陽光で染めた絹糸の髪。晴れ渡った冬空の瞳。薔薇の蕾の唇。少女を見る者は誰もが誉めそやした。なんて美しい。これなら皇族の妃にだってなれましょう、と。だが母は、そう聞くと顔を曇らせた。父や祖母だって、自分なら必ずやんごとなき方の妻の座を射止めるだろうと言ってくれるのに。どうしてと尋ねると、

「人生で大切なのは、お金でも、権力でもないのよ。愛する人と共に居ること。これこそが最も大切で、幸せなことなの」

 と母は言い切った。らしくない、毅然とした口調だった。

 ならば母様は幸せではないのですね。そう返答しかけて、少女ははっと口を噤んだ。母の後ろから、兄に研ぎ澄まされた剣よりも鋭い目で睨みつけられたから。


 ――なんて、幼い時の夢を見てしまったのは、なぜなのだろう。母の出産が間近だからだろうか。

 寝台の中。誰もが心を奪われるほど青い瞳をぱちりと見開いた少女は、しかしその華奢な身を起こしはしなかった。たとえ太陽が既に天に昇っていたとしても、使用人が来るまでまどろんでいたかったのだ。

 リュシオーサも通う内務省直轄の女学校は、年に二度、半月ほどの休みが与えられる。母の懐妊を知らされた半年前の冬期休暇も、今回の夏季休暇も、表向きは天主正教の祭日を家族と共に祝うために。しかし、冬の休暇の真の理由は、暖房代を節約するために違いなかった。

 事実、生家が遠方にあるゆえ帰省もままならない女学生は、休暇の間は上掛けを身体に巻きつけて寒さを凌ぐしかないのだという。学院に入学するまでは、都の一等地で育っていたリュシオーサには、関係のない話だが。

 名家の令嬢を集め、生徒の親から相応の資金を巻き上げているにも関わらず、女学校では贅沢が一切許されていない。暖炉にくべられる薪も最小限だ。厨房係や守衛を買収しなければ、菓子一つ食べられない。だのに、夜明けには起床し、支給された制服を纏っていなければ、目を吊り上げた嫁き遅れの女教師に説教を浴びせかけられるのだ。つくづく溜ったものではない。

 だからこうして家にいられて、ぬくぬくと惰眠を貪ることができるのは、もちろん嬉しい。だがしかし今回ばかりは複雑だった。それは、少女がいわゆる難しい年頃だからではない。

 すでに産み月に入った母は、はちきれんばかりに大きな腹を抱えながらも、帰ってきたリュシオーサを温かく迎え入れてくれた。自分はもう子供ではないのだから、母の腹が膨らんだ経緯を十分に察せられる。そして、だからこそ恐ろしいのだ。母の顔を直視するのが躊躇われるほどに。

「おはようございます、お嬢様」

 少女にとっては無情な手つきで上掛けを剥ぎ取る使用人は、かつて子守として雇われたオルカではなかった。結婚を機に家庭に入った彼女は、今でもこの屋敷の庭師として働いている夫との間に、大勢の子を儲けた。そうして賑やかな、幸福そのものの暮らしをしているという。

 使用人ではなくなった彼女の仔細を、なぜリュシオーサが把握しているのかというと、母が教えてくれたからだった。この子が生まれたらオルカを乳母として雇おうと思っているのとの、純粋な笑みと共に。

 母は社交を好まないものの、時折父の姉たちを招いて、茶会を開いていた。そうして、自ら淹れた紅茶を振る舞っていたのである。兄曰く、祖母が自分の娘たちに会う機会を、それとなく作るために。

 しかし、その祖母は既に亡くなってしまった。父の一番上の姉は祖母よりも先に急逝してしまい、また二番目の伯母も屋敷からの帰りに事故に巻き込まれ――御者が突然発作を起こしてしまい、馬車が横転した結果、寝たきりになってしまった。同乗していた三番目の伯母は奇跡的に命に別状はなかったが、身籠っていた子を流産し、同時に二度と子を望めない身体になった。それまで娘しか産んでいなかった伯母は、跡継ぎの男児を望む夫から離縁されてしまい、今では施療院にいる。体裁が傷つくのを憚った父が、精神を病んだ出戻りの伯母を厄介払いしたのだ。

