燦珠、港街へ発つ
第9回カクヨムコンテストにて、ライト文芸部門の特別賞をいただきました! 読者選考期間中の応援に心から御礼申し上げます。
記念として、また、第三部の予告編を兼ねて番外編を更新します。連載再開は秋ごろを予定しております。書籍化の続報と併せて、今しばらくお待ちいただけますように。
* * *
(隼瓊
神々しいとさえ思える眩さを前にすると、伏し拝みたくなるほどだ。寿命も延びているのではないかと思う。
とはいえ、戯子たちは眼福にあずかるためだけに集まっているのではない。この場は、次回の公演に向けた配役を発表するためのものなのだ。
隼瓊の、磨き上げた玉のような艶のある声が、涼やかに響く。
「
演目については、かねてから燦珠たちも予想していたものに相違なく、異論の余地もまったくない。戯子たちが頷くと、髪を飾る花や簪や巾がそこここで揺れて、華やかな色彩がさざ波を起こす。
(やっぱり、それしかないものね!)
曙港は、栄和の東方の沿岸に位置する港街。朝貢の使節が海を越えて来訪することを許された、数少ない都市のひとつでもある。
栄和の徳を慕って臣下の礼を取らんと訪れる彼らの労を手厚くねぎらってこそ、天下の中心に君臨する大国の威を示せるというもの。この度、秘華園は曙港を訪れる使節団の前で演じるように命じられた。朝貢国に下賜される封号や衣冠、絹や磁器や宝飾品と同格の扱いとも言える、たいそう名誉な役目なのだ。と、霜烈が言っていた。
《太監征海》は、時の皇帝の命を受けて、大船団を率いて諸国を巡った太監──宦官の
問題は、誰がどの役を演じるか、になるのだけれど──
「将軍役はこの私、
黄惇将軍は、華劇では
(ああ、早く見たい……!)
天妃は、航海する者を守護する海の女神。黄惇将軍の時代から変わらず、今も、漁師や船乗りの間では篤い信仰を集めている。華劇の筋書きでも、要所要所で将軍に助けを差し伸べる役どころだ。高貴な女神とあって、
「光栄です。頑張ります」
隼瓊との絡みも多い役に、本人も気合十分なのだろう。よく通る声を響かせた姸玉の頬は赤く染まっていた。若い娘役からの熱い眼差しを、にこりと笑んで受け流してから、隼瓊はさらにいくつかの配役を述べていく。
「
と、燦珠の視界にちらり、と輝きが閃いた気がした。
輝きの正体は、霜烈の寄こした流し目だ。ほかにも大勢の戯子がいる中で、あからさまに燦珠だけを見つめたりはしないけれど。彼の容貌はあまりに整って美しいから、控えめな笑みを一瞬向けられただけで雲間から陽光が射したかのような眩しさを感じるのだ。
(……もしかして!?)
金波公主は、天妃の眷属の仙女だ。公主とつくのは龍王の娘という説もあるからで、
正直言って、燦珠には合った役だと思うし、できるものならやってみたい。
市井の
燦珠が身を乗り出したのに気付いたのか、隼瓊が宥めるような苦笑を浮かべた。そしてすぐに告げてくれる。公主を演じる、戯子の名を。
「梨燦珠に」
「──っいやったあああぁああ!!」
燦珠が思わず上げた歓声は、大庁に響き渡った。隼瓊と霜烈と、それからその場の戯子全員の注目を浴びて、慌てて口を手で塞ぐ。
(す、すみません……)
何度も声を出すとかえって悪目立ちしてしまいそうだったから、燦珠は手を口にあてた格好のまま、身体を縮めることで謝意を表した。戯子たちが漏らす忍び笑いは、呆れだけでなく微笑ましさも入っている気がするから救われる。
隼瓊も、無作法は咎めず、なかったことにしてくれたようだった。冴えた輝きを放つ玉を思わせる声と眼差しが、集った戯子たちを撫でる。
「──衣装などの輸送は
曙港までは船での旅になること。船上で練習することもあるだろうけれど、安全のため、霜烈や船員の指示に従うこと。公演は、使節の受け入れと朝貢品の管理を司る役所、
今後の予定の概略を伝えたところで、隼瓊はこう締めくくった。
「後事は
