終 : 無様であろうと(1)-孫一の懺悔

 五月七日から二日に渡り続いた天王寺の戦いで敗れた本願寺勢は、大坂表での優位を失った。織田方は石山本願寺の四方十箇所に付城を築き、本願寺への人や物の往来を厳しく制限したことで、本願寺は敵中で孤立すると共に陸で戦を仕掛けることも難しくなった。

 そんな中、五月の終わりの頃に、孫一が顕如に「内々で会って話がしたい」と伝えた。その日の夜、人目を忍ぶ形で本願寺に入った孫一は顕如の居る阿弥陀堂に向かった。

(……思えば、顕如上人はいつも阿弥陀堂にいらっしゃるなぁ)

 阿弥陀堂に案内される途中、孫一はぼんやりとそんな事を考えていた。

 聞けば、顕如上人は寝起きとかわやに行く時を除いて、ほぼ一日中阿弥陀堂に籠もり勤行を続けているそうだ。食事も阿弥陀堂に運ばせ、修行僧や下働きの者達が食べるような粗末な物を召し上がるとか。高位にあることに胡坐あぐらをかいてぜいを尽くした飯を食らう生臭坊主も掃いて捨てる程に居るこの世の中で、実に素晴らしい心掛けだと思う。

 孫一が阿弥陀堂に通されると、顕如は案内した者に向かって告げた。

「私が呼ぶまで、誰も近付かないように」

 顕如がそう言うと、案内した者は一礼すると静かに下がっていった。廊下を歩いていく音が遠ざかっていき、部屋の外や近くに誰も居ない事を確認してから孫一は障子を閉めた。

 部屋には、孫一と顕如の二人だけ。大きな阿弥陀如来像が見守る中、孫一は背筋を正す。

「――申し訳ございません!!」

 開口一番に大きな声で謝ると、大きな体を曲げて頭に床をつける孫一。突然の謝罪にも、顕如は顔色を変えることなく孫一の後頭部を見つめる。

「先日の七日。上人の見立て通り、信長が戦場に姿を現しました。信長を仕留める為に万全の態勢で臨みましたが――オレが不甲斐ないせいに、撃ち漏らしてしまいました……!!」

 孫一が信長を討ち損じたという事実は、あの場に居合わせた者しか知らなかった。箝口かんこう令を敷いた訳ではないが雑賀の者達は皆が孫一を慕っており、あの失敗を皆の胸の内に秘めておいてくれていた。この事が明るみになれば間違いなく孫一の武名に傷がつくからだ。

 その隠しておきたい真実を、孫一は顕如に包み隠さず白状した。今回の仕事の依頼主は顕如であり、孫一の腕を信頼してくれた顕如には全て正直に話すべきだと判断した。

 直前まで、信長は狙撃を警戒する素振りを一切見せていなかった。やれる、そう確信して引き金を引こうとした瞬間――信長と目が合った。たったそれだけで、孫一は激しく動揺してしまった。結果、当てられる筈の弾は外れた。全ては自らのおごりが招いた失敗だ。

 もう一度撃とうと思えば撃てた。しかし、ほぼ同時に同朋が危機にひんしていると報せが入った。信長を倒すか、味方を救うか。究極の選択を迫られ、後者を選んだ。一度失敗している為に狙撃が難しいのもあるが、顔を知っている者が犠牲になる事が堪えられないという気持ちもあった。

 思っている事を、洗いざらい全て打ち明けた。罪悪感から逃れたいとはさらさら考えていない。失敗した責を負えと言うのであればしかるべき時に行うつもりだ。さて、目の前にいらっしゃる上人様は何と仰るか。

 頭をずっと下げたままの孫一から、顕如の表情はうかがえない。期待を裏切られて失望しているか、失敗に怒りを覚えているか、差し迫った脅威に怖がっているか、それとも……。

「――お顔を、上げて下さい」

 どれくらいの時間、頭を下げ続けていただろうか。顕如に促され、孫一は顔を上げる。そこにあったのは――慈愛に満ちた表情を浮かべる顕如の姿があった。

「よくぞ、話して下さいました。さぞお辛かったことでしょう。……一人で苦しみを背負わせてしまい、申し訳ありません」

 そう言うなり頭を下げようとする顕如を、慌てて押し留める孫一。仏に仕える身ながら浄土真宗の頂点に立つ者が一介の傭兵風情に謝るなど聞いた事が無い。しかも、顕如は今回の仕事の依頼主だ。

「……責めないのですか?」

 孫一はこれまで数え切れない程の人と会ってきた。時に傭兵として、時に傭兵稼業の頭目として。立場は異なれど、依頼主が上でこちらが下という関係に変わりは無かった。部下が失敗すれば「高い金を払っているんだぞ!!」と強い口調でなじられ、場合によっては物や拳骨が飛んでくる。こちらはそれを平身低頭で耐えるしかない。仲間が死んでいたとしても「失敗する奴が悪い!」と容赦が無いし、仮に成功しても「ご苦労さん」の一言で済ませる者も少なくない。命を懸けて仕事をしているオレ達は「果たして同じ人間として扱われているのだろうか?」と疑問に思った事も一度や二度で済まない。

 対等な立場で接してくれたのはただ一人――信長だけだった。そして今、目の前にもう一人。

「拙僧の依頼は極めて難しいものであると重々承知しております。孫一殿が最善を尽くされた以上、失敗したとしても誰が責められましょうか。失敗しない人間など存在しません」