 とにもかくにも度重なる不幸のゆえに、茶会は自然と取りやめになっていた。しかし最近、客を知人に変えて復活したのだという。果たして、その裏には何か思惑があるのだろうか。

「……お嬢様ったら。目を覚ましてくださいまし」

 リュシオーサの寝起きの悪さに溜りかねたのだろう。いや、今回ばかりは思うところがあるから寝具から出たくなかったのだが。

「もう。いい加減に、これでしゃんとなさってくださいね」

 とにもかくにも、熱い手ぬぐいで顔を拭かれたのだから、流石に演技はお終いにしなければならなかった。

 姿見の前に座らされたリュシオーサは、鮮やかな手つきで髪を梳かされ服を着せ替えられた。

 幾ばくかの後に覗き込んだ鏡で佇むのは、我ながら非の打ちどころがない美少女だった。毎夜の懊悩の影すらも、新雪のごとく白く、けれども健やかな薄紅色が滲んだ面には落ちていない。これならば、家族の目を誤魔化せられるだろう。

 兄と共に母の部屋に集い挨拶を済ませ、それから食事の間に赴くのは、リュシオーサが物心つく前からの習慣である。

 兄は、騎士、もしくは飼い犬のごとく母の側に控えていた。顔立ちはともかく背格好は母に似た自分とは異なり、兄はどこからどこまでも叔父に瓜二つである。だからリュシオーサは、母の身体を抱くようにして支える兄を叔父と見間違えてしまい、一瞬言葉を失ってしまった。

「遅いぞ、リュシオーサ!」

 もっとも、口を開けば兄の暑苦しさは相変わらずだったが。兄にいつまで経っても浮いた噂がない理由の大半は、鬱陶しい気性に帰せられるだろう。母への行き過ぎた思慕の念も、女としては大幅な減点対象だ。

「まあまあ、いいじゃないの」

 ころころと鈴の音めいた笑い声を上げる母は、四十を目前に控えているというのが、信じられない若々しさである。

「じゃあ、食事の間に行きましょうね。――イルキヤン、お願いできるかしら?」

 そうして母は、兄に腕を取られながら、ゆっくりと歩きだした。大きく膨らんだ腹部に注がれる眼差しは、柔らかく温かい。

「生まれる日が待ち遠しいですね。俺は、妹が欲しいです」

「あら、妹ならリュシオーサがいるじゃない」

「母上にそっくりな妹が欲しいのです」

 大役・・を任された兄は、いかにも嬉しげな様子だった。何も気付かず、何も考えようともしないで。まあ、それも仕方がないのかもしれない。なんせ兄は母上教、もしくは聖女アレスターシャ教の信者なのだから。もしかしたら母の腹にいる頃から母を崇拝していたのかもしれない。

 聖女アレスターシャ教の信者である兄は、リュシオーサの懊悩の原因をはき違えている。もちろんリュシオーサとて、母に万が一があったら悲しい。だが、違うのだ。

 いつから溜めこんでいたのかも定かではないわだかまりを、全て吐き出せたら。さすればどんなにか楽になれるだろう。もっともその暁には、兄からは絶縁を言い渡されるのは間違いないが。

 兄は何だかんだで、リュシオーサを可愛がってくれている。それと同じようにリュシオーサも兄を失いたくない。だからへどろでもあるまいに絡み付く疑念は、墓場まで引きずる他ないのだろう。

 考え事をしていたためか。前を歩いていた母にぶつかってしまった。大した衝撃ではなかったはずだが、なんせ母は身重なのだ。罪悪感がこみ上げる。

「申し訳ございません、母様」

 けれども母ならば、リュシオーサが詫びればいいのよと笑って済ませてくれるはずだ。母は、自分たち子供を愛してくれている。それだけは、紛れもない事実なのだから。

「――母様!?」

 しかし少女の予想とは裏腹に、母はその場に崩れ落ちてしまった。

「い、如何なさったのですか?」

 慌てて母と目線を合わせるべくしゃがみ込む。花弁のごとく繊細な唇は噛みしめられ、血が滲んでいた。

「……大丈夫よ。ただ、来るべき時が来ただけだから、心配しないで」

 ふと見やると、母が纏う濃緑の裙は、濡れて一層深い色に変じていた。破水したのだ。

 これから、一体どうすればよいのだろう。リュシオーサより四歳も年上の兄すらも、狼狽えて立ち尽くしている最中。子供たちとは対照的に冷静な母の口ぶりは、常と変わらずおっとりとしていた。

