露草の栞 後篇(上)


 鈴白子爵家に上がって数か月経ち、わたしは十九歳を迎えておりました。二十二、三で嫁に行くものが多かった時代です。嫁ぎ遅れというほどではありませんが、年齢を云えば結婚について訊かれるような頃でした。

 教員免許資格試験の勉強は続けておりましたが、女学校の付添室でみかけるような宮家の女官や、旧藩華族の屋敷に居る女中のように既婚未婚とわず主家に尽くして生涯を終える女も大勢かいま見えるこの環境におりますと、何も教員資格を取って営々とせずとも、このまま歳を重ねて曄子さまの嫁ぎ先に附いて行き、ばあやと呼ばれて曄子さまのお子さまお孫さまのお世話をしながら過ごしていくのも悪くない成り行きのように想われて、この先の進退を漠然と迷っておりました。さらには突然ふりかかってきた縁組に対して、お断わりもまだ出来るということが余計にわたしの頭を悩ませるのです。


 津守垣さまは外務省のお仕事の帰りにひょいと鈴白家に立ち寄られてはわたしを口説いておりました。

「気持ちが迷うことは分かるが、ここは勢いだよ。どう」

「次兄も、もし長兄が生きていたら賛成するだろうと手紙で云っております」

「ほらほら」

「鈴白の奥様はまだ療養中でご不在ですし、曄子さまのお傍にいたのです」

「病人に付き合っていたらきりがない。曄子さんの卒業までは鈴白にいるといい」

「母と弟妹への仕送りが……」

「月々幾ら送っているの。率直に打ち明けてさあ早く。ああそう。あのね珠真ちゃん、女が尋常小学校の先生になっても給金はしれたものだ。君だっていつ病気になって倒れるかもしれない。君の弟は陸士か海兵に行って士官になる道もある。妹は女学校まで出て嫁に行けばいい。片桐にも事情は話してあるのだ。都合のよいことに彼にはもう両親もなく養うべき親族も郷里にいない。教えてくれた金銭を君の母上に送ることになんの難色もしめさないよ」

「片桐さまがそれではお気の毒です」

「なにを莫迦な。珠真ちゃんのような人が嫁にきてくれてありがとうと、あいつの方から頭を下げて頼むくらいのことだ」

 外国生活を送った方ならではの能率のよさでぱぱっと仲人の津守垣さまに押し込まれてしまうと、二の句が継げないのです。実のところ鶴さまもこの調子で有無を云わせず津守垣さまに結婚を押し切られたのが真相なのではないでしょうか。

 

 そんな時です。わたしの心を決めることになる出来事がおこったのは。

 入道雲が白の色もまばゆく空に大きくある頃でした。若さまの晴忠さまが、「入るよ」とわたしの室に来たのです。

 そのことをわたしは誰にも話しませんでしたし、これからも話すことはないでしょう。

 室に踏み入るなり晴忠さまは「ぼくの方の婚約は破棄する。父上に頼んで結婚しよう」と縁談がもちあがっているわたしを抱きすくめてきて、そう口走られたのです。わたしは文机の上にあった丸亀団扇で蚊でも払うようにして晴忠さまを払いのけました。

 これでもうこの家には居られないと残念に想いながら、暇乞いの手紙を書く前に手荷物を早速まとめておりますと、諦められぬのか晴忠さまが戻ってきました。荷造りしているわたしの様子に晴忠さまは慌てて、「悪かったッ」と叱られた書生さんのように謝るものですから、次はありませんとだけ伝えて、許して差し上げたのです。

 男の人は拒絶されるその寸前まで、なぜか女性がよろこんで男性の申し出を受けるとばかり想いこんでおられます。何故なのか、ほんとうに分かりません。

 胸の奥でかき乱れたものを見透かされまいと、動揺しながらわたしは触れられた頬を手でぬぐいました。

 その夜は両国の川開きでした。高台にあるお屋敷の庭から遠くの花火をみんなで眺めることになっていました。

 お手伝いをするために御膳所をのぞくと、勝手口から届けられた西瓜が大きな盥で冷やされております。忙しそうに使用人を差配している老女中が、「それでは珠真さん、そこにある蚊やりを全て庭に出しておいて下さい」とわたしに頼みました。

