第7話 六箇所目 厭離庵(えんりあん) 2017.11.13
小倉百人一首。鎌倉時代の歌人藤原定家が、息子のお嫁さんの父親にあたる宇都宮頼綱から別荘の襖に飾る色紙を書いてくれないかと頼まれた際、「やーだよ」と断っていたらあの百人一首は生まれていなかった。が、飛鳥時代から鎌倉時代初期に詠まれた選りすぐりの歌を百首選んで自らが色紙に書いて贈ってあげた。古今和歌集をはじめ、十種類にもなる勅撰和歌集を調べ上げて、その中から百首に絞り込んで色紙に書く。なんと壮大な仕事であろうか。定家は嵯峨野の小倉山ふもとにあった山荘で齢75歳にしてその一大事業を粛々と進めて行った。引き受けたのは息子愛からかもしれないと思う。頼綱を満足させられたら息子を大事にしてもらえるだろう。舅なのだから。それにしても、このアイデア、このこだわり、このねばり強さ。定家のどうせやるならとことんまでという徹底ぶり、やり出したら誰も止められないような熱中ぶりが目に浮かぶようだ。
この厭離庵は、定家の百人一首大事業が成された小倉山荘・時雨亭のあった場所の候補地である。候補地は他にもあり、近隣の二尊院、そして常寂光寺には時雨亭跡の石碑があるのだ。石碑で推測するよりも、この庵に座して床いっぱいに歌集や色紙や筆硯を散らし広げ、嬉々としている老人を思い浮かべる方がリアルでおもしろい。秋になると、まるで定家が散りばめた色紙のように、厭離庵の庭は散紅葉となる。
厭離庵はそのころ特別公開されるので、看板を見とめて入りたい。狭い入り口を入ったとたんに別世界へ招かれる。あまり有名にはなってほしくない寺院の一つだ。
私が行ったときは、定家爺さんではなく若くて静けさの漂う女性がぽつねんと座っていた。御朱印を書いてくださる方だった。お願いすると、さらさらと筆を御朱印帳にすべらせて和歌を書いてくださった。
来ぬ人を まつほの浦のゆうなぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ
定家は、百首の和歌にもちろん自分のこの歌も入れている。なぜこの歌を入れたのか、どのように百首を選んだのか、どういう編集意図があったのか?興味は尽きない。
かなで美しく書かれた和歌と五種類もの御朱印。こんなこだわりも定家から引き継がれているものなのかもしれないな、と思った。
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