尊敬すべき老師からの命令に、戯子たちはいっせいに
* * *
ほかの娘たちに混ざって大庁を出ようとする燦珠の背を、耳慣れた友人たちの声が追いかけてくる。
「燦珠、抜擢おめでとう」
「燦珠の金波公主、見たかったなあ」
率直な祝福は、
「ありがとう。そうね。私も見て欲しかった……! こっちにいるうちに、あるていどは練習するんでしょうけど」
「衣装があるのとないのとでは、だいぶ違うものねえ」
先ほど隼瓊が呼んだ中に、喜燕と星晶の名は入っていなかった。
秘華園の戯子がすべて、曙港に発つわけではない。妃嬪の無聊を慰めるのも大事な役目だし、後宮しか知らない娘が長旅を不安に思うなら無理強いはしない、というのが隼瓊と霜烈の方針だった。
そのほか、星晶は
(人数が限られるから、私が大役をもらっても大丈夫だったんでしょうね)
金波公主の役に相応しい
海の物語を海の近くで演じるのは素敵なことだと思うのに不思議なこと──でも、燦珠にとってはこの上ない僥倖だった。
「評判が良かったら、別のところでもやったりしないのかしら。もっと近いところとかで」
「そうなると良いけど。華麟様もお供なさるような行幸で──ってことになれば、私も行けるんだけどね」
そうだ、遠征に行かない理由も色々だった。喜燕も星晶も、女主人と一緒なら知らない場所でも喜んで演じるだろう。貴妃が後宮を出るとしたら、確かに皇帝の行幸に同行する形になるのだろう。
(天子様が、それくらい秘華園を認めてくださったら良いなあ……!)
それには、霜烈の働きも大きく関わってくるのではないか、という気がする。
何しろ彼は、このたび市舶司太監なる役を拝命したというから。朝貢の品の交易に関わる不正や、沿岸を
(偉くなってしまうと大変なのね……)
思えば、曙港行きを初めて聞かされた時、霜烈の美貌は深い憂いに翳っていた。
『──秘華園育ちの娘たちは、長旅を恐れ厭うかもしれぬ。そなたは、一緒に来てくれるか? 黄惇将軍が征き、天妃が見守り金波公主が駆けた海だ。そなたは興味があるのではないかと思うのだが』
いっぽうで、彼が語り掛ける声は常にも増して耳に心地良く燦珠を酔わせ、涼やかなはずの眼差しにも熱がこもってもいた。その理由は、分かる気がする。
この大役を果たせば、先帝の御代以来、秘華園に纏わりつく汚名のいくらかを払拭できる。霜烈の表情の硬さは、緊張ゆえでもあったはず。栄和の威光を示す舞台を成功させつつ、新たに課された任務も全うしなければ、という。
『……その──』
燦珠の返事を待つ間、霜烈が不安げな気配を漂わせたのは──彼が思い描く舞台に、彼女の
『海を越えて集まるのは異国の商品だけでなく、歌も舞も芸も、新たな刺激が得られるであろう。食べ物も衣装の流行も、都とは違って──』
『もちろん、行きたいわ!』
地上に落ちた月のように美しく、しかも華劇に関しては恐ろしいほど目の肥えた人に望んでもらえるなんて、何という名誉、何という光栄だろう。感動に打ち震えたことで返事が遅れてしまったのを取り戻すべく、燦珠は食いつくような勢いで快諾した。
『
『そうか。良かった』
そうして、嬉しそうに微笑んだ霜烈の美しさは目が眩むばかりの輝かしさで。そんな笑顔を間近に見せてもらった以上、期待に応えるだけの演技を見せなければ、と燦珠は奮起したのだ。
──そういう経緯だから、練習場に向かう足取りもいつも以上に軽く、跳ねるよう。その浮かれようは傍目にも明らかなようで、星晶がおかしそうに笑う。
「燦珠、楽しそうだね」
「だって私、延康を出るのは初めてだもの。それも、芝居のために、だなんて! 隼瓊
弾む心を、抑えることができなくて──言い切ると同時に、燦珠は回りながら高く跳んだ。
花旦綺羅演戯 ~娘役者は後宮に舞う~ 悠井すみれ @Veilchen
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