夫の愛人 Ⅱ

 待ちに待った夜。買収した劇場の使用人を使って休憩室に閉じ込めた獲物は、記憶よりももっとずっと魅力的だった。

 口惜しいが、フィルダの金褐色よりもずっと輝かしい金の髪は、この氷の帝国の民が何より愛する陽光そのもの。同じ色の長い睫毛に囲まれた双眸はどんな青玉も色褪せさせる藍色をしていて。涼やかで理知的でありながら、秘めたる熱情の激しさを感じさせた。この瞳が自分だけを映してくれるのなら、大抵の女は身も心も、魂までもを喜んで捧げるだろう。

 名工が極上の大理石からのみで削ったのでは、と錯覚してしまう鼻梁は高く通っていて。その上の細く繊細な眉は、ともすれば近寄り難さを覚えてしまう美貌に柔らかさを添えていた。長身の体躯も、文官だというのに逞しく引き締まっている。この逞しい腕の中に身を投げ出したいと夢想した女は、星の数に匹敵するだろう。

 確かに容貌においては、フェオドリーは義弟の足元にも及ばない。計画が成功しても――フィルダの魅力があれば、失敗するはずはないのだが――アガフィムとの関係は維持していても良いかもしれない。文官の一代貴族にすぎないアガフィムは、結婚相手はともかく、恋人として見せびらかすのにはよい男だ。

「ご婦人。貴女は一体、どういったおつもりなので?」

 氷の貴公子という仇名にぴったりの低く冷ややかな声は、しかしどこか官能的だった。

「――分かっておられますでしょう? それとも、わたしを揶揄っていらっしゃるのかしら?」

 しっかりとした胸板に頬を擦りよせ、常よりも一層甘く声を蕩けさせる。もちろん、これまた自慢の豊かな胸を押し付けるのを忘れない。

「ずっと、アガフィム様を恋い慕っておりましたの。ですからどうか、あなたの僕に成り下がった女を哀れと思うなら、一夜だけでもお情けを……」

 ここまでして落ちない男は、男ではない。だが念には念を入れて、真珠の涙を零す。すると目の前の男は、はっと息を呑んだようだった。

 自分が勝つに決まっている試合でも、勝利するのはやはり喜ばしい。女は内心の歓喜を抑えつつ、端整な面を仰ぐ。すると、期待に蕩けた双眸に飛び込んできたのは、

「情けなら、あの男に――僕の義兄にでもかけてもらえばいいでしょうに」

 嫌悪と嘲りで歪んだ、けれどもなお麗しい男の顔で。

 先日逢瀬を重ねたアガフィムの上官は、彼は見た目の割に内向的で、世間に疎い性質だと呟いていた。だから、フィルダとフェオドリーの関係も、把握してはいないだろうと高を括っていたのに。

 いや、あの男はもしかして、部下にフィルダを盗られるのが口惜しくて、虚言を弄していたのかもしれない。折角寝てやったというのに、とんだ恩返しをしてくれたものだ。

 慌てて飛び出しかけた舌打ちを抑える。この状況を有利に運ぶには、どうすればよいだろう。

「ご存じでしたのね、わたしとあの方のこと」

 数瞬の後、フィルダが犠牲にしたのはフェオドリーであった。

「わたし、あの方からお金を借りていて。それで、長年逆らえずずっと……」

 とっさにアガフィムの過去を参考に練り上げた嘘だが、だからこそこの冷ややかな男も、自分と同じ痛みを抱える女には憐憫の情をくすぐられるかもしれない。そうしたら、もうこっちのものだ。

「穢れた身であるとは、重々承知しております。けれども、いつか一目見たあなたを慕う気持ちは抑えきれませんでした」

「……そうですか」

「本当に、一夜だけで良いのです。そうすればわたしはこの先ずっと、思い出を糧にして生きていけます。たとえ朝露のごとく儚く消える定めだとしても、本当の恋をしてみたいのです。だから、どうか」

 赤く彩った唇を、薄く引き締まった唇に近づける。すぐ後ろでは何度か横たわった寝椅子が、フィルダ達が倒れ込むのを待っていた。

「一つお聞きしたいのですが、その借金というのは、どのいった経緯で拵えたものなので? 手癖が悪い貴女の代わりに、あの男が賠償金を支払ったのですか?」

 けれども、頭上から浴びせられかけた雑言に、歌姫は眼をこじ開けずにはいられなかった。

「な、なにを、おっしゃいますの……?」

 期待ではなく屈辱で燃える身体は、ついに寝椅子に受け止められた。目の前の男に押し倒されたためではなく、男の身体に巻きつけていた腕を振り払われてしまったために。

「アガフィム様は何か、酷い誤解をなさっておいでですわ!」

 たまらず再び抱き付こうとしたが、酷薄な男は一切の隙を見せなかった。

「誤解でも結構。僕は、あなたのような売女には興味はありませんので。ま、せいぜいその頭の悪さを購いきれない程度の容姿に騙される男達を、唆して生きてゆけば良いでしょう」

 吐き捨てるが早いか、アガフィムは閉ざされた扉に向かっていった。かくなる上は、採れる手段はただ一つである。

 茫然と座り込んだ女の双眸は、怒りと決意を湛えていた。絶対に、あの男を後悔させてやる。


 あくる日。未だ興奮冷めやらぬ歌姫は、愛する人の屋敷で、彼の妻と向かい合っていた。

「お初にお目にかかりますわね。貴女は確か、」

「フィルダです。これだけでも、お分かりでしょう?」

「ええ。いつもフェオドリー様が大変お世話になっておりますわ。あなたのような華やかな御方が側にいるおかげで、フェオドリー様の御心もどんなにか慰められているでしょう」

