夫の友人 Ⅱ

 友人夫妻と、友人の義弟の葬儀から一月の後。デミストフォロスは幾度となく訪れ、壁紙の模様すら脳裏に焼き付いた応接間で、金色の髪を結い上げた娘と向かい合っていた。

「本当に大変だった……いや、今も大変だろうねえ」

 喪服姿のリュシオーサは、労いの言葉にもそれらしい反応を返さなかった。彼女の面立ちの中で唯一母親から譲られた、ふっくらと可憐な唇を噛みしめただけで。

 帝都を賑わせている噂曰く、友人は妻と義弟の亡骸を発見した直後――ではなく、母と叔父の亡骸に縋りついて涙する息子と娘を指さした後、胸を抑えて倒れたのだという。つまり、フェオドリーはようやく悟ったのだろう。子供たちの、本当の父親が誰なのかを。奥方を明確に嘲り、見くびっていた友人にしてみれば、死に価する驚愕に違いなかった。

 アレスターシャとフェオドリーの死の原因は明白だが、アガフィムだけは不明だ。アレスターシャが弟を刺し殺したのか。それとも姉の死を目の当たりにして絶望したアガフィムが、自ら胸を貫いたのか。どちらなのかは永久に闇の中だろう。

 対外的にはアガフィムは、姉の死の報を聞いて焦って階段から落ち、頭を打って死亡したとして処理された。そうして埋葬されたのだが、縫い付けでもしない限り人の口を閉ざせはしない。という訳で、友人の家は今まさに嵐の真っ最中なのである。

 故人となった友人の三番目の姉は、アレスターシャとアガフィムの死にざまから、二人は生前密かに関係を持っていたに違いないと主張していた。イルキヤンとリュシオーサと生まれた赤子はおぞましい不義の子であり、フェオドリーの財産を継ぐ権利はないとも。

 アレスターシャを擁護し、両親と叔父を失ったきょうだいを助けようとしている者も、もちろんいる。その中心は、アレスターシャを崇拝していた使用人たちだ。彼らは、フェオドリーの姉は遺産目当てに、アレスターシャやアガフィムの尊厳を蹂躙していると憤慨しているという。それでなくとも、病んだ女のやっかみなど耳を貸すには値しないと。だがいかんせん立場が立場なので、主人の身内に立ち向かうのは難しいかもしれない。

 皇族の姫君も恋い焦がれているという美男子と、いずれ社交界の名花となるだろう美少女。麗しい兄妹に山ほど舞い込んでいた縁談は、いずれも先方から断りが言い渡されたのだとも聴いている。ガルデニシクの民は、階級に関わらず案外信心深い。禁断の罪の果実たる不義の子と縁づいて、神の怒りを買ってはと恐れているだろう。

 根拠のない噂に左右され官職を取り上げるほど、皇帝は耄碌していない。よって、イルキヤンは職と地位を失ってはいない。父の財産を取り上げられることもないだろう。まして、亡き友人の三番目の姉が主張するように、フェオドリーの遺産を故人の生存する姉やその子供たちで分配するなど。帝国の法が許さない。

 だがイルキヤンはまだ二十にもならぬ若輩者だ。彼だけの力でこの家を守り、維持するのは難しいだろう。赤子の弟を育てなくてはいけないのに。それにリュシオーサは、他の生徒の父兄からの抗議によって、女学校を退学にまで追い込まれたのだという。だからこその、この憔悴ぶりなのだろうか。

「……あなたは、私をおぞましいとは思われないのか?」

 目前の若く麗しい娘は打ちひしがれているが、だからと言って憐れみを覚えるほどデミストフォロスはできた人間ではない。

「どうしてそんなことを考えるんだい?」

「どうしてって……。あなたは父の――なんてあの人を呼ぶ権利は、私にはないのだろうが――友人だったのに」

 そしてそれは、彼女が友人の妻の裏切りの証だからという、義憤に駆られるがゆえでも断じてない。

 デミストフォロスは、この時を待っていたのだ。イルキヤンの誕生祝に訪れた際、もう亡い女性に抱かれた赤子の容姿と、姉と姉の子に向けるこれまたもう亡い男の眼差しに違和感を覚えてから、ずっと。真相が明らかになる日を。そうして全てが白日の下に晒された際、巻き起こるであろう騒動をしかと堪能するのを。

