息子
己の母親こそこの世で最も優れた女性であると、青年は確信していた。母アレスターシャの素晴らしさは、すっかり没落していたとはいえ建国の英傑の末裔であるという、血筋だけに限るものではない。
「おはようございます、母上。母上は今日も気高く美しい。俺は毎朝、母上の子として産まれた幸福を噛みしめておりますよ」
「おはよう、イルキヤン。あなたは相変わらず朝から元気ね。いいことだわ」
「それもこれも、母上という光が俺を照らしてくれているからです。母上こそ俺の喜びです」
幼い頃は朝の挨拶に向かうと、母が頬にくちづけしてくれたものだった。イルキヤンが父も通った帝国学習院に放り込まれる前年には、残念ながらその習慣はなくなってしまったが。
それでも母は、イルキヤンが卒業し屋敷に戻って来てからずっと、見る者の心を癒す笑顔を向けてくれる。もう亡くなってしまった祖母が、母に苦言を呈さなければ。さすれば母は、今でもイルキヤンに挨拶の接吻をしてくれたかもしれないのに。
長患いの末に息を引き取った祖母は、同様に既に亡い祖父と共に、イルキヤンたちをそれは可愛がってくれた。しかし、母を密かに――いや、本人は隠しているつもりなのだろうが、あからさまに見下してもいた。だから、イルキヤンはさほど好きではなかった。
晩年の祖母は、学院に入る前の自分や妹の顔を穴が開くほど見つめるばかり。そうして父に似ていないと零すばかりだったから、正直不気味だった。あと、次は父に似た子を、とか母に詰め寄ってもいた。そんな祖母でも、母は最後まで自分で看病して、そして看取ったのだから、本当に素晴らしい。
もっとも祖母でさえ、母に関する口にするのもおぞましい噂を捲し立てていた伯母たちよりかは遙かにましだったのだが。
父の姉たち。特に四十半ばという若さで早逝した一番上の伯母は、母に劣等感を抱いていたのだろう。母は、イルキヤンという宮廷で出仕を始めた子がいるにも関わらず、少女のごとく若々しく可憐であるから。
血統と人格はさることながら、容姿においても敵わないのだ。伯母たちが母への妬みを露わにしていたのは、致し方の無いことなのかもしれない。しかしだからといって母と、イルキヤンが尊敬してやまない叔父アガフィムに対する、冒涜的な虚言をまき散らしたのは決して看過できない。
父も父だし、母は周囲の人間に恵まれているとは称しがたい。だからその分、自分たち兄妹、あと使用人たちが支えなければならないのだ。
青年はもう何度も繰り返してきた決意も新たに、母の瞳を覗き込む。すると逞しい背に澄んで可愛らしいが冷ややかな痛罵が突き刺さった。
「相変わらずくどいな。いつもいつも、一体何を考えているんだ、兄様は?」
数年前のイルキヤン同様、内務省直属の学習院で勉学に励んでいるはずのリュシオーサが屋敷にいるのは、冬の休暇の時期だからだった。
イルキヤンや叔父のアガフィムによく似ている妹は、女学校でも並ぶ者なき美人との誉れ高いらしい。卒業した後、女官として宮廷に上がれば、皇太子の目に留まるのは確実だと。父はいつも、晩餐で杯を重ねすぎると、自慢げに呟いていた。
「母様への挨拶は終わったんだから、一人でもさっさと食事の間に行けばいい。それともまさか、昔みたいに母様と手を繋いで行くつもりなのですか?」
それはイルキヤンとて同意するが、しかし妹は気が強すぎる。もっと母を見習ってほしいものだった。それに皇太子は、我がアヴァロノフ家など及びもつかぬ大貴族から既に妃を迎えているのだ。寵愛を受けたところで、妹が幸福になれるとは考えにくい。
多少生意気で、ついでに我儘でも、ただ一人の妹だ。たとえ父の意向に背くことになったとしても、幸せになってほしいというのが本音である。
「リュシオーサ」
「何ですか?」
「その……頑張れよ」
「折角纏めた髪が崩れる! この馬鹿兄!」
兄と妹の微笑ましいやり取りを、母は穏やかに見守ってくれている。
「二人とも。フェオドリー様がお待ちかもしれないわ。だから、おしゃべりはまた後でにしてね」
巴旦杏型の大きな――自分も妹も継がなかった緋色の瞳で見つめられると、いつもいつも胸が騒めく。母親でさえなければ、年齢がどれほど離れていようと、イルキヤンは母に求婚しただろう。
「――と、いうことだ。静かにしろよ、リュシオーサ」
「私!? 騒いでいたのは兄様の方ではありませんか!」
お調子者のきらいがある青年と、それに振り回される少女は結局、母の注意をたちまち忘れ、軽口を叩きつつ席に付いた。
「おお、揃ったか」
威厳を演出するためだろうか。祖父が急逝し、名実ともにアヴァロノフ家の主となってから鬚を蓄えだした父は、傍目には人がよさそうな中年男そのものである。だがその実、家長として屋敷に腰を落ち着けなければならなくなる以前は、母という者がありながら他所に女を囲っていたのだ。
現在では別宅こそ処分したものの、女遊びを断ってはいない。借金を肩代わりする代償として、叔父から譲られた武官の地位を、父は十位から六位まで上げた。父は、当主としては有能なのかもしれない。だからといって、父の罪は帳消しにならないのだが。
