っ直ぐに帰路に着いた——。


 二度目は七月。

 ここに通う生徒達にとっては夏休み中で、米林先生が「何かあったならいつでも来い」と言ってくれたので、その言葉に甘えた形である。何故この日を選んだのかというと、彼に鉢合わせたくなかったからだ。

 そして、どこかで期待もしていた。

 この学校では夏休み中であっても部活以外で登校してくる生徒が多い。もし会えたならば、話せる時間もあるかもしれない。

 しかし、確実に話せる日を、選ばなかった。スマートフォン内部に彼の連絡先は登録されている。でも、自分から通話ボタンを押す勇気が出ない。偶然が後押しをしてくれない限り、彼に関わるのは無理なのだ。

 学校に、彼は、いなかった。

 今度は電車で来ていた彼女だが、その足は別の方角へ向いていた。

 彼の、アパートのある、方向に。

 アパートの前に着いた彼女だが、外から彼を見る事ができるはずもない。彼女がきびすを返して駅の方向へ戻ろうとした時、彼が、いた。

 彼と、目が合う。

「あ、琇——」彼女が言いかけた時、彼に、目を逸らされた。そのまま彼は早足で彼女の脇を通り抜ける——彼女は、振り返れなかった。

 彼女は、ここに来た事を、後悔した——。


 三度目。

 秋。

 何故ここへ来るのだろう——そう思う彼女は、駅構内から続く階段を降りて、外へ出る。残暑が厳しい為、彼女はノースリーブのサマーニットを着ていた。

 その服装が、彼女の心境を物語っている。

 心の整理が、つき始めていた。

 思えば自分は、自分を伝えるのが、下手だった。だから学生時代は、自分は一人でいる事を好きである、と、思い込んでいたのである。

 幸い自分は勉強が得意だ。

 他の人達と話が合わないのは、他の人達と自分には、知能に決定的な差がある。そのせいで話が合わない。

 そういうふうに、思い込んでいたのだ。

 実際今でも、そうであるとも、思う。確かにそういう風潮は世の中にあるし、自分のわかる事が他人にはわからない、そんなシチュエーションも多かった。

 しかし根本的な原因はそうではなく、自分自身がわかり合う事を諦めていたからだ。面倒な事を「そうである」と決めつけ、そこで終わっていた。

 なのに、良い大学へ進み、中途半端な自尊心を得た自分は、その問題が勝手に解決されたと思い込み、

 伝える為のアイデアを幾つも考えていたが、伝える相手も見ずに、それを一方的に押し付けようとして、そして、相手の子供達にも自分を、見てもらえなかった。

 本当は、わかっていたのだ。

 小手先の手段よりも、まずは自分を変える。変わった自分は相手を変えようとはせずに、見て、聞いて、感じて、受け止めて、受け入れる。まだそれができない子供達に対して、そうする為の立場が、大人。

 それができなかったのが、以前の自分。

 それを見えないように隠して、甘えさせてくれたのが、彼。

 見ない事が普通であると感じて、自分を見てくれない人が異常だと感じた。見てくれる彼だけが正しい。彼に甘える自分も、間違えていない——本気で、そう感じていたのである。

 そして、その間違いに彼が、

 だから、突き放された。一方的に。

 酷い別れ方をされたものだ。一方的に肯定され、慰められ、夢中になった時に突き放される。ただ酷い事をされるよりも、よっぽど酷いと感じたし、今まで生きてきた中で、一番ツラかった。自分の話を聞いてもらえない事よりも。


 ——でも、それが子供なんだよなぁ。


 自分が子供であったように、彼もまた、子供なのである。彼は好かれるのは得意だったが、嫌われるのは苦手だったようだ。

 自分の初恋の相手はそれが上手く、告白する前に、やんわりとしたものである。誰にでも得意なものが有れば、苦手なものもある。

 自分は他人にわかってもらう事だけを考えて、それが、わかってもらう機会を潰していた。

 彼の場合は逆で、他人をわかろうとするからこそ、自分をわかってもらおうとはしていなかった。

 お互いに、一方通行。

 その事に気づいた時、未練は薄まる。それと同時に、他の事にも気づけた。

 人間、誰かの手助けがあれば楽しく生きられる。でも一人でも、立ち直る事ができる。

 実際自分はそうやって生きてきたし、だからこそ、教師を目指す事もできた。でも一人で生きてきたからこそ、伝えるのが下手だったのだ。

 どちらにせよ、自分らしく生きれば良い。

 そう気づけた。


 ——そうか。私は、

 

