弟 Ⅰ

 母が賤しい男と密通して身籠った、にも母にもちっとも似ていないアガフィムは、父に疎まれて育った。家に置いて貰っていただけ、感謝すべきなのではあるが。

 自業自得とはいえ母も心痛のため、アガフィムが生まれてすぐ息を引き取った。そんな少年にとっては、父親違いの姉こそが世界の全てだった。アガフィムは、姉アレスターシャを崇拝していたのだ。不義密通の罪を犯した母に顔立ちは似通っているものの、聡明で勇敢な、自分にはない美質を備えた姉を。

 アガフィムの本当の父親は、村々を回って芸をして、金を集める遊芸人だったという。実父から汚らしい血を継いだアガフィムとは違って、姉のアレスターシャは正真正銘のエレイクの末裔。世が世なら姫君として、絹と毛皮を纏い、贅を凝らした料理に舌鼓を打ち、何不自由なく暮らしていたはずなのだ。

 しかし実際の姉は村娘のお古を着て、父の財産であるはずの小作人の家々を、食べ物を恵んでもらうために回っていた。アガフィムのために。かつてこの大陸東部のほぼ全てを掌中に収めた覇者の血をも継ぐ姉が。

 成長するたび、賤しい男の面影が色濃くなっていくアガフィムを、父はますます疎んじるようになった。そうしてついに、蕪の一切れすら貰えなくなったのが十歳の冬のこと。

 酒に酔った父に殴打され、雪が吹き荒ぶ外に放り出された晩は、流石に死を覚悟した。

 ――お前のようなガキの面はもう見たくない。どっかに行っちまえ。

 父の言葉通りに、けれどもどこを目指しているかも定かでないまま、感覚がなくなりつつある足を動かす。

 空きっ腹も相まって遠のきつつある意識は、それでも大好きな姉の声を拾い上げた。

「アガフィム!」

「……姉さん?」

 着の身着のままで駆けてきた姉に抱きしめられた際は、喜びと同時に申し訳なさを覚えた。自分さえいなければ姉は、父と共に家の中にいられたはずなのだ。いや、アガフィムが姉から奪ったのはそれだけではない。

 母の裏切りが明らかになる前の父は、血気にはやり過ぎるきらいがあるものの、誠実で愛情深い領主だったのだという。事実父は間違いなく自分の子である姉は、非常に可愛がっていた。姉の髪や瞳の色は、父譲りなのだ。

 父は、アガフィムを庇って飛び出してきたアレスターシャを、意図せず傷つけてしまうと、いつも泣き出しそうな顔をする。そうして部屋に閉じこもり、痛みをやり過ごすため、ますます酒に溺れるのだ。母も、父の不在の折に寂しさという魔物と賤しい男の甘言に唆され、夫を裏切ってしまった罪を、死の床で悔やんでいたのだという。

 母が亡くなったのは出産のためではなく、不義の子を産んでしまったという衝撃に耐えられなかったから。と、農婦の誰かが言っていた。アガフィムに気づくと罰が悪そうに唇を噛みしめた彼女の面立ちはもう朧だが、それだけは覚えている。つまりアガフィムさえ生まれなければ、姉は裕福とは言えないながらも両親の愛情に包まれて、幸せに暮らせたはずなのだ。

「……姉さん」

「なあに?」

 僕なんて、生まれてこない方が良かったよね。

 物心ついた頃には既に確証に変じつつあった疑念を吐き出す。すると繋いだ手に込められた力はますます強くなった。

「そんなこと言わないで。あなたはわたくしの大切な弟なのよ」

 姉の囁きは、はっきりと聞こえた。ごうごうと唸る強風の最中だというのに。

 領主の役目すら放棄しつつある父に代わり、実質的な村の主の役割を担いつつある村長。頼れる大人の家にまで辿り着いた瞬間は、心底ほっとした。これで、自分はともかく姉を凍死させずに済む。

