終 : 無様であろうと(3)-見つけた答え
天正四年、六月中旬。京・妙覚寺。
若江城から引き揚げた信長は京に戻り、いつも滞在している妙覚寺に入った。本来であれば安土か岐阜まで行くべきなのだが、安土は築城途中で騒がしく、岐阜は嫡男信忠に譲った手前、京しか居場所が無かった。他にも大坂表の状況が気になる事情もあった。
そこへ、堺から千宗易が訊ねてきた。信長から「宗易の茶を久し振りに飲みたい」という求めに応じての来訪だった。
「わざわざ来てもらって済まぬな、宗易。どうしてもお主が点てた茶が飲みたくなってな」
書院に入って開口一番に謝意を述べる信長。その顔や話し振りから機嫌が良いことが伝わってくる。
ただ、先日の戦で負傷した左脚がまだ癒えておらず、座る際は正座ではなく
「先日の天王寺での戦いでは、僅かな手勢で万を超える本願寺勢に勝利したとか。おめでとうございます」
「それより宗易、先日会った際に話した件なんだが」
祝意を述べる宗易を制するように、信長が話を始めた。余程嬉しかったのか、目をキラキラと輝かせている。
「先日の話……上様が不得手にされている事でございますか?」
「そうだ。先日の戦で一つ分かった事があったから、それをどうしても伝えたかったのだ」
興奮した口振りで話す信長。茶が飲みたいというのは建前で、気付いた事を話したいというのが本当の目的なのではないかと思わせる程に熱が入っていた。その姿はまるで初めて見つけた珍しい物を親に知らせる
「俺に戦の才が無いと思っていたが、どうやら少し違うみたいだ」
活き活きとした表情で語る信長に、宗易は口を挟まず静かに耳を傾けている。その姿勢に気を良くした信長はさらに続ける。
「俺は、苦境に立たされた時に滅法強いらしい」
信長は家督を継いでから今川義元を討ち取るまで、劣勢の中で戦う事が多かった。
弘治二年八月、信長に反旗を翻した弟・信勝の軍勢と稲生の地で激突したが、信長付きの家老だった林秀貞・通具兄弟を始め多くの家臣が信長から離反し、信長方七百に満たないのに対して信勝方千七百と形勢は明らかに不利であった。戦は信勝の
他にも天文二十三年(一五五四年)一月に今川家の圧力を受けていた水野氏を救うべく嵐の中を船で海を渡り今川方を急襲した村木砦の戦いや、永禄元年(一五五八年)に尾張国内で敵対勢力だった織田
このように、相手より少ない兵を率いて戦った時の信長は無類の強さを誇っていた。
「今でこそ皆から天下人と
そう言って笑う信長。その爽やかな笑顔に、引け目や後ろめたさは一切感じられない。
「無いものを
天下統一の達成には、その道を阻む全ての大名を戦で打ち負かしていては到底時間が足りない。脅しと見返りの硬軟使い分けた調略で相手の内部から切り崩し、ジワジワと相手の領地を削っていき、決着をつける時には圧倒的な人員と物量を投入して一気に片をつける。こうした戦い方が出来るのは、日ノ本に数多大名は居るが信長にしか出来ない。
散々苦しめられてきたが、それを乗り越えたことで信長も将兵も大きく強く成長する事が出来た。柴田勝家や羽柴秀吉、明智光秀といった有力な家臣は大名並の戦力を有し、各々が他の大名と対峙している。信長が各地に飛び回らなくても済む事で、信長が出陣した戦で負ける事が少なくなった。
動員出来る兵力も年々増え、今では五万の兵を動かす事が出来る。領地が広がっただけでなく、南蛮船が入港する一大商業地の堺や鉄砲の一大生産地である近江国友村、帝が
これからの戦は大将の采配の力量ではなく、相手より如何に有利な条件で臨むかで勝敗が決まる。兵の数、資金力、鉄砲の数、大義名分など。だから、戦が下手でも信長は気にしない事に決めたのだ。
「本日は是非上様にお見せしたい物を持って参りました」
宗易は
姿を現したのは、黒い茶碗。唐物の天目茶碗と違い、口や胴が僅かに歪んでいる。
「知人に頼んで作ってもらいました。いかがですか?」
大事そうに胴を優しく撫でる宗易。一方で、信長には形が変わっている何の
「……もっと近くで見てもいいか?」
「えぇ。是非」
恭しく差し出された茶碗を、信長も両手で持ってみる。持ち上げてみて様々な角度から眺めたり、質感を確かめてみたりしたが、それでもこの茶碗の良さが分からない。
宗易がわざわざ持参したからには、何か意味があると思う。名器を手に入れたから自慢するような男ではないことを信長はよく理解していた。
「……宗易よ。この茶碗は何が良いのだ? 俺には平々凡々な茶碗にしか見えないのだが」
信長は上洛後の永禄十二年から名物と呼ばれる茶道具を収集する“名物狩り”を行っており、茶道具の価値や良し悪しを見定める眼を養っていると自負していた。流行している茶の湯も趣味の一つとして熱心に向き合ってきたつもりだ。そんな信長でも、この茶碗を宗易が気に入っている理由が分からなかった。
信長からの率直な質問に、宗易は嫌な顔をせずゆったりとした口調で話し始めた。
「最近の茶の湯の潮流で、華美なものではなく質朴なものが流行していることはご存知ですね?」
「うむ」
宗易の言葉に頷く信長。
茶会が公家や武家の間で流行し始めた頃は高価な唐物の名物を用いることが
