世界電球のフィラメントで首を吊る

詠井晴佳

第1話 壊しにいこう




 僕が生まれる前の日のこと、世界電球が生まれた。

 心だけを照らすその灯りは、僕と君以外のすべての人間を幸せにした。

 人類史上最高の発明品。

 その設計者は、どうやら僕の母親らしい。


           *


 憐れみの視線すら頂けなくなったのは、一体いつからだっただろう。


「明日も楽しみだね」


「そうだねっ。明日は何しよっか!」


 明朗快活な声を弾ませて、女の子二人が教室を出ていく。

 まるで生まれてから一度も負の感情なんて感じたことありませんわ、と言わんばかりの表情。そして彼女たちは実際に、生まれてから一度も悲しみや苦しみなど抱いたことがないのだろう。

 なぜなら、ここは世界電球の麓、世界最高水準の幸福度を誇る街「シャリラ」なのだから。

 「光源」から最も近い、最も照らされた場所なのだから。

 でも。

 ……それも、もう、ぜんぶ終わりだ。

 自分をいないものとして扱うクラスメイト達を横目に見ながら、僕はシャノの姿だけを思い描いていた。

 幼い彼女が幼い僕にかけた呪いだけを、鮮明に思い出していた。


            

「おかえり、ポラリス」


 僕にそう声をかけたのは母親ではなく同い年のシャノで、声をかけられた場所は僕の自宅ではなく学校の屋上だった。


「……ただいま」


 そんなちぐはぐなシャノの声に、僕はちぐはぐな返事を返す。

 でも、僕にとっては家なんかよりここが本物の帰る場所だ。

 幸福を顔に張り付けた両親が待つ家よりも、寂しそうな目をしたシャノがいる屋上がたった一つの居場所だ。

 僕たちは世界一幸せなこの街で、たった二人だけの不幸なのだから。


「ポラリスにとって、今日はどんな一日だった?」


「毎日聞くね、それ」


「だって」


「比較的マシな一日だったよ」


 僕が何気なくそう言うと、シャノは縋るような視線を僕によこした。

 それは、寂しそうで、何かにおびえるような――。


「最近のポラリス、「マシ」な日がおおいね」


 いじけるようにそう言ったシャノを安心させるように、僕は笑いかける。


「そんな泣きそうな顔しないでよ。大丈夫だから」


「大丈夫ってなにが」


 僕には、彼女が一番欲している言葉が手に取るように分かる。


「大丈夫、大丈夫だよ。僕はシャノを置いて行ったりしないから」


「……」


「シャノを置いて、幸せになったりしないから」


「………うん」


 シャノはようやく、控えめな笑顔を見せた。

 僕たちは、世界電球に照らされたこの世界で、たった二人だけのあぶれ者だ。

 どちらかが幸せになれば、僕たちはひとりぼっちになってしまう。

 だから、不幸という甘い共通認識でお互いの関係を縛りたくなる。


「でも、シャノはさ、もうちょっとバケモノと距離を取った方がいいと思うんだ」


「どうして?」


「シャノにほんとに死なれたら、僕がひとりぼっちになっちゃうから」


 僕たちは生まれつき心の中に住み着いている希死念慮のことを、いつからかバケモノと呼んだ。世界電球の麓のこの街では生まれるはずのない「バケモノ」を、僕たちは十七年間ずっと抱えて生きてきた。

 シャノはどこまでも純な目で言う。


「でもね、バケモノだけが、私を人間にしてくれる気がするの」


「うん」


「怖いけど、でもね、ちょっとだけ気持ちいいの」


「……」


「…………って、私のことはいいよ。問題はポラリスの方。このままじゃポラリス、ずっとマシな気分になっちゃうよ。そしたら、わたし――」


「そのことなんだけどさ」


 僕は微かにおびえるようなシャノの声を遮る。


「僕が最近マシな気分なのは、もう決めたからなんだ」


「……なに、を?」


「壊すんだよ」


 僕は痛いくらいにシャノの瞳を見つめて、宣言する。


「世界電球を、壊すんだ」


 シャノははじめ、きょとんとしていた。

 でも、だんだん、その顔は紅くなりはじめて。


「ふふっ!」

 

