夫 Ⅱ
「正直に申し上げますと、大変難しい状態です」
三番目の子供が生まれた後。血相を変えた長子が呼んできた医師は、口振りまでもが沈痛だった。
年齢のためだろう。アレスターシャの出産は、上の二人の際よりも時を要し、血も相応に流れたらしい。けれども今は義弟の腕の中にいる我が子が生まれると出血は止まったというから、フェオドリーだけでなく、屋敷の一同は安堵していた。安堵したはずだった。しかし幾ばくかの後に、アレスターシャの脚の間からは赤い河が迸ったのだという。
医師の手立ての甲斐あって、出血はどうにか止められた。
「明日を迎えることができれば奇跡です」
それでも失った血潮が多すぎるため、いずれ意識を失い、目を覚まさなくなるだろう。だからできるだけ早く、会わせてあげたい人を集めておいた方がいい。そう告げた医師の声には、口惜しさが滲んでいた。
突然の出来事が受け入れられないのだろう。滂沱の涙を流す妹を抱きしめた、これまた大粒の涙を流している長男も、反論はしなかった。それぐらい、アレスターシャが死に向かっているのは明白だったのである。
使用人たちに慕われていた妻だから、屋敷の中には早くも悲痛な空気が流れていた。年若い使用人の中には、啜り泣く者すらいる。
「……致し方ありませんわ。これも、神様が決めたことですもの」
そんな中、最も冷静なのは死にゆくアレスターシャだったかもしれない。
「イルキヤン。……リュシ、オーサ」
名を呼ばれた子供たちは、慌てて母の枕元に駆け寄る。
「あなたたちの弟を、頼んだわ」
妻の細い手を握る息子の手には、力が入っていなかった。
「きょうだい仲良く、助け合って暮らしてね――あなたたちのことを、ずっと愛しているわ」
妻が切れ切れの声を振り絞った瞬間。付き添っていた使用人がとうとう泣き崩れた。子供たちも、同様に。
「姉さん。……ごめん」
感情をあまり表に出さない性質の義弟もまた、涙ぐんでいた。
「いいのよ」
舌を動かすだけでやっとという風情の女は、最後になるかもしれない願いを紡ぐ。
「フェオドリー、さま。わたくしたちはあなたのおかげで、幸福に生きることができましたわ……」
ありがとうございます、とまでは音にならなかった。しかし決して大切にしていたとは言えない妻の死に際に、感謝の言葉を告げられてしまうと、どうしても罪悪感を覚えてしまう。
「ですがどうか……少し、わたくしたちだけにしていただけないでしょうか? たった二人だけの姉弟ですから、」
言い残したい諸々があるのだろう。フェオドリーは末期の妻を無碍にする悪魔ではないから、もちろんか細い声で紡がれた哀願を受け入れた。
「さあ、お前たちも」
立っているのがやっとという風情の子供たちをも促し、血と羊水――ある意味では生命の象徴たる臭いが立ち込める一室を後にする。
夫でも子供たちでもなく、弟に最後の言葉を託すというアレスターシャ。妻と義弟がどんな会話を交わすのか、無論興味はあった。周囲の目があるから、聞き耳を立てはしないが。
もうすぐ母を喪う子供たちのものも、女主人を喪う使用人たちのものも、様々な啼泣が木霊する最中。唯一にこやかに微笑んでいるのは、生まれ落ちたばかりの赤子だけ。乳母となる女の腕の中で、三番目の子供はすやすやと眠っていた。
それにしてもアレスターシャは、結局夫であるフェオドリーに似た子を産まなかった。長男イルキヤンが立派に成人した以上、今更妻を喪っても困らないが、それだけが心残りといえば心残りである。もっとも、この年でこれ以上子は必要ではないのだが。
次男を抱いた下女は、覚束ない足取りで子供たちの許に近づいていく。義弟の面影が濃い我が子たちを眺めていると、義弟が気になってならなかった。
少しだけという話だったのに、アレスターシャとアガフィムを二人きりにしてから、もう随分と経った。しかもその間、話し声らしい話し声は、ほとんど聞こえなかったのだ。
アレスターシャの声が聞こえないのは、不自然ではない。もはやアレスターシャは、口を開くのさえ酷な状態のはずだ。だがアガフィムは違う。義弟の性格と現在の状況を鑑みれば、できる限り姉に声をかけ続けるはずなのに。
まさか、アレスターシャはもう事切れてしまったのではないだろうか。
口髭を撫でつける男の背は、幽かな戦慄の予感に震えた。ふと周囲を見渡すと、他の者たちも同様の危惧を抱いているらしい。
「アヴァロノフ伯」
控えていた医師は、締め切られた扉にちらと目を向ける。彼が何を考えているかは、それだけで十分に察せられた。
「アガフィム?」
控えめに義弟を呼んでも、返事はない。
「いやその、私とて君とアレスターシャの間の愛情を理解しているよ。でもアレスターシャは、君の姉であるだけでなく私の妻で、子供たちの母親なんだ。だからそろそろ……」
自分の屋敷の一室に入るのに、他人に許可を求めなければいけないなんて。状況が状況でなければ、喜劇的ですらあった。
「――もう、開けてもいいかね?」
