露草の栞 後篇(下)

 

 鈴白家から下がらせてもらい、結婚して夫となり共に暮らし始めた片桐は、あの津守垣さまのご友人なだけあって、嫁いでみると見た目よりもずっと親しみやすく話しやすい人でした。長岡の出でしたが地元新潟にはすでに誰もいないも同然で、高等学校から帝都に出てきて大学までは同郷の篤志家が援助してくれたのですがその方も片桐が医者になるのを見届けるようにして亡くなり、仕事に埋もれる生活を送っていたようです。

 縁談も唐突すぎて最初は気乗りしなかったとのこと。ところが鈴白邸でもう一度お逢いしましたところ、

「津守垣がね」

「そうですね」

 しみじみと津守垣さまの強引さを庭の池のほとりで分かち合っておりました折のわたしの沈黙の長さが気に入ったとかで、わたしを嫁にもらうことにしたのだそうです。

「津守垣がまた」

「お前が片桐でぼくが津守垣で、桐(ぎり)と垣(がき)が重なっているから生まれる子の名にはどこかに、濁音の読みを入れるといい」

「真似がうまいね」

「苗字と下の名に音を続ける意味がわかりませんでしたよね」

 馬が合うというのか、兄と妹のように夫の片桐とは最初からうまくいっておりました。退役された海軍少将の和洋折衷の貸家を新居にあて、そこから病院に通うほか片桐は公爵家の健康も担い、頼まれれば宮家にも往診するようになりまして、そのご縁から後にわたしは大勢おられた皇族がたの、といっても端のほうのおらくなお家でしたが、宮さまの主治医となった夫に付き従うようにして、とある宮家に女官として上がり、疎開先の御殿場で終戦を迎えることになるのです。

「なぜ斜めになっているのか訊いてもいいかい」

 片桐が不審がるのも無理はなく、新妻のわたしは身体を斜めにして、朝食を並べた向い合せの食卓の、片桐の背後の窓を見ておりました。片桐も振り向くのですが、そこには何もないのです。

「山茶花の後ろの黒塀の上に猫がおりました」

「そう」

「煮干しでも出しておきます」

「郷里の新潟では猫を飼っていたよ」

「あら、そうですか」

「冬になると湯たんぽの代わりになって温かい。今は珠真が猫の代わりになるから要らないね。夜の帰りが遅くなる時は待っておらずに先に寝ていてもらえないか。実はその方が横から入れてもらった時に毛布が温かくて具合がよい」

「湯たんぽ扱い」

「どうせ珠真はストーブの傍で熟睡していて、ぼくを待っている意味がないじゃないか」

「それはそうですね」

「君を蒲団に運ぶほうが毎回、大変です」

「朝おきたら寝台にいるからおかしいなぁとは想っていました」

「先に寝ていなさい」

「お言葉に甘えてそうします」

 迎えの車が来て勤め先の医院に出る片桐を見送って、女中さんと共に窓硝子を拭きながら今日は寒くなりそうだなと空を見上げました。

 皇国の行く末を案じる青年将校たちが決起して政府の要人を殺害して回ったのは、大雪の降ったその朝でした。


 あの頃、誰が誰を好きで、誰のことを想っていたのか。閉じた書物の合間には何があったのか。

 百合さまはわたしの兄を、曄子さまは百合さまを、そしてわたしは。


 子爵邸は空襲で全焼し、街も灰燼と化しました。戦後数十年経ってから鈴白のお屋敷があった場所を訪ねてみましたが、町ごと道路に分断され、ごちゃごちゃと小さな家が建て込んで、排気ガスにすすけた高いビルも建ち、蓮華の野原も石垣もなければ、わずかばかり残っていたはずの大名屋敷の名残りの古い樹々も伐採されてなんの趣もないことになって面影はなに一つそこにはありませんでした。

 或る方は戦前戦中に病没し、或る方は戦災死し、わたしも弟を艦艇ごと失いました。半世紀も経てば懐かしい人々はみなお隠れです。

 恋情に追われて逃げて、封印した心に押し出されるようにして、人生の分かれ道を選んできました。流れに逆らっていたのか、沿っていたのか、どれが正解だったのかは分かりません。