 挙句の果てに、彼女は吹き出した。


「突然何を言い出すの? 世界電球、を、こわ、す、ふふ」


「本気なんだけど」


 どこまでも冗談だと思っているシャノの眼前に、僕は背負った巨大なバッグのファスナーを開けて、中から取り出した「それ」を突き付けた。


「……かっこ、いい」


「でしょ?」


 生まれて初めてかまえたチェーンソーの感触は、鳥肌が立つほど快感だった。

 僕はチェーンソーを傍らに置き、それから、シャノの前に騎士のように傅いて言った。


「シャノと、一緒に壊したいんだ」


 シャノの瞳は、今を生きる人間が見せてはいけないほど禁忌的に美しかった。


           *


 母さんは、僕を産み落とすと同時に死んだ。

 研究以外には、ほんとうに何も興味のない人だったらしい。彼女は僕を腹に宿してからも人間の快感情に対する研究だけに没頭し、僕が生まれる前日に世界電球を完成させた。

 先天性快感情欠乏。

 母さんは生まれつき、幸福になれないと定められた人種だった。人間のすべての快感情を司る世界電球が発明された今では用済みになってしまった学問分野ではあるが、母さんが生まれた当時の世界ではいわゆる「こころ」というものを解明するのに躍起だったのだという。科学はとうとう生まれる前の子供が「しあわせ」を感じられる人間かどうかまで判別可能にし、幸せになれないと判断されたうえでなお産み落とされてしまったのが僕の母さんだったというわけだ。

 僕は母さんを恨んでいない。

 人を恨むには、それなりのエネルギーが要る。あんな人間のために貴重なエネルギーを使い続けるのは、それこそもったいなくて仕方がない。

 先天性快感情欠乏の自分を救いたくて、母さんは世界電球を発明した。どうせそんなところだろう。そんなくだらない理由のために、世界中の人間は幸せになって、僕とシャノはそんな世界で救えないふたりぼっちの不幸になったのだろう。

 どうして、僕は産み落とされてしまったのだろう。

 母さんは一生薄暗い影の中でうずくまっていればよかったのだ。それなのに。責任を取る気すらない適当な男にほだされて、幸せがちらついて、一瞬の快楽のための道具にされて、果てには僕という廃棄物がこの世に排泄された。

 母さんが産み落とした世界電球は、僕を照らさない。

 先天性快感情欠乏の人間すら幸福にするはずの世界電球は、僕だけを幸福にしない。

 理由はわからないけれど、世界はそうやってできている。


           *


 世界電球は、シャリラの中心、高い高い塔の最上階にある。

 僕たちは夜中の一時、立ち入り禁止の防護柵の前で集合することに決めた。すべては幸福の根源――世界電球のフィラメントを絶つために。


「……シャノ? 驚いた。早いね、まだ待ち合わせ十五分前なのに」


 僕が待ち合わせ場所に着くと、立ち入り禁止の防護柵に背を預け、シャノは俯き加減に立っていた。やがて、僕を見つけて、不敵に笑う。


「だって、なんか、そわそわしちゃって」


「そんなに世界中が不幸になるのが楽しみなんだ」


 僕が冗談混じりに言うと、彼女はいたって澄んだトーンで、言った。


「楽しみだよ」


 ふたりで、防護柵をよじ登る。深い夜に、淡い金属音が反響する。

 上まで上った僕は、下のシャノに手を貸し、ぐっと引き上げる。


「せーのっ」


 そして、ある程度まで裏側を下ってから、タイミングを合わせて飛び降りた。

 見つめ合って、くすくす笑う。夜を所有したような、そんな心地がした。


「ポラリス、なんか、わくわくするね」


「うん」


 僕たちは内緒話みたいな会話を交わしながら、十五分ほど歩いて、世界電球を祀る塔のふもとまで到着する。

 世界電球のふもとにはさび付いた水色の扉があって、そこをくぐらない限りは上へ進めないらしい。


「さて、どうしようか」


「ポラリスのチェーンソーで、なんとかならない?」

 