 はい、と応えて蚊やりを持って庭に出ました。そして日本庭の南天の低木と青桐の間の蔭に隠れて少しの間、先ほどのことで波打っている胸のうちを整理しました。

 堪えても堪えても、ねがってもねがっても、すべての少女たちの祈りと同じように、それは叶うことはないのです。

 蝉がなき、ゆらぐような熱を放つ夕空には蝙蝠が飛び交っておりました。お庭は金色の池の底のように照り映え、お花畠では水を打たれた夏の花が暑さにしおれながらも水中花のように葉をのばしています。ふしぎと静かで、早出の月が薄い色で空に昇り、落ちかかる蝉の声すらつま先から吸い込まれて地中に消えていくように想いました。海のある方角にみえる入道雲が珊瑚色に染まりながら、揚羽蝶とともに夕方の町を渡り遠ざかっていく。

 足許の玉砂利のすべすべした白い石。身を屈めて触れてみると、白い石はまるで女の肌のようにぬるまって、昼間の暑さや先刻わたしの頬を掠めた男の人の唇をわたしの掌に伝えているのです。

 襖には箒でつっかえ棒をしておいたのですが、やはり性懲りもなく晴忠さまは深夜に夜這いにいらして、外から襖を叩いて懇願されました。花火を観るあいだも離れたところにいるようにしていたのですが、晴忠さまの方からもわたしにお近づきではなかったというのに。

「珠真。開けてくれないか」

 蒲団の上で頭から座布団をかぶって情けない気持ちでおりましたが、いつまで待っても去る様子がないので、根負けして起き上がると、箒を外して内側から襖を開いてやりました。

「わたしがいけないのでしょうか」

 廊下の豆電球の灯りを頼りに睨むようにして晴忠さまに訊きました。

「ぼくがいけない」晴忠さまは応えました。

 片側に流して結わえている髪と浴衣という姿で男の人の前にいるのでしたが、覚悟はもうできておりました。晴忠さまはわたしを室に入れて襖を閉ざしました。その腕に身を傾けてわたしは告げました。

「一度かぎりです」

 こんな話はどこのお屋敷でもありました。老いた殿様が女中にお手をつけることも、令嬢が書生や運転手と駈け落ちすることも、その家の息子と侍女が恋仲になることも、山のようにあったことです。世間を騒がせる醜聞になった際にはお家おとり潰しと同じように華族から除籍処分されることもありました。

 珠真。

 どうせならもう少し涼しくなってからにして欲しかったと想ったことを憶えています。とても暑かった。

 大きな邸宅のそこだけが夜と切り離されて、日光に温まった浅瀬の海の中に身体が浸かっているような心地がしました。真っ暗で本当に晴忠さまかどうか分かりませんとお顔に触れてわたしが云いますと、「こんな時にもお前はしょうがないね」と晴忠さまは少し笑われて、わたしの浴衣をずらしていきました。

 わたしは身を任せておりました。

 ほどけた腰紐を咬んで声を立てないようにしていましたが、堪えきれなくなって口から放し、はなれた衣の端を求めてさまよう内に、唇をしまいには晴忠さまの肩や胸に押し付けました。

 あつい。

 数時間前に見た花火が脳裏で大輪の花を咲かせては、垂れ下がって深いところに消えていく。庭のあちこちにおいていた蚊遣火の小さな灯が星のように映るのを暗闇の端に想い浮かべながら、だんだん辛くなってきて膝や手を動かして晴忠さまに涙まじりに訴えました。晴忠さまはわたしを抱えて揺さぶり離してはくれませんでした。