「アレスターシャ様!」

 子沢山の村長の妻は、我が子と同じ年頃の姉とアガフィムの肩に積もった雪に、悲鳴を上げた。

「吹雪が止むまででいいの。だからどうか、ここに泊めてもらえないかしら?」

 姉が事情を説明すると、お人よしの村長夫婦は、涙を流して迎え入れてくれた。肉は入っていなかったけれど、温かな汁物と黒麺麭の美味しさは、いつまでも忘れられないだろう。

「どうか、無理はなさらないで。ずっとここにいらしてくださってもいいんですよ?」

 濡れた服を着替える際。アガフィムの身体に散らばる痣に、村長の妻はまたしても目を潤ませた。しかし、彼女の言葉に甘えるわけにはいかない。

 村長たちもまた、天候次第ではいつ一家全員飢え死にするかという不安と戦いつつ、日々を過ごしている。だから、農作業もろくにできない子供二人を養う余裕などありはしない。姉もまた彼らの事情は痛いほど理解していただろう。

「ありがとう。あなたたちのおかげで命拾いしたわ」

 嵐が終わると、姉と姉に手を引かれたアガフィムは、父が悲嘆にくれているだろう屋敷に戻った。貧しさゆえ薪さえろくに購えなくなった屋敷の寒さは、外よりは多少ましだという程度。それでもアガフィムが風邪一つ引かないでいられたのは、姉といつも身を寄せ合っていたからだった。もちろん、眠る際も。

 春になり雪が融けると、同じ年頃の少年たちに遊びに誘われた。それまで父の怒りを買うのを恐れて、アガフィムを遠巻きにするばかりだったのに。

 怪訝に思いはしたが、アガフィムは彼らの提案を断れるような立場にはいない。自分の本当の父は、農民にさえ蔑まれる旅芸人なのだから。

 彼らの優しさの理由を知ったのは、いつだっただろう。

 ――あの子は可哀そうな子なんだから、できるだけ優しくしてあげてね。

 村長の妻は極貧を強いられる小作人にとっては貴重な、蜂蜜をたっぷり使った菓子を片手に、少年たちに優しく言い聞かせた。だから、彼らはアガフィムの友人・・になってくれたのだ。それでも、アガフィムは構わなかった。大人に頼まれたからとはいえ、こんな自分を他の子供たちと同じ存在として扱ってくれる彼らは、十分に優しかったから。

 アガフィムは滅多に自分からは口を開かなかった。けれど、友人たちは色々な話をしていた。初めは狼が出たらしいとか、恐ろしくもたわいもない事柄を。しかし自分たちの身体が大きくなるにつれて、段々と色恋、つまりは異性の話題の比重が大きくなっていったのである。

「あいつは顔は可愛いけど、針仕事が苦手らしいからなあ」

「やっぱり嫁に貰うなら、働き者じゃないとなあ」

 自分には生涯縁遠い――いくら名目上の跡取りとはいえ、父の憎悪の的である、そも受け継ぐべき財産すらないアガフィムが、結婚できるはずはない――話題に興じる少年たちは、近寄りがたいほど眩かった。