当然、扉には古臭いカギがかかっていた。よく見ると、四桁の番号をダイヤル式で合わせる今時見ないタイプのやつだ。


「あんまり手荒な真似はしたくないな」


「でも、じゃあどうするの?」


「考え中」


 シャノがじとっとした目で見てくる。正直、僕はチェーンソー一本を携えて、ほとんど無策でここまでシャノを連れ出してきてしまった。ふと冷静になって、これからの旅の不安定さに目がくらみそうになる。

 ぼくが考えている間に、シャノはランダムな数字に合わせてダイヤルをガチャガチャやり始めた。彼女の雪のように白い手に、さび付いた粉が付着する。


「ポラリス、あかない」


「そりゃ開かないでしょ。一万分の一だし」


 僕はそうシャノに飽きれ声で言うと同時に、ひとつの数字が思い浮かんだ。

 ……でも、そんな簡単な数字であるわけ。


「シャノ、ちょっと貸して」


「分かったの?」


 扉の前に立つ。そして、ゆっくりと、ダイヤルを合わせる。


 0914


 世界電球が誕生した日。

 僕は四桁を合わせ、鍵の両端を引っ張る。……開かない。


「……開かないの?」


「勘違いだったみたい。世界電球が作られた日かと思ったんだけど」


 はは、と情けなく笑ってみる。シャノも仕方なさそうに笑う。


「じゃあつぎ、私のばんね」


 そう言って、なぜかシャノはダイヤルの下一桁を一つだけずらして、挑戦した。


「こーいうのは、だいたい正解になりそうな数字を一個ずらしたりするものなんだよ――」


「……え」


「え?」


 ガチャリ。鍵は、簡単に開いてしまった。


「……ポラリス! やった! 開いたよ」


「…………う、ん」


「……どうしたの? こわい、かお、してるよ」


 世界電球が生まれた日。

 そこから一つだけ数字をずらして、鍵は開いた。

 数瞬遅れて、その意味を理解して。


 激しい、殺意を覚えた。


              *


 中学二年の春、シャノが学校に来なくなったことがあった。

 当時の僕はといえば今の僕と変わらず友達なんて一人もいなくて、何も考えずに笑いあっているクラスメイト達が心の底から気持ち悪くて、だから昼休みはいつも空き教室でシャノとふたり息をひそめて過ごしていた。

 そんな中、シャノが突然学校に来なくなって、僕にはとうとうたった一つの居場所すら無くなってしまったのだ。

 一日目、窓から見える遅咲きの桜が花弁を散らす様をぼーっと眺めて過ごした。

 二日目、「バケモノ」と見つめ合いながら、時計の針が進むのを待った。

 三日目以降は、ずっといないシャノのことだけを考えていた。シャノは昔から「バケモノ」と、つまりは希死念慮と目を合わせ続けるのが好きな女の子だった。そんな彼女の危うさが僕には怖かったし、同時に美しいと思っていた。

