弟 Ⅱ
寄宿学校での日々は、食事も衣服も、村にいた頃よりも格段に恵まれていた。にも関わらずアガフィムの楽しみといえば、定期的に届けられる姉の手紙だけだった。
本当は賤しい男の子であるにも関わらず、エレイクの末裔として扱われる。表現する術のない重苦しさと、姉が他の男の妻になってしまったという現実。二つの苦しみから逃避できるのは、勉学に打ち込んでいる間だけ。
他の男の横で花嫁衣裳を纏う姉の姿など、視界に入れたら嫉妬で気が狂ってしまいかねない。だからアガフィムは姉の結婚式にさえ、仮病を使って出席しなかった。
教師たちは、アガフィムの努力を遅れを取り戻そうとしているためだと解したらしい。彼らはいずれも、協力を惜しまなかった。その裏には姉の嫁ぎ先に取り入りたいという思惑があったのかもしれない。けれど、アガフィムには関係の無いことだ。自分の顔を注視して、何やら囁き合う者たちも含めて、全て。
――早く卒業して、姉さんの近くで暮らせるようになりたい。
アガフィムの世界は姉のおかげで広がった。けれども、アガフィムの世界の中心は、心に住まう人は、アレスターシャただ独り。
だから、姉の嫁ぎ先から姉が体調を崩し、自分に会いたがっていると迎えを寄こされた時は、不安でたまらなかった。
「心配させてしまったわね。でも、もう大丈夫よ」
結果的に姉の体調はさして重篤ではなかった。けれど姉が自分に心配をかけまいと、秘密にしていた事態が判明した。姉の夫は、外に女を囲っている。姉は本来、あの男にとっては結婚どころか、触れるのさえ許されない身の上なのに。姉というものがありながら、他の女に現を抜かしているなど。
「それより、あなたはどうだった? お勉強には付いていけそう?」
姉の様子が消え入りそうに儚いからこそ、腹が立って仕方がなかった。本当の姉はこんな、不適な土地に間違って移植された花と紛う人間ではないのに。
けれども姉はこの屋敷で、何不自由なく暮らしている。現在のアガフィムには決して与えられない環境を、姉に齎してくれたのは確かに嫁ぎ先なのだ。
ここにいれば、姉は少なくとも飢え死にはしない。だから、真に姉のためを想うならば、普通の姉弟に戻るべきだったかもしれない。
「アガフィム」
しかし細やかな諦観は、燃え立つ瞳によって焼き尽くされてしまって。あ、と息を呑んだ時には既に、心地良い匂いがする寝台の中に引きこまれていた。アガフィムを捉えて離さない双眸は、傲慢なほど煌めいている。
「わたくしはあなたのことが大好きよ」
あの晩よりもずっと。鮮やかになまめかしく微笑んだ姉の身体は、村にいた頃よりも丸みを帯び、一層魅力的になっていて。その透き通る柔肌に、アガフィムは溺れた。姉も、適当な口実を拵えて、毎晩アガフィムの許に訪れてくれた。
寄宿学校へ戻る前日の晩。声を漏らしてはなるまいと、自ら口に布を詰めた姉を責め立てた自分は、端からみたら暴漢そのものだったろう。事後の身体を清めつつそう呟くと、姉は小鳥が囀ずるように笑った。
数か月後、アガフィムは姉の懐妊を手紙で知らされた。その時は、とうとう姉は自分だけの者でなくなるのだと悲嘆と嫉妬に沈んだ。けれど、やがて顔を見に行った
「あなたに似ていて可愛いでしょう? こんなに愛らしい子を授かれて、お義母様たちも、フェオドリー様も、それはそれは喜んでくださっているのよ」
姉はアガフィムに何も言わない。ただ、少女のごとく無垢で透明な笑みを浮かべるだけ。
とにもかくにも、年に二回の休暇の際の楽しみが一つ増えた。イルキヤンと名付けられた赤子は、密かな懸念を吹き飛ばしてすくすくと成長し、アガフィムにもよく懐いてくれた。
「ははうえ。ぼく、いもうとかおとうとがほしい」
息子が強請ったからだろうか。寄宿学校を無事卒業し、文官として出仕しだしたアガフィムの許へ、姉は口実を設けては頻繁に通ってきた。
密会の現場はアガフィムの家だから、声を抑える必要はない。子を産んで、ますます柔らかくなった姉の肉体を貪っていると、時は一瞬で過ぎてゆく。
夜の短さを惜しんでいるうちにリュシオーサが生まれた。姉はやはり何も言わない。ただ、身体を重ねるだけで。それがアガフィムの想いを受け入れてくれているからなのか。あるいは外に女を囲う義兄への、最悪な当てつけなのかも判然としない。
それに、姉は優しいから案外あんな男でも愛しているかもしれなかった。自分との関係は、憐れみゆえかもしれない。
――もしかして、あいつともこんなことしてるの?
