終 : 無様であろうと(2)-悪人

   ***

 その日の夜。頼廉が「内密に会いたい」と伝えてきた。夜半、阿弥陀堂に現れた頼廉は顔面蒼白で、明らかに様子がおかしかった。

「申し訳ございません!!」

 入ってくるなりガバッと土下座で謝る頼廉。顕如は頼廉がこのような行動をとる理由も何となく察しがついていた。

「……一つ訊ねます。我等の手勢が織田方の兵に襲い掛かったと聞いていますが、それは貴方の指示なのですか?」

「いえ! それは決して……!!」

 顕如からの問いに、反射的に頭を上げて強く否定する頼廉。

 ただ一点を見つめる頼廉の顔にも想定外と書いてあった。嘘偽りは無いと分かり、顕如はハァと一つ嘆息を漏らした。

「だから申したではありませんか。『己の考えに固執せず、広い視野を持て』と」

 頼廉は織田信長が足利義昭を擁して上洛してきた当初から『信長は将来必ず本願寺にあだなす存在となる』と警鐘を鳴らしていた。その考えに賛同する者達が頼廉の元に集い、徒党を組んでいることも顕如の耳に入っていたが、やんわりと釘を刺すだけに留めていた。本願寺が単なる宗教団体ではなく、全国の門徒達に影響を与える一大勢力として機能しているのは、法主顕如に次ぐ地位にある頼廉の力に他ならないからだ。『織田憎し』の感情は本願寺の僧侶だけでなく、本願寺を守る為に志願してきた末端の兵達にも浸透していった。

 そんな状況を見守っていた顕如は、いつか取り返しのつかない事になるのではないかと内心危惧していた。そして、その危惧が現実となった。

 織田信長は畿内で跋扈する三好三人衆を排除すべく、元亀元年八月に摂津へ出陣した。この時、織田方の軍勢は石山本願寺から一里(約四キロメートル)の距離まで迫っていたが、織田方には本願寺と敵対する意思も刺激するつもりも無かった。

 しかし――頼廉の過激な思考に染まった兵達は、織田方の接近に色めき立った。

 本願寺から一里の距離にある福島城を囲んだ織田方の軍勢を、『次は本願寺を攻める』と勝手に解釈してしまった。織田方には越前朝倉家を攻める際に当初は若狭の武田家討伐を掲げて不意打ちした前科があり、不幸にも悪い判断に導く材料となった。

 やられる前に、やってしまえ――誤った正義感に突き動かされ、遂に越えてはならない一線を越えてしまった。

 九月十二日、夜半。本願寺境内から早鐘が打たれた。その鐘の音を合図に、本願寺の門徒勢が織田勢へ襲い掛かったのだ!

 鳴り響く早鐘はやがねの音で異変を察知した頼廉は、事の顛末てんまつを伝えられて愕然がくぜんとした。織田家と事を構えるのは信長が本願寺または浄土真宗を本気で潰そうと考えた時であり、少なくとも今の段階でこちらから攻めるつもりは全く無かった。

 しかし、今回の暴走で織田方に本願寺を攻める口実を与えてしまった。自らの行いが招いた最悪の結果に、取り返しのつかない事になったことを痛切に感じていた。

 事ここに至った以上、法主である顕如に報告しなければならないと覚悟を固め、人目を忍んで面会した次第である。

「私が今更『兵を退きなさい』と呼び掛けても、戦端が開かれた以上は兵達も聞く耳を持たないでしょう」

 浄土真宗の教えを信じる者達にとって法主顕如の言葉はお釈迦様の言葉も同然だが、頭に血が上っている者達に効果があるとは思えない。逆に『俺達の邪魔をするか!』と刃をこちらへ向けてくる事も十分に有り得る。

 顕如はハァと大きな溜め息をつくと、すっくと立ち上がった。

「……どちらへ?」

 頓狂とんきょうな声で訊ねた頼廉に、意を決した表情の顕如が告げた。

「決まっています。これから織田様の陣所へ参ります」

 経緯はどうであれ、部下の不手際の責任を取るのは上に立つ者の使命。そう言わんばかりに凛としたたたずまいで顕如は答えた。

「なりませぬ!!」

 言うなり頼廉は必死の形相で顕如の法衣のすそを掴んで止める。

「……放しなさい」

「いいえ! 放しませぬ!! 今、織田の元に行けば殺されるだけです!!」

「私の首一つで済むなら、喜んで差し出します」

「なりませぬ!! 最早、法主様一人の御命で手打ちとなる段階ではないのです!!」

 裾を握る手に力を込めながら、懸命に説得する頼廉。

 顕如は誠心誠意を尽くして詫びれば解決すると思っている様子だったが、頼廉の見立てではもう既に平和的な解決で落着する段階は過ぎてしまった。事故とは言え本願寺の兵が織田方の兵を襲った時点で、織田方は本願寺を敵と認識してしまっている。今更のこのこ出掛けては火に油を注ぐ事になりかねない……頼廉はそう見ていた。