 でも。もしも僕だけをこの世界に置いてシャノがいなくなったら。

 そう考えると途端に吐き気がこみ上げた。シャノが学校に来なくなってから一週間がたった日、僕はいてもたってもいられなくなって彼女の家を訪れた。

 チャイムを鳴らす。一回、二回、三回。留守だった。

 頭の中に最悪の想像ばかりがちらついた。

 そして、不意に微かな予感がした。シャノがあの場所で待っている気がした。

 瞬間、走り出す。立ち入り禁止のテープをまたいで、山の中の朽ちかけた階段を二段飛ばしでのぼる。夏の、夕暮れの匂いがした。ヒグラシがぽつぽつと鳴いていた。

 ようやく緑の鬱蒼と茂った山を抜けて、小さくひらけた場所に出た。


「…………シャノ!」


 誰も来ないような、山奥の寂れた児童公園。僕たちの思い出の場所。

 そこに、シャノはいた。――ナイフを首元に垂直に突き立てて。


「シャノ!」


 冷静さなんて保てるわけがなかった。僕は全速力でシャノに駆け寄り、震える小さな手に握られたナイフを右足で蹴り落した。


 シャノは泣いていた。


「ポラ……リス……。ご……めん」


「謝るくらいならするなよ」


 僕は蹴り落したナイフを拾い上げて、指先で撫でた。


「約束は忘れたのかよ。シャノが死んだら僕はひとりでどうすればいいんだよ。置いてかないでよ……それに」


 潤んだ彼女の瞳を、射抜くように見つめた。


「それでも、僕のことなんて置いて死にたいっていうんなら。……その時は、僕が殺してやるよ」


 シャノは涙をぽろぽろ零しながら、何度も首を振った。

 世界を否定するように。


「ポラリス」


「……」


「どうして、私は人間になれないんだろう」


 吐き出すようにそう零した彼女の瞳は。

 世界電球が奪い去ってしまったすべての美しさを一点に凝縮したような色をしていた。

 この色を守るためなら、僕はなんだってできると思った。


          *


世界電球の塔内部、螺旋階段をのぼる。

ひとつ歩を進めるたびに、カラン、という金属音が塔の内側に反響する。

かれこれ、何十分階段をのぼり続けているんだろう。


「シャノ、大丈夫?」


「大丈夫って、なにが?」


「体力とか」


 僕が尋ねると、彼女は少しだけ考えるそぶりを見せて、それから控えめに笑った。


「関係ないよ。私はいつも、今日死んでもいいと思って生きてるの」


「答えになってない」


「じゃあ、答えになってないついでに、私からもひとつ訊いていい?」


「……なに?」


 数秒の沈黙。それから、シャノは何かを諦めたような顔をして呟く。


「ねえ、ポラリス。欠陥を持った人間は、それを克服するために努力するべきだと思う?」


「……質問の意図がつかめない」


「うーん。もっと簡単に言うと、さ」


 僕たちは一段一段朽ちかけた階段を上りながら、ぽつぽつと会話を交わす。


「救われない私たちは、変わるべきだと思う?」


 その言葉に、僕は何も言えなくなった。あの日蹴り飛ばした幼いナイフを、今になって喉元に突き付けられているような、そんな感覚がした。


「そんなの、……そんなの」


 やっとの思いで声を吐き出す。


「なんで僕たちが変わらなくちゃいけないんだよ。間違ってるのは世界の方なのに。僕は、何があっても変わるつもりはない」


