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 優しい人と、弱い人。

 僕の父は弱い人、である。

 もう20年以上僕の母親に養われておりまともな社会生活からも遠ざかり、生きる能力も衰退し続けている。
 社会から離れると人は、その期間に応じて社会生活をどんどん送りにくくなるのだ。
 年齢や病気のせいだけでなく。

 そしてそれを僕は悪くは言えない。
 何故なら働けない体になるまで父は頑張っていたからだ。

 最初に倒れる以前は毎日遅くまで残業し、物凄くストレスを溜めていた。
 やがて脳梗塞で倒れた。
 以前の職場を辞めて次の職場で働いていた時は、自分よりも一回り以上若いニィちゃんに怒鳴られながら病み上がりの身体で肉体労働をしていた。
 結局また倒れたけど。
 その次の職場は、雪の中を自転車で通っていた。車を売っぱらったからである。
 そして、また倒れた。
 そして、働けなくなった。

 そして父は、10年くらい前からデイサービスセンターに通っている。
 何故かというと、弱くなるスピードを抑える為だ。
 繰り返すが、人間は社会と切り離され続けると社会で生きる能力を失う。そうならないよう少しでも他人と触れ合いあらゆる面でのリハビリをする為にそういう施設があるのだと、僕は解釈している。

 先日、その担当者会議があったらしい。
 父と、母と、ケアマネジャーさんで色々と話し合ったそうだ。

 そこで、父はこんな不満を漏らしたらしい。

「高齢者を馬鹿にした態度をしてる」
「虐めみたいな対応をされてた人がいる」
「以前居たベテランのスタッフ達はそうではなかった」

 などなど。
 
 はぁ、またか。
 この「またか」は、父がそういう不満をしょっちゅう漏らすとか、そういう事ではない。
 父は基本、自分が感じた不満は隠す。爆発させるのは僕や母みたいな身内だけ。
 それはそれで問題だけど、置いておこう。
 読めば普通にわかる事だと思うが、上に書いた指摘、父がされた事ではない。
 全部他人が他人にされた事。
 その事について怒っているのだ。
 自分自身の不満は隠すくせに。
 昭和世代の「男」は、そういう人が非常に多い。自分の弱さは見せず「弱い他人」を助けようとするのである。

 まさに「優しい人」だ。

 自分自信を「大人」と堂々と名乗れるようになった今なら自信を持って言える。
 そんな人間だったから父は倒れたのだ。
 そんな人間だったから父は弱い人、なのだ。

 車の工場では技術力が優れていたが故に、人よりも多くの仕事をこなしてたらしい。ダラダラと残業する人達の倍くらいの仕事を定時でこなし、更に、昼間と同じ密度で残業をしてたそうだ。

 下水道の工事では自分も怒鳴られていたのに、家に帰ってから言う愚痴は、怒鳴られてた別の人の心配話。

 配達物の梱包の仕事では、いびられて辞めるように促されそうなオバちゃんの話をしていた。
 
 どれもこれも美談に聞こえるかもしれないけど、全て「余計なこと」だと僕は感じている。
 
 車の工場で「できない人の分まで頑張って」と言われたわけでもないのに、他の人よりも頑張っていた。頼まれてたワケじゃない。
 それ以外の「他人に対する心配や親切」も、父が自ら進んでやっていた事。

 そして、なんつーのかな。
 こういう事を書いてて自分でも悲しくなるんすけど「父のそれらの行動を他人はなんとも思ってない」という可能性の方が高い。
 良かれと思ってやった親切は「無用なお節介」になり得るのである。
「アレした方が良いコレした方が良い」「自分がこうしてあげよう」とは、頼まれてからやらないと、単なる独りよがりになりがちだ。