 法衣の裾を掴まれて身動きが取れない顕如は、仕方なく元の位置にストンと腰を下ろす。

 歯を食い縛り必死に止めていた頼廉は暫く肩で息をしていたが、やがて呼吸が落ち着くと決意を固めた表情で進言した。

「……法主様。こうなってしまった以上は、覚悟を決めねばなりません」

 頼廉の言葉に、顕如は息を呑んだ。

「事故という形ではありますが、一度織田家に刃を向けたからには中立を貫く事は不可能です。幸い、公方様から決起を促す旨の書状が届いております。大義は我等にあります」

 足利義昭と織田信長の間に隙間風が吹き始めた頃から、しきりに義昭から本願寺にてて『織田家領内の門徒達に一揆を起こすよう働きかけて欲しい』という内容の書状が届くようになった。しかし、顕如は頑として受け付けなかった。下手に織田家との関係を悪化させれば門徒や僧侶達に影響が及ぶ事を恐れた為だ。だからこそ、縁戚関係にあった浅井長政が離反して信長が窮地に立たされても、本願寺はどちらの陣営にもくみせず中立を保った経緯がある。

 頼廉から諭されても、顕如は険しい表情のまま否とも応とも言わない。何としても諾と言ってもらいたい頼廉は距離を詰めるが、それでもビクとも動かない。

 顕如は、自らの発言でどのような影響を及ぼすか重々承知していた。「武器を手に取り戦え」と呼び掛ければ、全国の門徒達は『真宗の危機だ』と立ち上がるだろう。だが、それが果たして門徒達の幸せに繋がることか。むしろ、多くの人を不幸にしないか。その一点で悩み迷っていた。

 ただ、一方でこれまで通り頼廉の提案をしりぞけなかったのは、頼廉の言っている事も一理あると考えたからだ。信長は従来の武将達とは明らかに異なる考え方の持ち主で、今は本願寺を害する意思は無くても未来永劫えいごう続くとも思えない。四方を敵に囲まれ苦境にある織田家に追い討ちをかけるように攻撃すれば、本願寺に対する心証を害するのは当然だ。

 フーっと長く息を吐いた後、天井を仰ぐ顕如。苦しい胸の内を表すように、その眉間には深い皺が刻まれている。

 どのくらいの時間が経過したか。重苦しい沈黙を破ったのは、意外にも顕如の方だった。

「……事ここに至れり、ですね」

 ポツリと漏らした顕如に、頼廉が反射的に顔を上げた。

「各地の門徒に決起を促す書状を出しなさい。織田家と戦う姿勢を世に示すのです」

「はっ!!」

 頼廉に命じる顕如の顔から、迷いが消えていた。

「本願寺の守りを固め、兵糧弾薬の支度も怠らないように。それと、くれぐれも――」

「『この戦いは真宗の教えを守る為。こちらから仕掛ける事は厳につつしむように』……で、よろしかったでしょうか?」

 頼廉が言うと、顕如は静かに頷いた。

 顕如が織田家と対峙する姿勢を明確にした上で、勝手な行動は控えるよう命じた。顕如は浄土真宗の頂点に立つ者であり、その命を背く者など居る筈が無い。これで与り知らぬ所で暴走する危険は少なくなった。

「……これで、いいのだな」

「全ては全国の門徒達を救う為、後世に真宗の教えを受け継ぐ為、必要な事でございます」

 深く頭を垂れる頼廉。この男も真宗に対する思いは人一倍強く、日々伸張していく織田家がいつか真宗を害するのではないかという考えから織田家に警戒感を露わにしていた。

「戦のことは任せる。……頼んだぞ」

「はっ。この頼廉、地獄の底まで法主様にお供致します」

   ***

「――事故という形であれ、流れに逆らえなんだ、ということですか」

 孫一の問いに、顕如は静かに頷いた。

 顕如と頼廉が極秘で会った翌日。本願寺勢が淀川の堤を切ったことで川の水が織田方の陣に流れ込み、多数の死者を出した。これにより両者の対立は決定的となった。本願寺挙兵の報を受けた浅井・朝倉の両勢が琵琶湖西岸を南進、京が脅かされる恐れがあると判断した信長は撤退する決断を下し、一先ひとまず本願寺方の勝利で戦は終結した。