「……そっか」


 飴玉を転がすように、シャノは呟く。

 それから――。


「え、……どうしたの、急に」


「ううん、こうしたくなっただけ」


 シャノは、僕の右の手のひらを左の手のひらでぎゅっと握りしめた。


「ねえ、ポラリス」


「なに」


「私も同じだよ」


「……」


「私も、変わるつもりなんてない。変わったら、大事なものまで失っちゃう気がするから」


 その言葉に、救われていく心地がした。あの日交わした「呪い」の効力が、まだ残っているのだと実感できて、ただそれだけのことが嬉しくて仕方なかった。


「わっ」


 その時、突然、躓いた。

 見上げる。今まで登り続けてきた長い螺旋階段が一度終わり、目の前には踊り場が広がっていた。


「ずいぶん昇って来たね、ポラリス」


 僕から手を離して、すたすたと早歩きで踊り場を進むシャノ。

 僕はその小さな背中を、ぽんやりと眺めていた。

 刹那。

 シャノが立っていた踊り場の床が、消えた。


「――――シャノ!」


           *


「……ポラリス、泣いてる?」


 四年生のクラスで居場所がなくて俯いていた僕に、隣のクラスからやってきたシャノが頭上から声を降らせた。


「ないて、ない」


「泣いてる声で泣いてないって言っても、説得力ないよ」


 小学生の頃のシャノは学校でも上手くやっていた。きっと自分の中の違和感を押し殺して、人と無難に付き合っていくことを選んでいたのだろう。

 そのせいと、生来の美しい容姿も相まって、シャノは学校中の人気者だった。

 きっとみんなは夢にも思っていなかっただろう。シャノが幸せになれない人間だなんて。


「ねえ。いこ、ポラリス。校庭に桜の花が咲いてる」


 そう言って、僕の手を引くシャノ。

 クラスメイトたちの羨望のまなざしが頬に痛くて、同時に少しだけ気持ちよくもあった。

 僕たちは教室を抜け出して、校庭に出た。

 一呼吸おいて、見上げる。

 恐ろしさすら感じさせるような薄桃色の炎が、視界を染めた。


「……美しい」


 僕が思わず呟くと、シャノは僕の方を向き直ってにんまりと笑った。


「そう! 美しいの。美しいものは、綺麗なだけじゃなくて、美しいんだよ」


「よく、違いがわからないけど」


 僕が言うと、シャノはやれやれといった様子で指を立てる。


「綺麗なものは、清潔で、潔癖なだけ。でもね、美しいものは人を救うんだ。美しいものは、心が無条件に「正しい」って判断するもののことなんだよ」


「……わかるような、わからないような」


 シャノは、突然僕の耳元に口を近づけた。

 そして、囁く。


「幸せじゃないポラリスと私は、誰よりも美しいものを知ってるの」


 その日から、シャノはひとりぼっちの僕を「美しいもの探し」に連れまわすようになった。

 はじめは、学校の周りにあるものだった。

 西日が差し込んだ、誰もいない教室。さび付いた屋上の扉。近所の公園の揺れたブランコ。

 その日から、僕の日々は色づきだした。

 神様が僕の前から隠した本物の世界をひとつひとつ取り戻していくような、そんな日々だった。シャノと二人なら、何だって見つけられる気がした。どこまでだって生きていける気がした。