 アレスターシャはとても巧くやっていたから、無論証拠も確信もありはしない。だからこそ、どうしようもなく胸が躍った。

 言うなれば、己は何一つ損をしない骨牌遊びだ。そしてデミストフォロスは、見事賭けに勝ったのである。喜びこそすれ、どうしてリュシオーサに怒りをぶつけなどするだろう。むしろ、生まれてくれてありがとうと言いたかった。彼女の存在は、デミストフォロスの好奇心をいたく満足させてくれたから。

「君のような魅力的な娘とこうして親しく過ごせるのだから、喜びはすれども憤るなんてありえないさ」

 何らの意味も有さないと自覚しつつ、とっておきの笑顔を作る。

「……この際だから全て打ち明けてしまうが、母様の周りには、不審な死が多すぎるんだ。祖父に祖母、それに一番上の伯母上も。まだ辛うじて生きてはいるけれど残りの伯母上たちの事故の経緯もおかしい。“天使の奥方”なんて呼ばれていた母様じゃなければ、疑いの一つや二つは掛けられてもおかしくはないぐらいだ」

 哀れな娘の、悲嘆に曇らされていても貴石と紛う双眸は、どこか虚ろだった。

「私は覚えていないけれど、兄様の話によるとお祖母様は、私たちの父親について感づいていた節があったらしい。そしてその直後、容体が急変して亡くなった」

「急死してしまったのは、フェオドリーの一番上の姉君と同じだねえ。そういえばあの人、君たちの母親に色々煩く言ってたそうだよ」

 もてなしに差し出された茶菓子を頬張りつつ応えると、細い肩がびくりと震えた。

「お祖母様は長患いされていたのだから、寿命だったのかもしれない。でもお祖母様だけでなくお祖父様も伯母上も、それぞれ様子は違うけれど死に様がおかしいんだ。もっと言ってしまえば、母様が育てさせていた薬草のいずれかを、大量に摂取した場合に生じるという症状と、全く同じだったらしい。――薬も、過ぎれば毒になるからな」

 アレスターシャが死んだ後、庭師のイェーミャは少女に泣きついて、懇願したのだという。自分はもうあの一画の世話をするのはごめんだと。普通の植物だけを育てたいと。

「思えばイェーミャは、今までずっとオルカを人質に取られていたんだろうな。それで、何も言えなかった。……オルカは、母様を本当に慕っていたのに」

 全てを言い切った後、黒い裙を掴んだ手には、握って励ましたくなるほどの力が込められていた。真っ当な感性を有する人間ならばの話であるが。

 つまり、リュシオーサはこう言いたいのだろう。自分たちの母親は、弟と密通して子を成した。それだけでも恐ろしいのに、禁断の関係に感づいた、もしくは自分にとって邪魔な人間を次々と毒殺した悪魔なのだと。

「フェオドリーが発作を起こしたのも、君たちの母親が密かに毒を盛っていたから……だったりするかもしれないねえ。君は、どう思うかい?」

 真実なのだろう推測は、潔癖なきらいがある少女には、到底受け入れられるものではあるまい。

「私は、母様のことが何一つ理解できない! ――私たちのためだったのかもしれないけれど、でもそしたら、不義の子供なんて最初っから産まなければ良かったじゃないか!」

 少女がとうとう突っ伏して初めて、デミストフォロスは彼女にいささかながら憐憫の情を抱いた。

「この焼き菓子、美味しいよ。君、少し痩せたようだから、私の分も食べたらいい」

 それでも少女は、燃える瞳でデミストフォロスをねめつけてきた。

「あなたは、本当に変わらないな。私は、昔からずっとあなたのことが嫌いだった!」

 藍色の宝玉を煌めかせる熱情は、ともすれば我が身すら灰にしかねない危ういもの。この娘が、間違いなく父母から受け継いだ、魔性の輝きだった。この瞳に見据えられた瞬間、彼女が請えば己の心臓さえ迷いなく差し出す男もいるだろう。