 それから六年。本願寺と織田家の戦いは各地に飛び火し、血で血を洗う苛烈な争いに発展して現在に至っている。

「愚禿はあの時の決断を間違っていたとは思っていません」

「だが、貴方の選択で多くの民が命を落とした。本来失われない筈だった命もな」

 険のある言い方で返した孫一の顔は、怒りで染まっていた。実際、顕如の呼称が“上人”から“貴方”に変わっている。

「オレ達みたいな稼業は人を傷つける仕事である以上、殺される覚悟も出来ている。だがな、戦と何の関係も無い無辜むこの民が巻き添えになるのも、仕方のないことだと言うのか!」

 伊勢長島では降伏して船で退去しようとした者達に織田方は鉄砲を浴びせ掛け、残った者達は数ヶ所にまとめて何重にも柵で囲んだ上で火攻めに処した。朝倉家滅亡後の越前では府中を中心に万を超える人々が殺され、一揆討伐に参加した前田利家が一揆に加担した千人をはりつけ・釜茹でにしたとする記録が残されている。この千人の中には戦と関係のない女性や子どもも含まれていた。織田家の虐殺で命を奪われることになったが、顕如が織田家と対峙する道を選ばなければ今も生きていたかも知れない。判断一つで多くの命が失われ、多くの人を悲しませる結果となった。そのことに孫一はいきどおっていた。

 顕如の要請を受けて参戦した雑賀衆でも、少なからず死傷者を出した。無言の帰還を果たした男の家族は涙を流し、大黒柱が深手を負って戻った家族は困窮し苦しむ姿を、孫一は嫌という程に見てきた。本願寺に加担しなければこんな事にならなかったのではないか。

 本来、宗教というものは人生で苦しい思いをしている人々に寄り添い救う為に存在している筈なのに、これでは宗教が新たな苦しみを生み出しているのではないか。孫一は糺さずにいられなかった。

 孫一の糾弾にも顕如は視線を逸らさずに毅然きぜんと言い放った。

「一刻も早く、一人でも多くの命を救う為に、孫一殿にお願いした次第」

 背筋を正し、真っ直ぐ前を見つめる顕如。そこに負い目や引け目は微塵もにじんでいない。

(……成る程。殺生を禁じる事を説く法主様が『信長を撃て』と依頼してきたのはそういう事か。禍根かこんを絶つには根本から、とはよく言ったものだ)

 信長と対峙する道を選んだ以上、一番早く事態を収束させるのに手っ取り早いのが、敵の大将の暗殺だ。例え戒律を破る行いであったとしても、多くの人々の命を救う為なら目を瞑るか。まぁ、戒律など屁とも思わない生臭坊主など世の中に腐る程居るのだが。

「愚禿は、多くの罪無き者を死に至らしめた極悪人です」

 浄土真宗の教えに、“悪人正機あくにんしょうき”という考え方がある。

 阿弥陀仏が救済したい対象は衆生しゅじょう(しゅじょう)(全ての生き物、特に人間)であり、全ての衆生は末法濁世まっぽうじょくせ(仏が存在した世から長い年月が経過して、仏の教えがおろそかになり荒廃した世)に生きる凡夫ぼんぶ(煩悩に囚われた普通の人)は仏の視点から見れば、善悪の判断がつかない根源的な“悪人”と捉えられる。阿弥陀仏の光明こうみょうに照らされた時、即ち真実に目覚めさせられた時に初めて自分が真の善は一つも出来ない悪人と気付かされる。自らが悪人と自覚した者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知る――というのが、“悪人正機”という考え方である。

 ここで言う悪人は、法律や倫理・道徳に照らし合わせた善悪ではなく、どんな些細な悪も見逃さない仏の眼から見れば、皆等しく悪である……という考えに基づいている。中にはこの解釈を都合よく捉え、『悪人が救われるなら積極的に悪い事をしよう!』と考える輩が現れ始めた。この事態を憂慮ゆうりょした教祖親鸞しんらんは「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒める言葉を残している。

 今、顕如が発した悪人は『多くの者を死に追いやった“倫理的に許されない”悪人』なのか、『自らの判断一つで“御仏が人々を救おうとする思いに反する行いをした”悪人』なのか、無学な孫一には判別がつかなかった。或いは、その両方なのかも知れない。

「多くの門徒、真宗と関わりの無い者まで死なせた愚禿は地獄へ堕ちましょう。なれど、死んでいった者に何の罪もありません。せめて魂が安らかに、極楽浄土へ往生出来るようにお経を上げることこそ、愚禿が出来る精一杯の務め」