身体を重ねている最中に、醜い嫉妬をぶつけたこともある。
「まさか。あなたにだけに、決まっているでしょう?」
するとアガフィムの上になった姉は、己の愚かしさを笑い飛ばしてくれた。
「おばかさんねえ。まさかあんな、つまらない小物の成金をわたくしが愛するとでも?」
「いや、それは違うけど、」
「あの男、財布としては理想的なのだけれどね。でも、していてもつまらないの。欠伸が出そうなぐらいよ。下手というか、自分は上手い、って己惚れている感じがどうしても鼻に付いてねえ」
――でもあなたとしていると、いつも満たされるの。あなたがいるから、わたくしは頑張れるのよ。
続く言葉は甘く蕩けてしまったため、半ば以上形になっていなかった。
それでもアガフィムは、姉と肌を合わせている最中すら、いつか姉を誰かに奪われるという恐怖から逃れられなった。
恐れから解放されたのは、子供たちが随分と大きくなってから。義兄の愛人だという、名前すら覚えていない、歌劇場の女優。何を考えたのか、アガフィムに色仕掛けを仕掛け、挙句姉に真っ赤な嘘を拭きこまんとした愚かな女。彼女は、細やかな事件からしばらくして、集合住宅の一画で首を括ったのだという。
自害する直前の落魄ぶりとともに、宮廷の上司に、哀れな最後について教えられた際すらも、さして興味を抱けなかった。あんな頭空っぽの馬鹿女がいなくなったところで、惜しむ人間がいるのだろうか。
「まあ、そうだったの」
けれども、姉に何とはなしに告げると、姉は二人の子を持つというのに愛らしい瞳を悪戯っぽく細めた。
「客の持ち物を盗むとか、悪い病気を持っているとか、大げさな噂を流した甲斐があったわ。でも、結構早かったのね。わたくしとしては、もっと苦しんで、追い詰められる様が見たかったのだけれど」
――それこそ、お義母様やお義父様みたいにね。
春の陽光に煌めく小川のせせらぎを連想させる声が、歌うように紡がれる。薄紅の、これまた実年齢を窺わせぬ可憐さを醸し出す唇の端は吊り上がり、美しい目は妖しく煌めいた。
「特にお義母様。あの方には、最期の時にイルキヤン達の父親が誰なのか教えてあげたのだけれど、その瞬間のあの老婆の顔。あなたに見せてあげられなかったのが残念だわ」
「あの人には、秋水仙だったっけ? 姉さんは、本当に凄いよね」
故郷の村を彩っていた花が懐かしいと懇願し、さして好んでもいない草花を婚家の庭に植えさせた姉の慧眼には、いつも感心させられる。あの植物は、ほんの僅かでも摂取すれば、絶命に至ることもあるのだ。それも、長い苦しみを伴って。
「あら、どうも。でもそれもこれも全部、あなたとあの子たちのためなのよ? あなたたちがいなかったら、きっと一年も我慢できなかったわ」
姉が自分だけに見せてくれる笑みが、アガフィムは何よりも好きだった。
「あの売女も、あの男とよろしくやるぐらいなら、全然構わなかったのだけれどね。ああいう女のおかげで、わたくしもあなたと過ごす時間が取れるんだし、お礼の品を差し上げたいぐらいよ。でも、あなたにちょっかいを出そうとしたのだけは見過ごせないわ」
しかし今宵の姉の双眸は、常よりも一層燃え立っていた。
「まあ、わたくしの物に手を出したらどうなるか、身をもって知ってもらったということね」
始めて目の当たりにした姉の嫉妬は、どんな酒よりも芳醇だった。もう顔も忘れてしまった売女に、感謝の念すらこみ上げてくるほどに。
清楚で可憐な野薔薇はその芳香で人々を誘い、その葉の影にどんな鋭い棘を隠していたとしても、手折らんとする欲望を芽生えさせる。
たまらず細い手首を掴み、これまた華奢な身体を引き寄せる。組み伏せた肢体は甘く潤んでいた。しかし、その晩交わした愛が、姉の内側で結晶となるなど、流石に予想していなかった。
アガフィムとて、子供を可愛いと感じる心はある。だからこそ、義兄のそれとは比較にならぬ程度とはいえ、蓄えた財産は、いずれイルキヤンとリュシオーサに分け与えるつもりだった。義兄にも許可を取って、既に遺言状も用意している。
義兄はアガフィムの行動を、実父の賤しい血を断ち、エレイクの末裔であるとの
姉は若く見える方だが年が年だから、心配でたまらなかった。そうして、その不安は的中した。三番目の子供の出産で、あまりにも多くの血潮を失った姉は、明日を迎えられるかも定かではない身となったのである。
生まれた子は少しも悪くない。アガフィムは、姉にも似たところのある赤子が、一目で愛しくなった。けれど、自分が考え無しに欲望を姉にぶつけなければという後悔は、一呼吸ごとに大きくなる。
「姉さん。……ごめん」
姉は常々、イルキヤンが妻を娶り子を成し、リュシオーサが立派な殿方と結ばれるのを見届けたいと零していた。でもそんな細やかな夢さえ、アガフィムが奪ってしまったのである。
「いいのよ」
視界は涙でぼやけているというのに、姉の笑みはやはり神々しかった。
「愛しい人の子供を三人も産むことができて、幸せな人生だったわ。……やるべきことも、大体は済ませられたし」
姉の要望で二人きりにされても、慈愛の笑みはいささかも揺らがない。
「ねえ、あの短剣を持ってきてくれないかしら?」
掠れた懇願の通りにすると、蒼ざめた唇はふっと安堵の吐息を漏らした。
「そして、鞘から抜いてちょうだい」
いつか、アガフィムと共に居た姉にこの一振りを押し付けた老婆は、これには呪いがかかっていると
不気味な伝承に付きまとわれている上、さして美しくもない。拵えられた当初はともかく、時の流れによって切れ味も鈍らされただろうがらくたを、姉が側に置き続けたのはなぜなのか。
「……あの行商人が、後でこっそりわたくしだけに教えてくれたのよ。剣を納得させられれば、二人は永久に結ばれる、って」
男の長年の細やかな疑念は、痛みと共に晴れた。
「愛しているわ、アガフィム。わたくしは、あなたとあの世でも一緒にいたいの」
どこにこんな力が残っていたのだろう。眉を顰めつつ身を起こした姉は、握りしめた短剣を、アガフィムの胸に突き刺したのである。
持ち主である女が心から愛した男のみを殺すという刃が、脈打つ心臓を貫く。そうしてアガフィムは歓喜の最中で息絶えた。姉と共に。
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