「アガフィムは? 誰か気になる女いねえの?」

 だから、話を振られても咄嗟に反応できなかったのだろう。アガフィムとて、気になる異性はいたのに。ただ、それを彼らに告げるなどできやしなかったけれど。

「え、えっと、」

 アガフィムの動揺を、どのように解したのか。痛ましげに目を細めた友人たちは、やんわりとだが話題を変えてしまった。次に彼らが興じたのは、女体の神秘についてだった。

「じゃあな、明日も遊ぼうな!」

「……うん」

 その日仕入れた情報は、どんなに経っても頭の中にこびりついたままで。

「どうしたの、アガフィム。最近、なんだか元気がないみたいだけれど」

 アガフィムはいつしか、村の少年たちから仕入れた行為を、姉としてみたいと望むようになっていた。アガフィムが唯一心に住まわせる異性。三歳年上の、父親違いの姉と。

 それが禁忌であることぐらい、無学なアガフィムとて理解していた。それでもある冬の日、一つの寝台で抱き合っていると、不埒な欲望が現れてしまったのだ。

 邪念に気づいた姉はその猫めいた、アガフィムを魅了してやまない瞳を、ぱちぱちと瞬かせた。

 ――終わりだ。僕はもう、姉さんにすら見捨てられるんだ。

 そうして絶望に沈んでいたアガフィムに向かって、桜桃を思わせる唇をほころばせたのである。

「いいのよ」

 数え切れないぐらい味わいたいと欲していた唇が、己のそれに重ねられる。委ねられた身体は細いが、柔らかくて。

 我に返った時には、二人で一つの寝台は赤い液体で汚れていた。

「姉さん。……ごめんなさい」

 乱れた服を治す姉に、アガフィムはただただ頭を下げた。姉は優しいから、異常な弟を哀れんで、慰めのために身体を差し出してくれたのかもしれない。でも、本当は嫌だったはずだ。

「僕のこと、嫌いになったでしょ?」

 が、アレスターシャはやはりきょとんとした顔をしていて。

「あら? どうしてそんなこと考えるの?」

「だって、」

「本当に嫌だったら、抵抗するわ。まして、自分から服を脱ぎはしない。だからあれは、わたくしも望んだことだったのよ」 

 抱きしめられ、背を撫でられると、ようやく光が見えてきた。これまでは頬にしていた接吻を今度はアガフィムから唇にしても、姉は拒まなかった。それで、生きていけそうな気がした。

「それより、わたくしに良い考えがあるのよ。だから、付いてきて」

 足音を殺して父の寝室に向かった姉は、今日も今日とて泥酔している父の頭を火かき棒で思い切り殴った。

「ね、姉さん?」

 何度も、何度も。

「……父さん、もう死んでるよ」

 アガフィムが止めるまで。割れた頭から、脳髄らしきものが飛び出すまで。

「本当ね。教えてくれてありがとう、アガフィム」

 実の父を殺したばかりだというのに、姉はにこやかに微笑んでいた。月と雪の明かりに照らされた姉の横顔は身震いするほど艶めかしい。アガフィムは、父の死体が転がっているという状況も忘れて、魅入られてしまった。だが。

 姉が父を手に掛けたのは、アガフィムの罪が露見した場合を恐れるがゆえだろう。しかし、それで良かったのだろうか。

「父さんが死んで、姉さんは悲しくないの?」

 自分を殴ってくる父だが、アガフィムは嫌いではなかった。父が酒浸りになった理由を知っているから。それに父は、自分の子供である姉には優しかったから。だから姉も、内心では父親の喪失を悼んでいるはずだ。

「わたくしはずっと、この人のこと嫌いだったわよ。だって、どんなにやめてとお願いしてもあなたに暴力を振るうんだもの」

 胸を抉る返事が返ってくるものと覚悟していたが、明らかになったのはアガフィムにとっては胸が躍る事実だった。

「そっか。……そっかあ」 

 姉が、父と自分を秤にかけて、自分を選んでくれた。爆発する歓喜は、いつか振る舞われた汁物よりも温かく少年の心と体に染みわたった。

「ここは僕に任せて、姉さんは休んでてよ!」

 姉に指図されたアガフィムは、物取りの犯行に見せかけるべく、父の部屋を荒らせるだけ荒らした。当初は姉も動こうとしたけれど、身体が心配だからアガフィムが止めたのだ。そうして姉とアガフィムは、朝になるのを待ち、世話になっている村長の家に駆け込んだのである。

「でも姉さん、これからどうするの?」

「一年に一回この村に墓参りに来る成金がいるでしょう? あれは使えると、前々から目を付けていたのよ」

 慣れ親しんだ村長の家で、密かに語り合ってから数か月後。姉は結婚が決まり、アガフィムは帝都郊外の寄宿学校に放り込まれることとなった。

 出発の日。姉は唇を嫣然と吊り上げ、瞳を悪戯っぽく煌めかせて微笑んだ。

「ほら、なにもかもわたくしの言う通りになったでしょう?」

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