母はイルキヤン達の心情を慮ってか、何事もなかったかのように振る舞っている。けれども内心では酷く傷ついていただろう。
社交を好まないにも関わらず、母が屋敷を空けがちなのは、慈善活動のためだ。だがその裏には、己を道具としか見做していない夫や、義理の両親への反発心が隠れているのかもしれない。医者にかかることすらままならぬ貧民のためという名目で、亡き祖父母自慢の庭の一角に薬草を植えさせたのにも。
幼い頃のイルキヤンは、危険だという理由で接近を禁じられていた一画の収穫物は、役には立っているらしい。だが、我が家の財力があれば、貧民に施す薬など楽に入手できるものを。母が頻繁に叔父の許を訪れるのは、弟である叔父しか弱音を吐ける相手が存在しないからかもしれなかった。
「イルキヤン、リュシオーサ。私は今日もお前たちの顔を眺められて幸せだよ」
「父上こそ、お元気そうで何よりです」
母を蔑ろにする男に微笑みかけられたところで、良い気分になれはしない。だが、父に対して不作法な態度を取ると母が悲しむので、邪見にはできない。
給仕が並べた朝餉は品数も品目も申し分なかった。しかし、母の口があまり動いていなかったのは気がかりだった。そういえば母は、最近どことなく具合が悪そうである。敬愛する母の不調を見抜けなかったなんて、息子としてあるまじき失態だ。
「――母上!」
万が一があってはいけないから、医師を呼びましょう。部屋には、俺が抱きかかえてお連れします。
焦燥が滲んだ叫びは喉元まで出かかっていたが、おっとりとした声音に遮られてしまって。
「イルキヤンにリュシオーサ。今日は、とても嬉しい知らせがあるのよ」
そうして母はなぜだか父に目配せし、白い顔をほころばせた。
「実は、あなたたちの弟か妹ができたみたいなの。最初は病気かしらと思って、周りを心配させないために、こっそりお医者様にかかったの。そしたら、おめでたですと言われて」
二人の子を産んだ四十間近の女のものとは俄かには信じがたい、薄く締まった腹部に手を置いた母の笑みは、幸福そのもので。
「わたくしももういい年でしょう? だから、再び子に恵まれることはないだろうと長年諦めていたのだけれど、分からないものね。ねえ、フェオドリー様」
「そうだな。私も嬉しいよ。できれば今度こそ私に似た子を産んでほしいものだがなあ」
「そうですわねえ。でも、それは神様がお決めになることですから」
母の不調に合点がいき、青年は天井が崩れ落ちんばかりの大声を上げた。
「おめでとうございます!」
またとない慶事であるのに、妙に静かな妹の様子を横目で窺う。すると、妹は匂やかな唇をきつく噛みしめていた。顔色も、心なしか蒼ざめている。頭痛を堪えているのかと問い質したくなるほどに。
リュシオーサはまだ芽生えたばかりの命に、末っ子の座と母の愛を奪われるのを恐れているのだろう。だがそれはイルキヤンも通った道だ。それに、母の愛はまさしく海のごとしだから、尽きる心配をする必要はない。なんなら、この優しい兄がしばらくは母の代わりを務めてやってもよいのだ。
「いつお生まれになるのですか?」
「お医者様のお話では、半年後には。今から本当に楽しみね」
沸き立つ歓喜は日が改まっても抑えきれない。
「姉さん」
「いらっしゃい、アガフィム。待っていたわ」
翌日、朝早くから訪問してきた叔父と喜びを共にせんとしたのだが、自分とそっくり同じ顔に過る影には、言葉を失ってしまった。
都一と名高い美男であるにも関わらず、妻帯していない叔父には子供はいない。その分、姉の子供である自分たちを、我が子同然に可愛がってくれている叔父なのに。
「子供が出来たって……。もちろん嬉しいけど、その、」
「わたくしをあんまりお婆ちゃん扱いしないでちょうだい。確かにもういい年だけれど、でも四十は越えていないでしょう?」
応接間で向かい合っている母と叔父の様子を眺めていると、雷に匹敵する衝撃が全身を駆け巡った。
何もかも、叔父の言う通り。出産というのはただでさえ命の危険が伴う。だのにどうして呑気に浮かれていられたのだろう。もしかしたら昨日のリュシオーサは、母を喪うかもしれないという可能性に怯えていたのかもしれなかった。だとしたら、なんと聡明な妹なのだろう。
「初産でもないのだし、大丈夫よ。だいたい、わたくしぐらいの歳で産む女って、結構いるものなのに」
「だけど、」
叔父は終いには懺悔する罪人のごとく母の足元に崩れ落ちてしまった。打ちひしがれる叔父を見ていられず、青年はその青い瞳をそっと伏せる。
「この子はきっと、神様からの最後の贈り物になるわ。愛しい人の子供を産むのは、女にとっては最高の幸せの一つなのよ」
今ばかりは叔父の代わりに母に縋りつきたいとは思えなかった。足音を殺して青年がその場から離れる寸前。ちらと垣間見た、叔父の髪を撫でる母は、聖女よりも神々しかった。
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