 都市を焼き尽くした敵機の編隊が駿河湾から富士の山を毎日とおるのを、まるで宇宙からやってきた魔の鳥を見るようにして宮さま方と怖れて見上げながら、日本国が何時からこうなってしまったのか、昭和維新を掲げた青年将校たちが反乱を起こしたあの二月の雪の日からなのか、それすらも不明のままなのです。

 曄子さまのご最期は戦前の小さな新聞記事になっております。渡米されてから二年後、欧州へ遊学に向かう途中の客船の中で、寄港した街からもらった流感にかかり、異郷の海の上で病没されてしまったのです。


 姉さま人形のような鶴さまと、西洋人形のような曄子さまのあいだにあって、わたしはまるで源氏物語の花散里のように自分のことを想っておりました。数多くの女人を渡り歩く源氏の君から全幅の信頼を寄せられて預けられた御子を養育していた花散里。もしかしたら、華族の家にお仕えしていた多くの老嬢たちも同じことを考えていたのかもしれません。絵巻物の中にいるような日々。このまま永遠にこの方々の間にいられたら。

 わたしが恋をしていたのは、人ではなかった。

 赤白黄色の組に分かれて校庭で巴合戦をしていた女学生たちの笑い声。遅刻をしかけた曄子さまと一緒に学校に向かって走っている時の「急げ」とはやし立てるバンカラ大学生の鳴らす高下駄。鶴さまと曄子さまとわたしの三人で口にした茱萸ぐみの実のすっぱさ。

 女中頭からあの方は女中ではありませんといくら注意されても、「珠真、お茶」始終わたしを室に呼びつけていた晴忠さま。お茶だけ置いてすぐに背を向けていたわたしを引き止めて、竹針の蓄音機を聴かせてくれたこと。「レコードを買うから御供においで」晴忠さまと銀座の十字屋に行き、狭い視聴室に閉じこもって「珠真はどれがいい。それを買うよ」そう云われて選びに選んだヴィクターの赤ラベルの十二インチレコード。「こちらがいちばん変な音でした」「変ということはないだろう」ベートーヴェンを聴きながら顔を見合わせて笑ったこと。

 蓮華を食べていた。晴忠さまがそう呼んで接吻された。つわぶきの葉の上で立てる瑠璃色の音をからだを重ねて聴いていた、明け方に降った夏の雨。


 御領のあった調布に遊びに行くと、だだっ広い平野にぽつぽつと藁ぶき屋根の家があり、竹細工の籠の中に鶏がいて、牛が田んぼを耕していました。それを見て「広重の時代が戻ってきたみたい」愕きの声を上げてはしゃいだ曄子さまとわたし。赤羽の工兵大隊に「御付の方もおいで下さい」とゆるされて、女学生のみなさんと一緒に見学した爆雷の爆破実験。

 華族になっても国許から付いてきた大勢の元幕臣たちは主人のことを「お殿さま」と呼んで変えず、老女たちは若い頃には矢絣の着物に黒帯をおたてに結び、少し格が上になるとお掛を羽織っていたであろうゆっくりとした姿で、真夏でも白足袋で御膳を掲げてはこぶのです。

 遠く過ぎ去ろうとしてる江戸の灯と、西洋建築の電灯のあかり。遠くまで一面に続く瓦屋根が深海の底のようにみえていたあの頃の夜の静寂しじま

 学校帰りの省線でわたしに凭れて眠ってしまった曄子さまの寝顔。

 そのすべてに、露草の色にビオラの香をかぐようにしてわたしは一途な恋をしておりました。


 海の上で亡くなられた曄子さま。わたしは曄子さまが青い風にのって、いるかと戯れながら南十字星を見上げておられるような気がします。永遠に刻をとめて、白い雲の流れる空を走り、思う存分、地球の上を駈けまわっておられるような、そんな夢をみます。

 源氏物語は曄子さまも百合さまもお好きでした。与謝野晶子訳の源氏を取り出して頁をめくられては、

 源氏物語は、ここが特にいいわ。

 交代で音読しながらお二人がおっしゃいます。

 平安時代に書かれた物語なのに、このお話の人々がすぐ近くにいるようね。

 紅葉の葉影がゆれる錦繍のお庭で、お二人がわたしの前で諳んじているお声が今も耳の底に聴こえるような気がするのです。



[露草の栞・完]

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露草の栞 朝吹 @asabuki

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