 いつも阿弥陀堂に籠もって延々読経を続けているのは、そういう事だったのかと孫一は合点がいった。身を削る思いで唱えるお経は現実逃避や惰性だせいでなく、犠牲となった者達を心からいたむ気持ちから行っているのか。武器は持たなくても顕如はずっと戦っていたのだ。

「……一つ、お訊ねしてもよろしいでしょうか?」

「何なりと」

「この戦、どのように終わらせるおつもりですか?」

 孫一の質問を他の誰かが聞けば「皆が懸命に戦っている中、戦の終わらせ方を語るとは何事か!」と騒ぎ立てるだろうが、幸いなことに阿弥陀堂には孫一と顕如の二人しか居ない。邪魔が入らないからこそ、単刀直入に聞いたのだ。

 先日の天王寺での敗戦で本願寺方は大坂表での優位性を失ったが、まだ負けてはいない。兵糧弾薬を陸路から搬入するのは難しくなったが大阪湾を中心とした制海権はまだ本願寺方が握っており、強力な水軍を擁する毛利家と連携すればまだ十分に戦える。頼廉を始めとした将兵の士気も衰えていなかった。

 ただ、本願寺方の旗頭である顕如には、どちらかが滅ぶまで徹底的に戦う意思が無い……というのが孫一の見立てだった。戦の方針は孫一を始めとした雑賀衆の今後にも影響するので、是非とも顕如の口から聞いておきたかった。

「左様ですね……」

 そう言うと考え込む顕如。戦略方針は今後の戦の行方を左右する重大機密であり軽々けいけいに他人に話してはならないが、孫一は本願寺外部の人間ながら石山合戦における本願寺への貢献度は絶大で、顕如の右腕として幹部相当に遇されている。加えて、互いに秘密を共有して絆を深めている。顕如の口から明かされた機密を外部に漏らすなど有り得ない事だ。

 暫し考え込み、やがて考えがまとまったのか顕如は顔を上げた。

「皆が戦えると思っている時に『ほこを収めよ』と言っても聞く耳を持つ者は居ません。戦が長引いてくれば互いに苦しくなり、相手から有利な条件を引き出せるようになれば、皆も納得することでしょう」

 顕如の言葉を聞いて、孫一は静かに頭を下げた。

 天王寺の敗戦は本願寺方に痛手だったが、『まだ織田方と対抗出来る』『本願寺に挽回する機会は巡ってくる』と考えている者は意外と多い。そんな時に戦を止めるよう説いても誰も従わないだろう。しかし、膠着した状態が長く続けば両者の間に厭戦えんせんの空気が漂い、本願寺の内部でも『織田方と交渉に応じてもいい』と思う者が出始めるだろう。織田方も本願寺に割く人員や金、時間が惜しいと思えば、必ず交渉の場に出てくるに違いない。

 本心から戦を望んでおらず、一刻も早く終わらせたい。それが顕如の偽らざる願いだと、孫一は睨んだ。

 信長は伊勢長島を始めとして約定破りの前科はあるが、ここまで苦しめられた以上は本願寺を本気で潰そうとは考えないだろう。もしも信長が顕如を殺せば、織田家領内の門徒が一斉に蜂起して、天下獲りどころではなくなるからだ。

 しかし、信長と和議を結ぶまで、あとどれくらいの時間が掛かるか、見通しが立っていない。その間、望んでいない戦の為に、また多くの命が失われる。それを黙って見ているしか出来ないとは、何と辛く苦しいことか。

「……承知しました。この孫一、これからも出来得る限り上人様をお支え致します」

 深々と頭を垂れる孫一。改めて言うことでもないが、口に出して宣言することで自分の覚悟を明らかにしておきたかった。

「頼みましたぞ、孫一殿」

「ははっ!!」

 顕如から言葉を掛けられ、恭しく応じる孫一。そして、そのまま孫一は顕如の前から下がっていった。

 障子を静かに閉め、廊下を歩こうと一歩踏み出した所で阿弥陀堂から読経の声が聞こえてきた。

(……極悪人、か。存外、そうかも知れんな)

 人々を苦しみから救う振りをして、死地に追いやる。死んでいく者は極楽浄土に行けると信じ切っているから間違ってないとも言えなくもないが、それは果たして仏に仕える身が許していいのか。オレは違うと思う。

 オレも数え切れないくらい人を殺してきたが、上人はもっと上だ。あの御方は紛うことなく極悪人だ。

 布に包んだ鉄砲を肩で担ぐと、孫一は再び廊下を歩き始めた。暗く先が見通せない闇の中へ、力強い足取りで。

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