「わたくしの寝室に戻りたいから、イルキヤンは手を貸してくれないかしら? リュシオーサは、誰かに破水したと伝えて頂戴ね」

 はしたなくも走って使用人を捕まえると、後は上手く取り計らってくれた。その証に、リュシオーサが我に返った時には産室となった母の部屋の前に、自分や兄だけでなく父も揃っていたのである。

 女であるリュシオーサは、駆けつけてきた産婆と共に部屋に入るのを許された。

「母様、大丈夫ですか?」

「ええ。だって、愛しい人との子供ですもの。あなたたちのためなら、どんな苦しみにだって耐えられるわ」

 凪いだ瞳は、夢でみた母のものと全く同じ。あの時の母は虚勢を張っていたのでも偽善を口にしていたのでもない。心からの真実を口にしていたのだと、ようやく理解できた。だがそれは、少女にとっては絶望でしかなくて。

 邪魔になるからと自ら母の許を去った娘は、扉の前で崩れ落ちる。

「腹が減ったのだろう? どうせ長くかかるのだから、お前たちも何か食べてくればよいものを」

 水すらも喉を通らなさそうなリュシオーサと兄とは対照的に、朝食を済ませたらしい父は、余裕たっぷりだった。この父の、半ば以上愚かしさの領域に足を突っ込んでいる楽観思考は、ある意味で羨ましい。

「前も言ったが、今度こそ私に似た息子が欲しいものだなあ」

 口髭を撫でつつぼやく父を、兄はねめつけているに違いないが、リュシオーサも父と同意見だった。性別はどうあれ、父の面影がある赤子が生まれてほしい。そうすればリュシオーサは、母を心の底から信じられる。自分の長年の杞憂を、潔く捨て去れるのに。だけど、先ほどの母の様子は。

 兄に背を撫でられながら、一体どれほど戦慄の予感に身を浸していただろう。一際大きな呻き声が轟くと共に、劈かんばかりの産声が響き渡った。

「元気な男の子でございます。どうぞ、ご覧になってくださいまし」

 産婆の腕の中の、産湯で清められ、真っ白なお包みで包まれた弟の、ぽやぽやと生えた髪は自分たちと同じ黄金色。しかしその瞳は、母と同じ緋色だった。赤子の顔など、成長と共にいかようにも変わっていくものだろうが、顔立ちも母と叔父双方の血を感じさせる。

「この子はアレスターシャには似ているがなあ。まあ、良いか」

 いずれにしても、またしても己に似ていない子が誕生したというのに、父は相変わらずだった。リュシオーサはぽっかり開いた穴に飲みこまれ、地獄の底に引きずり込まれたというのに。

「血の匂いに酔ってしまわれたのでしょうか? お嬢様は繊細なのですね」

 口を片手で押さえてかがみこんだリュシオーサに、産婆は能天気に笑いかけた。確かに出血は多かったけれど、子を産むには流血はつきものなのだから、と。

 いつの間に到着していたのだろう。叔父は、リュシオーサと赤子を代わる代わる注視している。

 つい視線を逸らしてしまった姪に、何を思ったのだろう。引き締まった口元が開きかけた途端、産後の母の世話役として置いていた侍女の絶叫が響き渡った。

「奥様! しっかりなさってください、奥様!」

 慌てて扉を開くと、一度は我が子をしっかりと腕に抱いたという母が、常よりも一層血の気が引いた顔で横たわっていて。

「出血は止まったはずなのに! こんなにも血が流れたら、私にはどうしようも……」

 狼狽える産婆を突き飛ばし、兄はどこぞへ駆けてゆく。少女は小さくなる兄の背を、涙で曇った双眸で追いかけることしかできなかった。

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