「シャノ、今日はどこいくの?」


「誰もいない保健室」


 美しいものを探し始めてから、ちょうど一ヶ月が経ったある日。

 僕が尋ねると、シャノは意外な答えを返した。

 ……保健室なんかに、本当に美しいものがあるのだろうか。

 疑問に思いながら、僕たちは手を取り合って完全下校時刻間近の校内に足音を鳴らした。

 たどり着いた保健室に、先生はいなかった。


「ポラリス、ちょっと後ろ向いてて?」


「えっ、いいけど、何するの」


 僕は気になりながらも、シャノの反対を向いた。

 十秒、二十秒、三十秒、経った。声も音もなくて、だんだん不安になってきて。

 僕は、ついに約束を破って振り返ってしまった。


「…………シャノ」


 視界が、スローモーションに切り替わる。

 シャノは、右手に、カッターを持って、ヴァイオリンの弓を引くみたいに、左の手首を切り裂いた。

 鮮烈。溢れる赤。浮遊感。生臭さ。

 ……。……シャノ、を、助けなきゃ。


「わたしのち」


「……はやく、手当」


「美しいもの、自分のために流した血」


「喋るなよ」


 保健室にある棚という棚を開け放ち、包帯を見つけて、何の知識もない頭でシャノの手首にぐるぐる巻きつけた。心臓がうるさかった。

「またあした!」と嬉しそうに笑いあう誰かの声が、窓越しに微かに漏れ聞こえていた。


            *



 寸でのところで、落下したシャノの手首を掴む。

 一瞬、あの日の出来事がフラッシュバックした。

 僕は幻影を振り切って、ただシャノを引き上げることだけに全精力を込めた。

 力いっぱい、シャノを地上に引き戻す。


「ごめん!」


「いや、謝ることじゃないよ。シャノが引っかからなかったら僕が引っかかってた」


 トラップ、みたいなものだろうか。何せよ古い塔だ。何があっても不思議じゃない。

 ひとまず、僕たちは踊り場を慎重に歩き回り、他に落とし穴らしきものがないことを確認して、それからまた螺旋階段を上り始めた。


「だいぶ上ってきたね」


「そうだね。……ていうかさ」


 僕は肌が粟立つのを感じながら、確認を取るようにシャノに言う。


「なんか……寒くない?」


「私も思ってたの」


 二人同時に、見上げる。

 目に飛び込んできたのは、氷柱だった。見上げた階段は氷漬けになっていて、細くつららが垂れ下がっている。


「氷、だ」


「高い所まで上ってきたからかな」


「いや、標高何千メートルの山の頂上でもあるまいし」


「じゃあ」


 ここは世界電球の真下だ。何か、不思議な引力が働いているのかもしれない。

 僕たちは足を滑らせないように、一歩一歩確かめながら進む。地上が一段、二段、過去のもののように遠ざかる。

 世界電球が、近づいている。


           *


 家族で手をつないで笑いあっている町の子供たちがどうしようもなく正解に見えて、じゃあ、家族もなく普通の人のようにも笑えない僕はどうしようもなく不正解じゃないかと思って、夕方、子供たちが公園からいなくなる時間を見計らって僕はいつも山奥の公園に通っていた。

 夜のとばりが降りる瞬間をブランコに座りながら過ごす時間だけは、間違った自分の心も、全てを許せるような気がした。


「……帰らないの?」


ある日、夜色に染まった公園のブランコで、一人の女の子から声をかけられた。

その時の僕は幸せな気持ちになれない自分を殺してしまいたい衝動でいっぱいで、だからやけになって、女の子にあんな返事をしたのだと思う。


「帰る場所とか、ないし」


「そっか」


 髪の長い透き通った瞳の女の子は、声を弾ませてにんまりと笑った。


「じゃあ、私とおんなじだね」


 声を聞いた。二秒が経った。世界が、色づきはじめた。


「ねえ、お話しようよ」


 それから、僕と女の子はブランコに並んで、子供がいちゃいけない時間をふたりで過ごした。夏の夜風に、ヒグラシが鳴いていた。僕は泣きそうな気分を抑えて、女の子と話をした。