「日々生活していく中で自分を飾り立てていく内に、本来の自分を見失ってしまう事がございます。敢えて
「ふむ……」
宗易が指摘するに、人は生きていく上で多かれ少なかれ“他人向け”な自分を演じている。それは逆に言えば、世間体や価値観に縛られているとも捉える事が出来る。そうした余計な事を極限まで排除して、ありのままの自分と向き合う――それが茶の湯だと宗易は言った。その理屈で考えれば、高額で取引される唐物は“金銭”という物差しで持て
信長は宗易の言葉を頭に入れて、もう一度茶碗を手に取ってじっと見つめる。
暫く見つめた後、信長は何かに気付いた表情をしてからフゥと息をついた。
「……そうか。何事も完璧を求めるな。そういう事か、宗易」
信長が訊ねると、宗易はニコリと笑ってから頭を下げた。
歪んだ形をしているが、持ってみると手に馴染み、
(俺は天下人と周りから言われるようになり、それに相応しい姿であらねばならないと勝手に思い込んでいたのかも知れない。完全無欠な人間など存在しない、寧ろ才気
自分の才覚でここまでのし上がったと自負しているが、自分一人ではここまで来れなかった。ならば、これからも他の者の助けを借りていけば良い。天下布武の道は果てしなく遠く険しいが、皆の力を結集すればきっと必ず辿り着けることだろう。
そう思うと、肩に掛かっていた重石が少しだけ軽くなったように感じた。楽になった分だけ、気持ちも軽やかだ。
「宗易、この茶碗で茶を点ててくれるか?」
「畏まりました」
持っていた茶碗を返すと、宗易は流れるような手つきで茶を点て始める。いつもと変わらず一分の隙も見せない所作に場の空気が張り詰めるが、気持ちに余裕のある信長は
茶を点て終えた宗易が茶碗を差し出すと、信長は恭しく受け取って口を付ける。
「……美味い。今日は格別に美味い」
信長の言葉に、宗易は柔らかな微笑みを浮かべて頭を下げた。
織田家と本願寺の攻防は、天王寺の戦いで勝利した織田方が大坂表の大半を掌握した事で、持久戦の様相を呈していく。陸からの補給路を断たれた本願寺は大坂湾から水路を利用した補給が主となり、戦場は陸から海へ場所を移して行われる事となる。
信長は天王寺の戦いで勝利を収めたものの、本願寺方面を任せていた塙直政が討死する想定外の事態もあり、本願寺攻めの方針の転換を余儀なくされた。これ以降、陸と海の両方から本願寺を締め上げる兵糧攻めで徐々に本願寺を弱らせる方策を執った。
その一方、本願寺を強く支えていた雑賀衆に揺さぶりをかけた。天正五年二月、雑賀衆の一部が織田方に通ずる動きを見せ、信長は総勢十万の大軍を率いて紀伊・雑賀荘を攻めた。雑賀衆も必死に抵抗して織田方に損害を与えたが、圧倒的戦力差の前に屈して本願寺から手を引く事を条件に、信長は兵を退いた。この約束により、孫一を始めとした雑賀衆は本願寺を去り、本願寺に少なからず影響を及ぼした。
天王寺の戦いで奇蹟的大勝利を収めた信長だったが、この戦い以降は自らの命を危険に晒すような戦は一切行わなかった。予め大軍を用意し、負けないよう万全の準備を整えてから出陣していたので、信長に戦の才があろうと無かろうと関係が無かった。
信長は敵対する石山本願寺や一向一揆に対しては徹底的に戦ったが、それ以外の浄土真宗の寺院や門徒は弾圧せず、禁教にする事もしなかった。
大坂表はほぼ織田方が掌握していたが、それでも石山本願寺は粘り強く抵抗を続けた。反織田勢力として新たに名乗りを挙げた中国の
毛利水軍に制海権を握られた状況が続けば永遠に石山本願寺の攻略は出来ない事は重々承知していた信長は、これに対抗すべく思い切った手を打つ。織田水軍の指揮を執る
天正六年十月、摂津一国を任せていた荒木村重が突如造反。それと前後して播磨の有力国人・三木家も反旗を翻しており、畿内周辺が俄かに慌ただしくなってきた。村重の造反は信長にとって完全に想定外で、本願寺と連携した場合には大坂表の封鎖にも影響が及びかねなかった。信長は本願寺と和睦しようと働きかけたが、顕如は「毛利家の快諾が無い限りは応じられない」と拒否した。
十一月になり、毛利水軍が本願寺へ補給を行うべく大坂湾へ侵攻。海上封鎖を行っていた織田水軍と海戦が勃発したが今度は逆に織田水軍が毛利水軍に大打撃を与えて
天正七年(一五七九年)十月には摂津の有岡城が、天正八年(一五八〇年)一月には播磨の三木家・三木城が落城。これにより、石山本願寺は完全に孤立してしまった。頑強に籠城を続けてきた本願寺勢だったが、補給は完全に絶たれ兵糧弾薬は底を尽きかけていた。これ以上の抗戦は困難と判断した顕如は、朝廷に和睦を働きかけた。
天正八年(一五八〇年)
石山本願寺の戦いが決着するまでに費やした歳月は、十年。歴史に“もし”は存在しないが、この十年が短縮または存在しなければ、信長による天下布武は恐らく達成されていたことだろう。その代償は、やがて信長自身の身に降り掛かることとなる――。
了
悪人 ―天下人・織田信長、乾坤一擲の戦に挑む― 佐倉伸哉 @fourrami
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