 もっと言えば、嫌われる。
 他人の事をどーこーしたり、アレコレ言ったりする事は基本的に「嫌われる為の行動」である。
 どんなに「いや違う。嫌われる為にやってない」だの「この方があの人の為になると思って」だの言ったところで、「行動という事実」は覆せない。
 たとえ別な狙いがあったとしても、嫌われる行動であるという事実は変わらないのだ。
 それを父は自分で選び続けた。
 嫌われる行動だとは、わからずに。
 わからなくても、そういう事をすれば、そういう風になる。
 ストレスも溜まる。
 優しい人が嫌われる理由。
 優しい人が、弱い人になる理由。
 優しさを通したければ「強か」である必要があるのだ。

 言った後父は、母に「こんな事言ったけど、俺が虐められるようにならないかな」などとぼやいていたそう。
 母は「そうなったなら、また言えば良い」と答えた。

 なんだかんだ父に不満を持ってる母も、父のこういう部分は嫌いではないみたいだ。
 僕も「優しい父」は嫌いではないし、むしろ好き。
 だからこそ訊いた。

「でもさー、それって他の利用者さんを見た親父の感想だよね? その人達は不満に思ってないかもしんないじゃん? お節介なんじゃね?」
 
 僕は他の利用者さんを心配してない。
 でも、父の事は心配してる。
 返ってきた答え。
 
「そうでもないみたい。やっぱりそういう事された人に話してみたら、我慢してる人が多いらしいよ」

 はぁ。
 そうだよなぁ。
 親父が憶測だけでそういう事を言う人間だったら、どんなに楽な事だろう。
 事実だからこそ見逃せない、そういう事か。

 難しいなー。
 親父がそういう指摘をケアマネさんにした以上、息子である僕はつい深く考えてしまう。

 以下の文章は父のお話ではなく——。

「老人に対する世間の扱い」 

 もっと言えば「世間が行う弱者への扱い」だ。


 まず言えるのは「物事の単純化」というモノがある。
 母曰く「若者は老人を蔑んでいる」。
 確かにそういう部分はあるかも。
 でも、それが大部分ではない。
 それは母が既に老人だからこその感想である。
 物事を単純に見た感想。
 じゃあ若者はどうか。
 老人を「年寄り」として、一括りにしてしまっている事が多い。
 確かに年寄りは似たような行動をするので、「単純に見れば」そうなる。
 でも結局一人一人違うので、「だから年寄りは〜」というセリフは的を射てない事も多いのだ。

 なんで単純化するかってーと、シンプルに面倒くさいから。
 じゃあなんで面倒くさい事を単純化するのかというと、それは後で書こう。
 後に出てくる問題点で、重なる部分がある。

 じゃ、次に書くのは「弱い人にする対応」。
 僕らは意識せず、知らず知らずに「強い人」「対等な人」「弱い人」ヘの対応を換えている。

 強い人にはこれくらい言っても良いだろう。
 弱い人にはコレを言ってはダメ。
 この人は……まぁここまでは大丈夫、ここからはダメ。

 みたいな感じ。
 そして「超弱い人」に対しては「子供にする対応」と同じ事をする。

 子供は大人と比べてできない事が多い。
 子供が何かできなかったら「大丈夫だよ。次は頑張ろうね」だとか「ハイ失敗! 残念! もう一回!」みたいにやる。
 で、何かできたら「すごーい! よくできました! 偉いえらーい!」みたいにもする。

 んで、「超弱者」にも同じ対応をするのだ。
 それが良い時と悪い時がある。
 前提として「子供でない弱者」は、「大人」だ。
 自分が「子供扱い」されたなら、普通に気づく。プライドが傷つく。
 ただし、大抵の人は「自分が弱者である事」を理解して受け入れていたりするので、全ての人達のプライドを傷つけるワケではない。
 だけど、シチュエーションによってはプライドをズタズタにしてしまうのだ。