 周りの人が、みんなバケモノに見えること。みんなと同じように笑えないこと。

 物語の中の子供たちと違って、「しあわせ」じゃないこと。

 世界中で、ひとりぼっちだと思っていた。この感覚は一生誰とも共有できないのだと思っていた。

 違った。

 僕らは出会った。ふたりになった。

 それだけで、どこまでもいける気がした。

 僕らは夜を明かした。朝日が昇る頃には会話も途切れ途切れになって、それもまた心地よかった。薄情な世界が優しい色をしていた。


「今日はもう、さよならしなきゃ」


 突然、女の子は言った。茫漠とした不安が押し寄せた。

 ここでこのまま別れたら、二度と会えないような気がした。だから。


「……明日も、会える?」


 僕は繋ぎ止める言葉を探した。女の子は僕に歩み寄って、手を握って、にんまりと笑った。



「きみが幸せになれないうちは、私がずっとそばにいてあげる」



 つないだ手から、甘い熱病が流れ込んだ。この美しさを、一瞬の熱病で終わらせたくなかった。

 きみが一緒にいてくれるなら、僕は一生幸せじゃなくていいや、と思った。


「じゃあ、君が幸せになれないうちは、僕がずっとそばにいてあげるよ」


 僕たちは、幼い呪いで互いを縛り合った。一生分の効力を持つよう、強く、強く呪った。

 その日、僕とシャノは変わることを否定し、手を取って生きていくことを選んだ。


            *


 螺旋階段の頂上、突き当り。

 小さな小さな出口の隙間から、世界電球の光が眩く注いでいた。

 それは浴びたら焼け死んでしまいそうな、強く確かな幸福の光線。


「ねえ、ポラリス。聞いてほしいことがあるの」


 シャノが、含みのあるような、どこか後ろめたげな声で零した。

 なぜか。

 とても、嫌な予感がした。


「……なに」


 僕は何かを繋ぎ止めたくて、ぎゅっとシャノの手を握る。


「さっき、塔の下で言ったこと、覚えてる?」


「……なん、だっけ」


「忘れんぼだなぁ、もう」


 シャノは繋がれた手のひらを、やんわりと解きほぐした。


「悪いのは世界だから、私たちは変わる必要ないって言ったの」


「覚えてるよ、流石に」


「でもね、ポラリスと世界電球を壊すために塔を上っていて、ちょっとだけ、考えが変わったかもしれない」


 聞きたくない。今すぐその口を塞いでしまいたい気分だった。

 口付けひとつする勇気のない自分の不甲斐なさに呆れた。

 考えたくない。

 だって。塔のふもとと現在地で変わったことなんて、たった一つしかない。


「いつまでも自分の殻に閉じこもって、不幸を言い訳にして、自分だけ何も変わろうとしないのは、正しくないって、なぜだか思うようになったの」



 世界電球との直線距離。


 世界電球に近い位置に居ればいるほど、人間は幸福になる。ポジティブになる。シャリラが世界一幸福な街と呼ばれているのがいい例だ。


「ねえ、シャノ」


 世界電球の傍に近づいて、シャノの不幸は焼け焦げて跡形もなく死んでしまったのだろうか? 


「約束は、忘れたのかよ」


 あの日交わした幼い呪いは、世界電球の効力で解けてしまったのだろうか?


「約束、は……」


 それ以上、言葉を紡ぐことができなかった。

 シャノは困ったように、微かに微笑んだ。


「私たちも、これからいくらでもやり直せると思うんだ」


 自分の頬に涙が伝うのがわかった。

 全部、奪っていく。世界電球が、全部奪い去っていく。

 僕の唯一で世界最期の漆黒の光は、世界電球の金剛色の光で塗りつぶされてしまった。

 シャノは死んでしまった。

 僕の知っているシャノは、大切だったシャノは、死んでしまった。


「シャノはさ、きっと世界電球に近づいてちょっとおかしくなっちゃっただけなんだよ」


「ポラリス」


「あんな電球、すぐ壊してやるから」


 喉元で怒りが竜のように蠢く。壊したい。全部壊してしまいたい。そんな、原初的な破壊衝動だけが残った。


 だいたい。

 なんで、シャノが幸せになり始めても、僕だけは何も変わらない?


「壊してやる」


 僕は力いっぱい、頂上の扉を引いた。


 そこは、大きく開けた広場になっていた。

 水晶と氷が混じって、人を阻むように突き出している。

 その真ん中には――巨大なガラス球と、目を焼く金剛色の輝き。


「世界電球」


 本当に、ただの巨大な電球に見えた。こんなものが世界中を幸せにしているのだと思うと、ゾッとした。僕はチェーンソーを構えて、電源を入れた。


「やめて、ポラリス!」


 後ろで、シャノでなくなってしまった何かが叫んでいた。

 僕には関係のない声だ。

 一メートル、二メートル、距離を詰める。

 そこで。


「……なんだ、これ」


 世界電球の隣に、暗号付きの箱があった。


「……」


 僕は躊躇なく、チェーンソーでその箱を切断した。

 中から、一枚の紙ぺらが出てきた。


 どうしてだろう。文章すらまだ読んでいないのに、その筆跡に懐かしさを覚えた。

 息がつまった。手が動いた。

気がつけば、僕はチェーンソーのスイッチを落として、傍らに置いていた。


           *


『この電球を壊しにきた貴方へ』


 貴方がこの手紙を読んでいる時、私はもうこの世にはいないでしょう。

 貴方が誰なのか私には分かりませんが、きっと世界電球を作った私をたいそう恨んでいるから世界電球を壊しにきたのでしょう。私はそれだけのことをしましたし、貴方のことを咎めるつもりは更々ありません。

