四 : 思いと思い(9)-久秀の美学
「父上、一つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
五月下旬、割り当てられた付城の普請を見守っていた松永久秀に、嫡男・久通が声を掛けてきた。
辺りには作事の
「先立っての戦で、我が陣に駆け込んできた
久通が指摘したのは、去る五月七日に行われた合戦の最中、どこの陣の者とも告げない使者が「内密の用件でお伝えしたい儀がある」と言って久秀に目通りを求めてきた。それに対して久秀は「有無を言わさず斬れ」と命じ、遣いの者は秘密裏に始末された。遺体は戦死者に紛れて埋められ、この事実を知るのは家中でも限られた者だけだった。
その者が本願寺の手の者だと、久通は薄々勘付いていた。父の裏切り癖にはほとほと困っているのだが、一方で解せないこともあった。僅かな供廻りしか連れず信長が我が陣に居るのに、父は手を出そうとしなかった。戦場のどさくさに紛れて闇討ちする事も容易だったのに、である。
「お主も考えが浅いのう」
久秀は久通の言わんとしている事を理解した上で、そう返した。
「目の前にぶら下げられた餌に食いつくなど、三流のやる事ぞ。つまらぬ。実につまらぬ」
「……なれば、父上は何が面白いのですか?」
久通からの問いに、久秀は少し考えてからゆったりとした口調で答えた。
「そうさな……圧倒的強者が恥も外聞もなく足掻いている様を高みから眺める事、かな」
「はぁ……」
今一つピンと来ていない久通に、久秀はニコニコと微笑む。
しかし、久秀は内心では歯噛みする思いに駆られていた。
(信長め。よりによって儂の陣を選ぶとは。あれでは手出しが出来ないではないか)
“
あの若造を罠に嵌める火遊びは例え失敗したとしても自らに火の粉が被らないよう細工を施しておいたが、我が手の内にある信長を戦場のどさくさに紛れて始末するのは、あまりに乱暴過ぎる。それに、自らの美学にも反した。
自らの手を汚すことなく、思い描いた理想の展開に持ち込む。それが久秀にとって何よりの楽しみだった。その為に知恵を振り絞り、金も労力も時間も惜しまなかった。
その点、信長という男は実に素晴らしい。損得を見極めて動くかと思えば、直感を信じて突拍子のない行動も取る。劣勢に立たされても、決して諦めず何とか打開しようとする気概もある。側で見ていて飽きる事がない。
(……まぁ、儂もあと三十若ければ話は違っていたかも知れぬが)
久秀が世に出た事を確認されるのは、天文九年(一五四〇年)。当時の主君・三好長慶の
久秀は歴とした武家の生まれではなく、三好家に仕える経緯もよく分かっていない。ただ一つ言えるのは、当時の三好家が今の織田家と同じように家柄や血筋に関係なく能力ある者を積極的に登用する家で、その中で久秀が頭角を現した事だ。
主君長慶の死去や三好家内部での勢力争いで三好家が没落していく一方、大和で独立した大名となった久秀は主家を凌ぐまでに成長した。だが、この時久秀は六十手前。いつか天下獲りに名乗りを挙げたくても、圧倒的に時間が足りない事は久秀にもよく分かっており、自らの大望を諦めざるを得なかった。
もしも、自分が三十くらい若ければ……天下人の座を求めて、信長を始末していたかも知れない。今更考えても詮なきことだが。
「――父上? 如何されましたか?」
物思いに
「いや、大事ない。ちと考え事をしていただけだ」
「左様でしたか。齢も齢ですから、少し休まれては如何ですか?」
「失敬な。儂を年寄り扱いするでない」
息子の気遣いに笑いながら怒る久秀。とは言え、人間五十年が寿命の世で今年六十九になる久秀はかなりの高齢である。背筋は真っすぐで頭の冴えも衰えが見えないので、老け込んでいる様子は全く無いが。
よくよく考えれば、自分は存外果報者なのかも知れない。度重なる謀反でも付き従ってくれる家臣、自分とは真逆で実直な性格の有能な息子、それに可愛らしい孫も居る。それでいて楽しさを追求出来る仕事がある。これ以上望めば罰が当たる。……まぁ、当たるなら
久秀は一つ息をつくと、久通の方を向いて言った。
「……彦六、ちと疲れた。少し休むから後は任せたぞ」
「承知しました」
後を託すと、久秀は現場からゆっくりと下がっていった。その顔は、何か新たな企みを考えている怪しい表情をしていた。
余談ながら――天王寺の戦いの翌年、久秀は上杉謙信が西上の動きを見せたことに呼応して再度挙兵。信長は久秀の真意を質そうと使者を送ったが、これを拒絶。止む無く信貴山城に大軍を送った。城を囲んでもなお信長は『名器と名高い茶釜“古天明
天正五年(一五七七年)十月十日、久秀は平蜘蛛の茶釜を叩き割ると、天守に火を掛けて自害した。享年七十。奇しくも、この日は十年前に東大寺大仏殿を焼き討ちした日であった。久秀が何故謀叛を起こしたのか、反旗を翻した者には手厳しい信長には珍しく助命勧告をされながら拒否したのか、その胸中は誰にも分からなかった。
もしかすると……打算や楽しみではなく、負けを覚悟で純粋に信長へ勝負を挑んだのかも知れない。
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