雨が連れてくる

藤野 悠人

雨が連れてくる

 夏が終わり、台風が何度か過ぎると一気に涼しくなる。陽が落ちて風が吹けば、秋の匂いがした。雨が降れば、もう肌寒いほどだ。


 その晩も雨が降っていた。夕方ごろから、強くなったり、弱くなったり。まるで顔色をうかがう臆病者のような雨が降り続いていた。


 もう遅い時間だった。私はビニール傘を手に、自宅のアパートを出た。小腹が空いたのだが、冷蔵庫の中が空っぽだったのだ。まぁ、普段から自炊をするような人間ではないので、冷蔵庫の中が空っぽなのはいつものことなのだが。


 風は無かったが、空気全体がひんやりとした夜だった。雨音が、街全体の音をゆるやかに隠している。そんな中を、コンビニへ向けて歩き出す。腹立たしいことに、私が住んでいるアパートから最寄りのコンビニまで15分ほどかかる。入居する時、もっとしっかり調べるべきだったのだが、色々と忙しかったこともあって、よく調べずに入居を決めたのだ。


 何より魅力的だったのは家賃だ。角部屋で、風呂トイレ別、キッチンも広めのワンルームなのだが、同じアパートの別の部屋よりも安くなっていた。


 事故物件なのかと思い、不動産の担当者にも聞いた。


「いえ、この部屋が直接の事故物件というわけではないのですが……」


 歯切れの悪い返事だと思い、私はしつこく質問をした。内見が終わると、とても言いづらそうに担当者は教えてくれた。


 なんでも、数年前には女性が入居していたそうだ。その頃は事故物件でもなんでもなかった。


 しかしある日の夜、彼女が亡くなった。男に散々もてあそばれた挙句、近くの公園で首を吊ったらしい。それを気味悪がって、なかなか入居者が見つからなかったそうだ。


 歩いていると、近所にある公園が見えてきた。彼女が首を吊ったという公園だ。最近の公園はどこも遊具が少ないらしいけれど、この公園はそこそこ広く、いくつか遊具もある。昼間や夕方には、子ども達が遊んでいる姿も見られて、なかなか賑やかだ。


 しかし、その公園も夜になれば、深い闇が静かに包む広場でしかなくなる。園内に立てられた無機質な街灯が、ポツリポツリと明かりを落としているだけで、どことなく不気味だ。


 そういえば、と担当者から聞いた話の続きを思い出した。


 彼女が亡くなったのも、こんな雨の日の夜だったらしい、と。


 無意識のうちに、私は足を速めていた。しかし、公園の中に、何か動く影を見つけて、思わず足を止めた。


 女性に見えた。こちらに背を向けて、街灯の下に佇み、俯いている。肌寒いせいか、茶色のブルゾンのようなものを着ていて、髪は肩のあたりまで伸びている。傘は差していない。ブルゾンはすっかり水に濡れて濃い色になっているし、濡れた髪が街灯の光を反射してヌラヌラと光っていた。


 こんな時間にひとりで、何をしているんだろう。そう思った私の耳に、か細い声が聞こえてきた。


「……死ねばいいのに」


 女性の声だった。雨が降っている中でも、はっきりと聞こえた。それが彼女の声だということが、考えなくても分かった。


「あぁ……、死んでしまえば、いいのに」


 驚くほどに平坦な声で、その声は繰り返した。まるで、水がじわりと染み出すような怨嗟えんさがこもっているように感じた。私はすくみ上ってしまい、足が止まっていた。


 やがて彼女は顔を上げると、か細い笑い声を上げた。いや、あれは笑っているんだろうか。嗚咽おえつのようにも、引き笑いのようにも聞こえた。


 まさか、と思った。


 あれは、例の女性なんだろうか。


 ここに来てようやく、私の足は動き出してくれた。急いで離れよう。彼女はまだ私に気付いていないようだし、もしも見つかったらどんな目に遭うか分かったものではない。


 濡れたアスファルトを、私のスニーカーが歩いて行く。ぴたっ、ぴたっ、と、濡れた足音が、足早に前へ前へと体を運んだ。


 ぴたっ、ぴたっ、ぴたっ……。


 急いで私は歩いた。しかし、ある程度まで歩くと、おかしな音に気付いた。


 ぴたっ、こっ、ぴたっ、こっ、ぴたっ、こっ、ぴたっ、こっ……。


 ……足音が増えている。しかも、私の後ろから聴こえる。


 まさか、まさかあの女性だろうか。いや、そんなはずはない。彼女は私に気付いていなかったはずだ。それに、私はすぐにあの場を離れたのだ。


 自分に必死に言い聞かせる。暑くないのに、わきの下を汗が流れていった。


「あんたも、私を捨てるつもりなの?」


 左耳のすぐ後ろから、生暖かい息と共に、そんな言葉が聴こえた。

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雨が連れてくる 藤野 悠人 @sugar_san010

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