 さて、何から話しましょうか。世界電球の設計の仕組み。世界電球の寿命。

 それよりもまずは、どうして私がこの電球を生み出したか、ですね。

 結論から言うと、私はこれから生まれてくるであろう私の息子ただ一人のために世界電球を作りました。世界平和や世界幸福なんてものはただの副産物なのです。

 世界電球は人を幸せにします。先天性快感情欠乏の人間すらも、幸せにする力があります。

 私の息子は生まれる前の検査で、先天性快感情欠乏と診断されました。私は悩みました。自分の欠陥を遺伝させてしまった自分自身を殺してやりたくなりました。

 私は幸せを感じることができない人間です。そのことに疑問を覚えて、長年先天性快感情欠乏の治療法を研究していました。そんなさなか、身ごもったのが息子のポラリスでした。

 私は研究を加速させました。もうすぐ死ぬ私の人生なんてべつにどうでもいいけれど、ただ、息子が笑って幸せに過ごせる世界が欲しい。その一心で、研究を完成させました。

 ただ、ポラリスを幸せにする一方で、世界電球が幸せにできない人間が一定数出てくるのも推測できました。その人たちにとって、世界電球の存在する世界はたいそう生きづらい世界になってしまったのではないでしょうか。そして、世界電球を壊しにきた貴方も、もしかするとそんな人なのではないでしょうか。

 さて、同時に世界電球の仕組みについても簡単に説明しないといけませんね。

 単刀直入に言えば、世界電球は人の「変わりたい」という気持ち、変化を望むエネルギーを利用して指向性を与え、人を幸福にする自浄装置です。その人の中に少しでも「変わりたい」と望む気持ちがあるのであれば、世界電球はそのエネルギーを増幅して変化のお手伝いをしてあげる電球なのです。

 つまり、世界電球が幸せにできないのはどのような人間か、自ずと導けるかと思います。

 それは、「変化」を望む気持ちが一切存在しない人間です。

 変化を全く望まないのであれば、自浄作用は働きようがありません。残念ながら、その「バグ」を修正するだけの時間は私には残されていませんでした。

 薄情かもしれませんが、私が今望むのはたったひとつ。

 どうか、ポラリスが変化を望む志を忘れませんように。

 そして、どうかこの手紙が、ポラリスが死ぬその日まで誰にも読まれませんように。

 自分勝手な人間だと、どうか罵ってください。

 わたしは、ここに来た「貴方」を幸せにはできなかった。

 そのことだけが、唯一の心残りです。


          *


 手紙をくしゃくしゃに丸めて、それでも足りなくて、チェーンソーで貫いた。


「死ねよ」


 チェーンソーを動かす。


「死ねよ」


 切り裂く。


「死ねよ」


 灰になる。



「きみが幸せになれないうちは、私がずっとそばにいてあげる」



 その言葉だけを神様に歩いてきた僕には。

 元々、幸せになれる可能性なんて欠片もなかった。

 変化を望むことをやめたあの日に、僕の終着点は決まっていた。

 

 母親にだけは、最後まで最悪の悪人でいてほしかった。


 じゃないと、空虚で、空虚で、空虚で、空虚で、空虚じゃないか。


「ポラリス、帰ろう?」


 シャノが泣きながら笑う。

 僕はその手を振り払う。


 チェーンソーを起動する。

 氷漬けのガラス球を切断する。


 残されたのは、細く繋がれた金剛色のフィラメント。

 幸せの、塊。

 僕を不幸に閉じ込めた、塊。


「………………」


 もう、いいよ。


「………………ありがとう」


 何に対してそう言いたかったのかは、わからない。

 誰も分からなくていい。


 チェーンソーを止めて、傍らに投げ捨てる。


 昂然と煌めくフィラメントに、一歩前進する。


                 

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世界電球のフィラメントで首を吊る 詠井晴佳 @kn_163

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