 顕如は平然と言ってのけた。オレでも部下の失敗を咎める事があるが、宗教の頂点に立つ者はこれくらいの人格者でなければ務まらないのかと妙に納得している自分が居た。

「孫一殿を始め、雑賀の方々はよく戦って下さっております。感謝こそすれ、非難するいわれなどありません。――報酬は満額お支払い致します」

 顕如は機先を制する形ではっきりと告げた。自らの失敗で報酬を受け取れないと固辞すると読んでの発言に、孫一も言葉に詰まった。雑賀衆の多くは浄土真宗を信仰していたが、他宗派を信仰していたり日の出の勢いにある織田家と敵対するのは得策でないと考える一派が居たりと、雑賀衆の中も一枚岩とは言えなかった。そうした者達を抑える為にも、本願寺から支払われる多額の報酬は喉から手が出る程に欲しい事情が孫一にはあった。

 一介の傭兵である前に、雑賀衆の頭目としてここまで戦ってくれた者達に報いてやりたい気持ちが孫一には強くある。背に腹は代えられず、顕如の提案を甘受した。

「さて、孫一殿が胸襟きょうきんを開いて話して頂けたのに、拙僧……いえ、愚禿ぐとくだけ胸の内を明かさないのは不公平でしょう。これは内々の事ですのでお聞き苦しいかも知れませんが、一つ聞いて頂けないでしょうか?」

 思いがけない展開に、孫一は面食らった。自分の秘密を聞いてくれとは、一体どういう事なのだろうか?

「……お言葉ながら、部外者のオレが聞いてもよろしいのですか?」

「寧(むし)ろ、本願寺の内の人間でない孫一殿の方が都合のいいのです」

 はっきりと言われた以上、孫一に選択権は無かった。何も答えず背筋を正しているのをだくと捉えた顕如は「くれぐれも他言無用で」と前置きを述べてからおもむろに話し始めた。

「実を申しますと、愚禿は信長……いえ、織田家と。それは今でも変わりありません」

「……何ですと?」

 鬼が出るか蛇が出るかと身構えていた孫一は、顕如の口から明かされた内容に思わず反応してしまった。

 石山本願寺が織田家と敵対するようになったのは、元亀元年九月に顕如が全国の門徒にげきを飛ばしたのが発端だ。

――信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候といえどもその詮なく、破却すべき由、たしかに告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ 九月六日 顕如 門徒中へ――

 近江中部の本願寺門徒衆に宛てた書状にはこのように記され、『信長が上洛してから此方は大変迷惑している。二年前から難題を要求されてこちらも応じてきたが、(石山本願寺を)破却しろと言ってきた。命をけて戦うべし。もし応じない場合は、門徒ではない』という過激な内容となっている。この内容に似た書状は孫一の元にも届いていた。

「私の名で門徒達に決起を促す書状が出されたと聞いていますが、愚禿はそのような事を言った覚えはありません。本願寺については織田家から内々に遷移せんいの打診はありましたが、それも先方から『京でも堺でも、望みの地を用意する。移動や建設に掛かる金も出す』と提案されていました」

「……それを証明する文か何かはございますか?」

「お恥ずかしい話ですが……織田家からの文は一部を除いて全て紛失してしまいまして」

 そう言うと下を向く顕如。恐らく織田家に反発する何者かによる内部の犯行だろう。証拠となる文書が残されていない以上、顕如の発言を証明するのは難しい。

「そもそも、織田家の領内では真宗の教えは認められ、迫害や弾圧などもされておりません。信長が上洛してきた段階で事を構えるつもりはありませんでした」

 永禄十一年に京都御所再建の名目で五千がんを要求してきたが、これも本願寺に限った話ではない。洛中の商家や堺の会合えごう衆にも金額は違えど要求していたし、信長自身も金を出している。額が大きく事前の交渉抜きで一方的に要求してきたが、本願寺の支払い能力を超えるようなものではないので顕如は応じたが、信長のやり方に反発する者や危機感を覚える者も少なくなかった。当初こそ『尾張の田舎者、成り上がり者』と歯牙にもかけていなかったが、京を完全に掌握し畿内全域に勢力を拡大させていくにつれ、『次は本願寺に矛先を向けるのではないか』という警戒感が日に日に増していった。信長が古くからの権威や既得権益を次々と打破していく姿勢を見せていたことも、そうした声に拍車をかけた。

「されど、合点がいきませぬな。上人に織田家と敵対する意向が無い以上、勝手に動く者など居ない筈では……」

 そう言った孫一の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。

 顕如は浄土真宗の中で最高位にある者。末端の門徒からすれば雲の上の存在であり、顕如の教えに反する行動を起こすとは考えにくい。

 しかし――顕如の側近くにはべり、顕如の意思を代弁出来る者なら、どうか。

「……頼廉か」

 孫一の呟きに、顕如は静かに頷いた。

 頼廉は本願寺の中で反織田の急先鋒だ。顕如を神か仏のように崇める様は盲信的、いや狂信的と言っても過言ではない。本願寺、顕如の為なら例え火の中でも水の中でも厭わず飛び込むことだろう。頼廉に近い者達がその過激な思想に染まっていたとしても何ら不思議ではない。

「忘れもしません。あれは元亀元年、九月十二日のこと。あの日も、今と同じ場所に頼廉が座っておりました――」

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