 暑い、晴忠さま、あつい。

 わたしには分かっていたのです。このお屋敷で顔を合わせているうちに、階段の上と下から晴忠さまとすれ違う時に、「お忘れものです」追いかけて届けた傘を渡した時に、他の人との間には覚えたこともない胸苦しさを分かち合っていることを互いに知りながら眼をそらして押し殺していれば、いずれはこのようになることを。


 晴忠さまが浴衣を広げて二人の身体の上にかけました。団扇でわたしを扇いでくれながら一晩中、晴忠さまは何かを考えておられました。夜明けに少しだけ雨が降りました。互いの顔がうすく見え、涼しい風に窓の外に蔓をのばす朝顔が水を落としてつぼみの先を緩めていく。どちらからともなく身を寄せた後で、わたしは晴忠さまの手から団扇を取り上げ、想い切ったことを云い出される前にお顔を近くから仰いで告げました。許嫁とご結婚なさって下さい。

 

 その日から数日後、わたしは百合さまと津守垣さま夫妻の持ち込まれた縁談に承諾の返事をしたのでした。けじめというか、わたしなりの決別のつもりでした。このまま子爵家には居られない。許嫁のいらっしゃる晴忠さまの妻になることなど考えられない。溢れそうな胸のうちを一夜の内で堰き止めて留めておくだけならば、鈴白家のみなさんも、お相手の方も、誰ひとり傷つくことはない。

 多くの方に迷惑をかけ、分限というものを踏み外して生きることを望むほどの情熱は、わたしにはなかったのです。

 

 曄子さまは椅子から投げ出したはだしの足を足首のところで組んで、「珠真もわたしの許から去るのね」今更のように怒った口調で云いました。西洋人のようにまっすぐな脚をしておられるので、お行儀を悪くされていても全くいやらしくないのです。

 女学校の級友とともにお招きをうけた曄子さまが着物をきて宮家に遊びに行かれた時のことをぼんやりと想い出しておりました。曄子さまのことですから歩くことを想定されていない処に入っていたのでしょうが、鼻緒に庭の草が引っかかったのを身をかがめて取ろうとしたところ、「およしあそばして」侍女がすごい勢いでとんできて、「取ってくれたのよ。あそこでは草一本のことでも自分ではたらいてはいけないの。愕いた」という土産話。またそれを耳にされた旧大藩の侯爵家のご令嬢が、「下のことは下の家来がやるのです。わたしも学校にあがった頃は、戸は家来が開けてくれるのだろう、蛇口はひねってくれるのだろうと想って、困ったままずっと立って待っていたの」と笑われるのを、へええと聴いていた日々を想い起しておりました。

「夫に失望されて、すぐに離縁されるかもしれません」

 想い切ることが出来なくて辛いからと、わたしよりも憔悴されてしまった晴忠さまは学舎と呼ばれていた旧藩伝統の男子だけが住まう屋敷の外のすまいに御移りになられてしまっておりました。

「あちらがお望みのような婦女子の鑑ではないかもしれません」

 わたしは自嘲して云いましたが、曄子さまはきっぱりと否定なさいました。

「それはないわ。珠真を離縁する男なんかいないわ。承諾なさい、片桐のところにお嫁に行きなさい、願ってもない『ご縁談』ですこと。わたし渡米するわ」

 厭味を云わないで下さいと云おうとしていたわたしは、曄子さまの最後の言葉に顔を上げました。

「えっ」

「えっ。ではなくて。わたし渡米すると云ったの」

「渡米」

「声が裏返っているわよ珠真。叔父さまがあちらにいるのです。わたしも幼い頃は外国にいたのだから、いつでも行けるわ」

「今までのお見合い話もすべて蹴散らされて、それでは、ご結婚が遠くなります」

「お父さまはそんなことおっしゃらないわ。誰も彼もが結婚結婚とうるさいっ」

 それから四か月もあったでしょうか。女学校を辞めると本当に曄子さまは渡米を決めておしまいになり、あちらで外交大使をなされている子爵さまの弟君を頼って旅立たれたのです。