承諾を求める言葉とは裏腹に、中年の男の手は金色の取っ手にまで伸びていた。重い扉を開くと、先ほどよりも一層濃厚な――羊水の、生命の臭いをかき消すほどの血の臭いで噎せ返って。
アレスターシャは再び出血していたのだろうか。だとしたら、もう。
不吉な予感ほど的中するものではあるが、驚愕は抑えきれない。それでも家長として現実と直面すべく、伏せていた面を上げる。すると、真っ先に視界に飛び込んできた亡骸は、己の妻ではなかった。
義弟が、寝台にうつぶせに倒れ伏している。その身体の下には妻がいたが、力なく垂れた腕からも、既にこの世の者ではないのは察せられた。
あまりの出来事に、フェオドリーは絶叫すらできなかった。居並ぶ者は皆、言葉を忘れて立ち尽くしている。しかし故人となった姉弟とはさほどの関係はない医師は、職業のゆえか、速やかに冷静さを取り戻した。疾風となって義弟に駆け寄った医師が、静かに首を横に振る。そうして、義弟の死もまた決定的なものとなった。
医師によって仰向けにされた男の胸には、見覚えのある短剣が生えていた。妻が文鎮代わりとしてだが大切にしていた、もはや亡い国の大公妃のものだという短剣。持ち主である女が、心の底から愛する男を刺せば、その男は必ず死に至るという一振りが。
フェオドリーはアレスターシャにも、彼女の持ち物にもさしたる興味を抱いていなかった。けれども、妻がこの家にやって来てすぐ見せられたあれだけは、鮮明に記憶に残っている。
所々錆び、嵌めこまれていただろう貴石も落剝した鞘に収められた剣を、フェオドリーはアレスターシャに重ねていた。その刃が鞘から抜かれているのを目の当たりにするのは、これが始めてである。
医師が震える手で抜くと、赤く濡れていてもなお曇りのない輝きが露わになった。最初の所有者の手を離れてから、千に近い月日が流れたはずなのに。ということはもしや、これがいつかの代のグリンスク大公妃のものであるというのは、偽りなのだろうか。
結婚してすぐ。美貌で名高かった最初の所有者の姿を映すという伝承に惹かれ、ほんの少し、小指第一関節分ほど柄を引いてみた際に現れた刃の有様が脳裏に蘇る。あの時は確かに、汚らしい錆に覆われていたはず。ならば、アレスターシャがこの刃を磨いたのだろう。
――大切にしないと罰が下るそうですから。
そういえば、そんな記憶もありはする。お怪我をなさったらどうするのです、そんな細事は私共にと詰め寄る使用人もなんのその。剣を研ぐアレスターシャは、穏やかに微笑んでいた。恋に恋する乙女さながらに。あるいは、愛する男の腕の中にいるかのごとく、恍惚と。
弟の血を浴びたのだろう。アレスターシャもまた蒼白の面を紅に染めている。しかし姉弟はいずれも幸福そのものの、安らかな微笑を浮かべていて。
背後で轟いたけたたましい絶叫に釣られて振り返ると、娘が黄金色の髪を掻き毟っていた。気が強いが繊細なところがあるリュシオーサには、あまりに過ぎた衝撃だったのだ。放心しているイルキヤンの藍色の双眸は虚ろで、何者をも映していない。
それでも兄妹は、少しづつ母と叔父に近づいてゆく。赤い飛沫で汚れた亡骸を涙で洗う息子と娘の顔を見比べた直後、フェオドリーの脳裏に雷が落ちた。
義弟の胸の傷は、あの短剣によるものだ。ということはつまり、妻は種違いの弟を心の底から愛していたのだろうか。
いや。妻が義弟を愛しているのだとは、フェオドリーは以前から知悉していた。だがそもそも、その愛とはどんな愛だったのだろう。
アガフィムがアレスターシャに向けていた眼差しは、あまりに熱がこもってた。その、何もかもを燃やし尽くす焔のごとき熱情を、義弟はただ姉にのみ注いでいた。彼らの過去を把握していてもなお、背筋がざわつくほどに。
これは全て、フェオドリーの考えすぎなのかもしれない。だいたい、短剣の呪いなど、今の今まで半ば以上信じていなかったではないか。こんな馬鹿馬鹿しい話を真に受けるなんて、流石田舎者だと嘲っていた妻の思考に、己まで呑まれてどうする。
大体アガフィムの死だって、崇拝していた姉を喪い絶望した彼が、丁度そこらに置かれていた短剣を、自分で突き刺しただけかもしれない。というか、そちらの方が大いにありうる。末期のアレスターシャに、男を刺し殺す力など残っていたはずがないのだから。
だがイルキヤンとリュシオーサは、義弟によく似ているのだ。事情を知らぬ者ならば、親子なのではと勘ぐってしまいたくなるほどに。
今まで子供たちは義弟というか祖母に似ているのだと、フェオドリーは思い込んでいた。けれども、独りだけならばともかくきょうだい二人が、両親ではなく祖母に似るなんて。そんな偶然が起きるのだろうか。そういえば早逝した姉は、いつも雑言を吐いていた。イルキヤン達はお前の子ではないのではないか、と。
幾度となくアレスターシャの不義を疑う姉を、フェオドリーは笑い飛ばしていた。彼女の過去を知るがゆえに。けれども、もしや――全てに思い至った瞬間。今度は男の胸に雷が落ちた。
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