お呪いから呪いへ

 ポラリスとシャノがお互いにかけた呪縛。それは幸せになれない二人のあえかな代償行為であると同時に、不幸や孤独に対して肯定的なアプローチを図るための、一つのお呪いでもあったのかもしれません。
 しかし物語終盤、母の遺した手記により真実が明かされ、お呪いは本物の呪いに反転してしまいます。この短編が恐ろしいのは「呪縛を絆と履き違え、ずぶずぶの共依存に陥る罪深い恋愛話」という、言ってしまえば紋切形のまま終わるのではなく、依存関係、ひいては絆の崩壊まで書き切っている部分にあると思いました。人を呪わば穴二つといいますが、その呪いの効力がシャノに対して希薄だったのも、ポラリスにとって残酷な事実だったはずです。こっちのがよっぽど罪深いよ。

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「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」
 この一文は『アンナ・カレーニナ』の有名な書き出しですが、シャリラにおける幸せの定義も、このような画一的なものとして描かれていました。それはポラリスが幸福を「正解」、そうでないものを「不正解」と単純な二分で処理していたことからも読み取れます。彼にとって最大の不幸とは、作中世界における社会の画一性に、思考が吞み込まれていたことではないでしょうか。
 もし、幸せを一面的でなく多面的に捉えられていたら。もし、自身と他人との幸せに差異を見出していたら。もし、世界からの圧力によって型に嵌め込まれることがなければ、シャノといる時間を幸福だと思えていたかもしれません。
 多様性という言葉が各方面で功罪を残す現実においても、「型に嵌めた幸福」の気配を社会のあちこちに感じます。それは同時に、現実での「ポラリス」の存在をも意味するのではないでしょうか。

 最後に。シャノは図らずも、小学生時代という早い段階で、ポラリスにヒントを与えています。

「綺麗なものは、清潔で、潔癖なだけ。でもね、美しいものは人を救うんだ。美しいものは、心が無条件に「正しい」って判断するもののことなんだよ」

 この「綺麗なもの」と「美しいもの」には、それぞれ「シャリラが規定する幸福」と「自分自身が規定する幸福」が代入できるのではないでしょうか。
 そしてポラリスは、シャノとの出会いをこう述懐しています。

「この美しさを、一瞬の熱病で終わらせたくなかった。」と。