 華族議員として貴族院に出席されるご用事のあった鈴白子爵さまのかわりに横浜の港までお見送りに行きました。お外の国と親しまれた方々にとっては渡航など別段大げさなことではないのか、親子の情の中身も平民とは違うのか、あれほどに溺愛されている曄子さまを単身であっさり外国に渡らせる子爵さまのことも無げなご決断にも本当に愕かされました。

 東洋汽船のデッキから曄子さまが日本とお別れをされておられます。白い洋装に身を包んだ曄子さまは断髪になさって、いっそう子どものようにも見え、顔料で塗り分けた紅葉の森に今から飛び立つ鳩のようでした。夏の名残りの濃さを遺した色とりどりの錦絵の、光の中に曄子さまが去っていく。

 船が汽笛を鳴らして波止場から離れていきます。わたしは手を振って呼びました。 曄子さま。

 曄子さまはわたしに向かって口に手を添えて何か云っておられましたが、まるで聴こえません。笑顔でしたので、その笑顔だけを憶えております。

 猫のようにすばしっこくて小首を傾ける癖のある三つ編みの少女が、眩しい夏が秋に変わるようにわたしの青春ごと遠くへ行ってしまう。妹と生き別れになるような想いでわたしは手を振りました。

 船がすっかり見えなくなってしまい、「赤い鳥」に載っていた絵のとおりに煙突の煙が水平線に消えていきました。

 港の入り口に見たことのある車が停まっておりました。青磁色のベルリエの前には鶴さまが立っていて、わたしを待っておられました。

 外交官の妻らしく洋装で、髪型を耳隠しにされて釣鐘帽子をかぶった鶴さまは、洋画に描かれている貴婦人のようでした。

「最初にお逢いした時から、なんとなくお懐かしい気持ちでしたの」

 鶴さまはわたしの顔を見ると眼をほそめられて、

「あの方の妹さんと知って、理由のあったことと分かりました」

 おっとりした鶴のような風情はそのままに、津守垣百合さまは思いがけないことを打ち明けて下さるのです。

「あなたのお兄さま」

 長兄が書生として住み込んでいたお屋敷は百合さまのお母さまのご実家で、それがご縁で医学生の兄は時々、百合さまの家庭教師をしていたのだそうです。

「きっとあの方があなたのことを、わたしに頼まれたのね。だからわたしの前にあなたをお寄こしに」

 わたしの顔をみつめる鶴さまのお優しい眼を見ているうちに、わたし自身の身の上にあったことが甦ってきました。

「津守垣から欧米式に求婚された時、わたしは正直に打ち明けましたのよ。夫は動じることなく『かまいません』と即答したの。だから津守垣の許にお嫁に行くことに決めたのです」

 参観の時のようにお素直に、全てを包み隠さずお伝えになられたその時の百合さまの、想いを胸に沈めた穏やかなご風情が眼に浮かぶようでした。

「苗字が同じだったのに、わたしはうっかりしているものだから、まさかあの方の妹だなんて少しも想いもしなかったのです。お勉強をみてもらいました。分からないところが分かるようになると微笑まれるのです。わたしの方がよけいに好きでしたの。困らせてしまいました」

 ああ、兄のあの笑顔。若くして死んでしまった兄さん。次兄と弟と共に「少年倶楽部」の厚紙付録を組み立てて、横でみているわたしに笑いかけていた。あの兄をこの百合さまが好きでいて下さったのだ。兄に想いを寄せて下さり、兄はそれに応えたのだ。

 一度かぎりです。

「片桐さまとご婚礼をあげられると夫からきいて、嬉しいことでした。これからは姉妹のようになれますわね。どうぞよろしく」

 鶴さまは少女の日の秘め事ごと包み込むようにわたしの手を取られて、車の中に招き入れて下さいました。



》後篇(下)に続く

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