 例えば出来ない事ができるようになった時、子供を褒めるみたいな対応をしてあげると、喜んでくれる。
 だけど普段から子供扱いするような話し方をするのは良くない。
 だって「弱い人」は別に「話す事ができないわけではない」からだ。
 歳のせいで物忘れが多かったりして会話が困難になる事も多いけど、それは「話せない」ではなくて「思い出せない」という別の問題。
 それなのに「子供をあやす」ような扱いをすると、それをされた人は多少なりとも傷つくのだろうと想像する。

 勿論、慣れてしまえば問題はない。
 それでも、なにか簡単なゲームとかでミスしたりした時に、子供をからかって「可愛いー!」みたいにするのはリスキーに感じる。
 自分よりも弱い人を可愛く感じるように人間はできてるのかもしれないが、「大人」を相手にするならやめた方が良いと思う。

 そして「子供扱いした方が良い場合」に「対等な大人扱い」をするのが次の問題点。

 車椅子で移動する人がいたとする。
 その人は「調子の良い時」は自分でトイレで用を足せるし、お尻を拭く事もできる。
 でも調子が悪い時は、誰かの助けが必要だ。
 そういう場合は——。

「ああー、調子悪いのかな? ごめんねー。私がやってあげる」

 で良いと思う。
 自分の情けなさにショックを受けるかもだけど、できないのだから仕方がない。
 でも——。

「いつもは自分でできるでしょう? ちゃんと自分でやって下さい」

 などと、突然大人扱いをしたならどうだろう。
 できない事を「やれ」と強要するのである。
 少なくとも「用を足すという行為に於いて」自分よりも弱い人に。
 それは良くないと感じる。

 先ほど父を語る時に「嫌われる行動」という言葉を書いたが、勿論親切にするだけが嫌われる行動ではない。
 横柄な態度や人をバカにする言動を取るとその人は嫌われる。その人は嫌われる行動を自分で選んでいるし、嫌われたくなければ嫌われない行動を周囲から学ばなければいけない。
 社会人は少なからず皆そういう事を学ぶし、学ばなかった人は自業自得だ。
 それが「対等な人にする大人扱い」。
 でも調子が悪くてそれができない人に対して「自業自得でしょう」と突き放す事はない。
 その場合は「子供扱い」してあげるべきだとは思う。
 風邪ひいて弱ってる人には大抵「ゆっくり寝て休んで」って言ってあげたりするものだ。
 普段から頑張って自分でやろうとしてる人が弱ってる時も、それと同じ対応をした方が良いと思う。

 つまり「弱い大人」を相手にする時は要所要所で子供扱いと大人扱いを使い分けなければならないが、そのシチュエーションが逆になってる事が多いから、こういう問題が起こるのだと考える。

 では最後に「何故シチュエーションが逆になるのか」「そもそも何故上手く使い分けられないのか」「何故そういう事を意識しないのか」を書こう。

 それは一言で「面倒くさいから」である。
 上に書いた「面倒くさい」もココに繋がる。

 人間は見返りなしに「既に成り立っている事」を変化させるのを嫌う。

 たとえば介護施設の職員の場合、「給料も上がらないのに何故そんなに頑張らなければならないのか」という感じになるだろう。
 
 そこの利用者の求める100点満点の基準は「辞めていったベテランのスタッフ」だとする。だからそれ以下の扱いをされると不満が出る。
 しかし、「今居る若いスタッフ」の100点の基準は「自分の頑張り度合い」なのだ。

 今自分はこんなに頑張っているのに更に頑張らなければならないのか、という事。

 スタッフが変わっても利用者は同じ料金を払い続ける。
 対応を改善した所でスタッフの給料は上がらない。

 双方のそういう不満が、こういったギャップを作っている。

 以前は今と同じ料金でも質の良いサービスが「成り立って」いた。
 今のままでも今ぐらいの給料を貰えて「成り立って」いる。

 こういうワケだ。
 元々成り立っている、成り立っていた物事に対し、何故苦労しなければならないのか、我慢しなければならないのか、気を使わなければならないのか、「何故努力しなければならないのか」で、ある。