「それはどうも。そういえばところで、あの短剣はどうしてるんだい?」

 しかしデミストフォロスは、彼女に嫌われたところで痛くも痒くもない。大体、今しがた痛罵されたばかりだ。

「君の父上・・の胸に刺さっていたという、ますます曰くを増したあれだよ」

 なので、わざと満面の笑みを浮かべると、長い睫毛に囲まれた青い炎はますます燃え立った。

「……捨てる訳にもいかないから、私が持っている」

 娘はその整った顔を歪めつつも、真っ直ぐにデミストフォロスに向かい合う。

 この美貌とこの意思の強さをもってすれば、リュシオーサは案外似合いの相手を見つけ、幸福になれるのかもしれない。今回の騒動のほとぼりが冷めれば、の仮定ではあるが。しかしそれでは、面白くなかった。そうしてデミストフォロスは、この娘で更に愉しむ術を思いついたのである。

「リュシオーサ」

 跪き、細い手を取らんとしたものの、反射的に跳ね除けられてしまった。だが、それがどうしたのだというのだろう。

「私と結婚してくれないか」

「トチ狂ったのか」

 威勢のよい拒絶に、男はその面を緩ませた。

「どうしてだい? 君は評判の美人で、しかもエレイクの末裔という誉れ高い生まれなのに」

「だから、あなたも分かっているだろう! 私は不義の娘で、しかも、」

「それは単なる推測だ。証拠もない。公的には、君は私の友人の娘だ」

 リュシオーサがここで、あなたの言う通りにするからどうか助けてくれと泣きつく娘だったら。さすればデミストフォロスは、彼女への興味を忽ち失っていただろう。そうして、街娼にまで身を落とそうが、知らぬ顔を決め込んだはずだ。

「だが、分かっている。本当の父親が誰なのかぐらい」

「だから、なお一層面白い。それに、君たちにとっても悪い話ではないだろう? フェオドリーの友人であった私が、遺児を救うために君と結婚するのだから。そうしたら噂好きの雀たちも、君たちはやっぱりフェオドリーの子だったのだろうと認識を改めるさ」

 意識して柔らかく囁くと、目の前の娘は乾いた笑いを発した。

「……好きにすればいい。どうせ、なにもかも茶番だ」

「そうだ。これは私の暇潰しの演劇だ」

 そもそも、フェオドリーと同い年のデミストフォロスはうら若き令嬢の初婚の相手としては、決して望ましい男ではない。

 勤続年数が長いため外交官の中では相応の地位に登ってはいる。しかし次男なので、父の爵位を継ぐ見込みはない。財産も亡き友人には劣るから、リュシオーサに望む生活をさせてやれるかは怪しいところだ。

 それに何よりデミストフォロスは、この哀れな娘に静かな生活をさせるつもりなど毛頭なかった。出来る限り避けたいだろう社交の場にも、引っ張り出すつもりである。年甲斐もなく若く美しい妻を娶り舞い上がった、好色男を装って。

 リュシオーサを男の血ではなく才気や精気を啜る類の、彼女の母親とはまた違う妖魔に育ててみても良いだろう。そうして自分は、彼女を主役とした悲喜劇を、特等席で観賞するのである。しかし、できる限り彼女を慈しもうではないか。それが夫たる者の務めなのだから。

 もしもリュシオーサと共に過ごす中で、己の裡に彼女への愛が芽生えたら。それはそれで、楽しめるだろう。

「だがいつか、君はあの短剣で私を刺せばいい。その時、私は死ぬのだろうか? 私たちは、私が君に刺されたら死ぬほどの関係を築けるだろうか。それを今から確かめようじゃないか」

「……下種が」

 それは、了承の返事だった。

 いずれ、彼女の兄に正式に婚約を懇願しよう。そして、この指に似合う指輪も用意しよう。

 男は悪戯っぽく片目を瞑りながら、今度こそ白く嫋やかな手を取り、指先にくちづけた。

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奥方と仮面 田所米子 @kome_yoneko

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