 自分は突き放され、放って置かれた。でも、なんとか立ち直ろうとしている。

 彼もそうであって欲しいと、


 ——まったく、どこまで行っても私ってやつは……。

 

 彼女と目が合って無視した彼は、とても、我慢しているように見えた。自分もそれを悲しく思ったが、まだ忘れられていないのだと、嬉しくも思う。

 それでも彼は、自分を忘れなければならないのだ。


 学校から出て来た彼は、女の子と楽しそうにお喋りをしながら帰っていた。二人の様子から見てまだ恋人同士、というわけではないだろう。仲良く言い合いをしている彼と女の子を見ると、胸が苦しくなる。

 しかし、乗り越えねばならない。

 だから彼女は彼らに近づく事もせずに、離れて行った。

 何故なら自分は、大人、だから。


 ————そして昨日の夜、彼から着信が入っていた。

 昨日のうちにかけ直す事ができなかったのは、まだ自分は大人になりきれていないのであろう。この通話ボタンを押すならば、それを隠さなければならない。

 おと、な、なの、だから——。


 彼に電話をかける。

 繋がった。


「……もしもし」

 彼の声だ。

「もしもし、久しぶり」

 大丈夫だ。声は震えていない。

「ごめんなさい。急に、連絡なんか来て、困っちゃったよね? そんな資格なんて、ないのにさ……」

 彼のほうが少しだけ、震えている。

「……ふふっ、何言ってるの? 久しぶりに声が聞けて、嬉しいわよ?」

「え?」

 本当だ。本当に、うれしい。

 うれしい、はずだ。

「何よ? 私が嬉しかったら、ダメ?」

「そんな事は、ない、です」

「どうして敬語なの?」

「あれ? なんでだろう、はは」

「それで? 何か言いたい事があるから、連絡して来たんでしょう? どうかした?」

 端的に、質問をする。あまり長くは、話せそうにない。

「僕は自分でも最低だと思う。今さら、謝りたい、なんて」

 謝りたい、という事は、最低ではない。最低なのはその前の「自分でも最低だと思う」という、前置きだ。何を言われても、「大人の対応」をしなければならない。

「謝られる事は、何もされてないわよ? 君は、私の失敗を、助けてくれただけ」

「でも——」

「その失敗に気づけたのは、君が私をフってくれたから、よ」

「そ、そうです、か?」

「う、うん……そう、よ? だから、謝らな、いで……?」 


 ああ。


「せ、ん、せい」

「ど、どうしたの? あ、わかった。泣いてるんで、しょう? ふふっ、お、男の子の、ほう、が、未練タラタラなのって、本当、なのねっ?」

「あ、はは……い、今さら、知った、の?」

「そう、よ? だって私、君が、初めてだった、ん、だからっ」

「そう、だった。はは、忘れてた、みたい」

「あ、ひっどー! ……こ、コッチは、君のこと、覚えて、たのに」

「ごめん、なさい」 


「謝るな!」


「……!」

「……謝ら、ないで。いけない事をしたのは、私」

「そんな事は、ない。あれは、僕の失敗、だよ」

「違う、わ。わ、私達の、失敗」

「ぼく、たちの?」

「そう、せめて、そう、思わせて? お願い」

「う、ん。ありがとう、先生」

「ふふっ、もう先生は、。私ね、大学にまた、通うんだ。でも、資格は取れても、別の仕事を、選ぶ、つもり」

「そう、なんだ、ね?」

「うん、そうよ。だって私、教師が自分に向いてないの、わかっちゃったから! やっぱり、勉強できるってだけで、楽にお仕事選ぼうとしたのが、失敗、だった」

「僕、誤解してた。強い、ね?」

「え、ええ? 私が弱いとでも、思ってたの? 子供、が、生意気言っちゃ、ダメ!」

「うん、そうだ。そこだけは、謝らせて? ゴメン、ね?」

「う、うん。ありがとう、しゅう

「あはは、ありがとうの意味が、わからない。でもコレも、言わせて欲しい——」


「ありがとう、あや————」


 通話は終わった。

 弱かった「彼女」は、もう少しだけ私の中に、居続けるだろう。

 でも、いずれはちょっとずつ、思い出の中へと、消えるはずだ。

 すぐではなくても、ちょっとずつ、少しずつ。

 人は変わらない。

 変わらないけど、変われるのだ。

 もし、そう思い続ける事ができたなら、本当に強い「私」に、生まれ変われるはずだ。

 

 だから、前を向いて、歩いて行こう。


 私の名前はわたなべあや

 年齢は大人。心はまだまだ子供。

 それでも大人になっていく為に、日々成長中の、女の子。

 


 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

 ロジカルマキアート!! Y.T @waitii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