 物事の単純化もこうして起こる。

 深く考えなくても「成り立って」いる物事に考えを巡らす必要はあるのか。

 ってー事なのだなぁ。

 更に厄介なのは「自分は頑張っているという勘違い」だ。

 箸を上手く使えない人が箸で食事をできるようにする。
 それは頑張っていると言って良いだろう。

 では箸を器用に使いこなす人が食事をするのは「今」頑張っているだろうか。
 頑張っては「いた」けど、頑張って「いる」ではない。

 社会を生きる多くの人々は頑張って「いる」ではなくて頑張って「いた」人が多いと感じる。
 感じてるだけで数えてはいないけど。
 ただ「私はとても頑張ってます」と主張する人の多くは、結構頑張ってない。今現在「できるようになった事」をしているだけだ。
 それでも自分の時間を使っている事には変わりないので「今現在自分は頑張っている」と錯覚してたりする。
 そういう人が本当に頑張る瞬間は「予想してない事をする時」だ。
 物凄くエネルギーを使う。
 予想してない事を「できるようにならなければならない」からだ。
 既にできる事でも通常より長い時間をかけて何かをしなければならない時もある。その場合は「頑張っている」と言えなくもない。頑張って「通常以上の事」をしなければいけないから。通常よりもエネルギーを使う。
 
 たまに「どういうお仕事がダイエットに向くのか」みたいな記事を見かける。
 クリエイティブなお仕事だったり、肉体を使う仕事だったり、人間を相手にする仕事だったり、そういう仕事は消費カロリーが高い。その場その場で頭を使うから。
「なるべく少ない時間で〜」「なるべく体力を使わないように〜」「どうすれば最高のモノを作れるか」みたいに。

 事務作業だとかそういうのはカロリーが低かったりする。
 いや、その人達が苦労してないとは言ってない。ただ、そういう仕事で感じるストレスは「やりたくない事を淡々としている」「周囲の人間との関わり」なのではないだろうか。
 そういう意味では頑張っているけれども、仕事自体を頑張っているワケではない。
 勿論「業務を手早く正確に行う為に工夫したり集中してる人」は頑張ってる人だと言える。
 新人に教育する為に頭を悩ませる人も頑張っている。
 でも「既にできる事」を「決められた時間」に「決められた通り」にしてるのは頑張っているとは言えないだろう。
 その仕事を覚えるまでの期間は「頑張っていた」である。
 
 そういう頑張って「いた」と「いる」の違いは、余裕の大小である。
 今現在頑張って「いる」人の余裕は少なく、更に頑張って面倒ごとをこなすのは難しい。
 でも頑張って「いた」人は面倒ごとをこなす余裕がある。

 でもでも、頑張って「いた」という記憶が、今現在自分が頑張って「いる」と思わせるので、自分に関わりの少ない「既に成り立っている事」を単純化させるのだ。
 面倒ごとをこなしたとして、その見返りはない。
 職員の「こうしとけば良いでしょ」みたいな対応も、そういう感じなんじゃないかなぁ。

  
 長々と書いたが、だからこそ父の指摘はきっと、意味をなさないと思う。
 父にとっては重要でも、他の人達にとっては「既に成り立っている面倒ごと」だから。

 ああ、考えれば考えるほど、アレな気持ちになっていく。

 ちなみに僕は頑張って「いる」人を見ると、その人にかなり好感を持ってしまうというアレがあり、頑張って「いた」人も嫌いじゃない。
「頑張っていた痕跡」を見つけてしまうとやはり好感を持ってしまうのだ。
 そういう人達を放っておけないのが、僕の明確な弱点である。

「優しい人」ではありたいけれども「弱い人」にはなりたくない。
 うーむ。
 

1件のコメント

  •  葉月さん、こちらこそお世話になりました。
     葉月さんもお体に気をつけて下さいね。
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