 アガフィムの姉でもある女は、評判通り弟にはまるで似ていなかった。容姿も、また気質においても。おっとりとして優雅な挙措は、認めるのは癪だが気品に溢れている。

「それで、本日はどういったご用件でいらしてくださったのです? 生憎と、今日はフェオドリー様は在宅しておりませんから、わたくしで宜しければお話を伺いますわ」

 泣き腫らして真っ赤になった目をしているとはいえ、夫の愛人を気遣うなんて。この女は、一体どこまでおめでたい頭の造りをしているのだろう。これなら楽に騙せそうだ。

「……フェオドリー様がいらっしゃらなくて、却って幸運でしたわ。あの人には、決して聞かれたくないお話なのですもの、」

 瞬きを堪えると、偽りの涙を絞り出しやすい。女優として生きていく中で、いつの間にか身に付いていた技術を駆使すると、フェオドリーの妻はあからさまにその面を曇らせた。

「如何、なさったのです? ……もしや、人払いしなければならないのでしたら、庭園に向かいませんか。お庭なら人気もありませんし、美しい花が咲いておりますもの。フィルダ様の御心も、幾ばくか慰められるでしょう」

 花になど興味はなかったものの、しおらしく己よりも年嵩の女の進めに従う。

「あれは……人参と申しまして、痙攣止めや、あと関節炎の治療にも効果がありますの」

 芹に似た、丈高い地味な植物が生い茂る一画まで足を進めると、朗らかに自慢の――にしては地味な庭の植物の説明をしていた女が、くるりと振り返った。

「それでフィルダ様は、わたくしにどのようなご用件がおありなのですか?」

 巴旦杏型の大きな瞳は、好奇心旺盛な猫を連想させる。

「フェオドリー様の奥方である貴女のお力をお借りしなければならないのは、本当に申し訳なく思っています。けれども貴女以外に頼れる方がいないのです。なんせ、アガフィム様が関わっていることなのですから」

 弟の名を出すと、それまでおっとりと優雅な――言い換えれば余裕たっぷりだった女は、その印象的な双眸を瞠った。上品な奥様ぶっていられるのも今のうちだけだ。

「思い出すのも恐ろしいですが、申し上げますわ。――私は以前、フェオドリー様に情けを頂いている身でありながら、アガフィム様の御子を身籠ってしまいましたの」

 案の定、静かに凪いでいた女の面には、嵐の兆しが過っている。自慢の品行方正な弟の、思いがけぬ醜聞に動揺せずにはいられないのだろう。

「子は、結局流れてしまいました。また、アガフィム様もお酒に酔っていらしたので、私について覚えてすらおられないかもしれません。そもそも、私を街の娼婦と間違えているようでしたし……。けれども私は、片時も子供を忘れられませんでした」

 生まれることすらできなかった子供のために、自分と共に聖堂で祈りを捧げるよう、お姉さまからお口添えしていただけないでしょうか――暗に、お前の弟が暴力でわたしを妊娠させた。口外して欲しくなかったら、言う通りにしろと仄めかす。

 フィルダとて、この一件・・を広めるつもりはない。あくまで、アガフィムは自分と親しい仲であると、劇場の不細工共に例え一時でも信じ込ませられればよいのだ。

 さして難しい要求ではない。だから、天使とも称される愚鈍なまでに純真な奥方は、哀れな女の懇願・・を聞き入れるだろう。それに、この女は己の名声が損なわれるのを恐れているはずだ。だから少々ならば、口止め料という名目で金を巻き上げられるかもしれない。

「まあ、面白いご冗談ですこと」

 そう踏んでいたのに、天使の奥方はころころと鈴の音と紛う笑い声を上げるばかりで。

「冗談だなんて……。あなたも子を持つ身ならば、私の苦しみがお分かりでしょう!? なのに、そんな」

 吊り上がった薄紅の花弁が形作る笑みは、いっそ少女めいていた。

「アガフィムには、一生を共にすると誓った相手がおりますのよ。もっとも、事情があって神様に愛を誓うことはできませんけれど。だのに、あの子が裏切るだなんて、ありえませんわ」

 己よりも背が高いフィルダを覗き込む紅の――草原の帝王の末裔の証たる瞳では、炎が揺らめいている。全く似ていない姉弟だが、瞳に宿す熱はそっくりだった。触れる何もかもを燃やし尽くしてしまいそうな炎。

「でも、殿方なんですもの! そういう気分になった時、手ごろな誰かをはけ口にするなんて、珍しくもないでしょう!?」

「そうですわねえ。世の中には確かに、そういう殿方もいらっしゃいますけれど、」

 でもわたくしは、あの子の愛を信じているんですの。

 フィルダの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ女が浮かべていたのは、勝者の笑みだった。この女の信念は、たとえ神に否定されても揺らぐまい。

「貴女はとてもお可哀そうなお方だわ、フィルダ様」

「夫に放置されているあんたにだけは言われたくないわ!」

「フィルダ様が何を求めてフェオドリー様と情けを交わしているのか、わたくしには大体分かりますわ。でも、それだけでは女は満たされませんのよ」

 ――いつか、貴女が本当の愛と出会えますように。

 高い門の外に飛び出していくフィルダを穏やかに見送る女は、本気で夫の愛人を哀れんでいた。それが、腹立たしくてならなかった。

 どうにか戻った劇場では、何故か既に昨夜の失敗が響き渡っていた。木霊する嘲笑を堪えつつ、フェオドリーを待っていても、彼はもう二度とフィルダの許を訪れてはくれなかった。彼だけでなく、他の元財布たちも、全て。

 難しい役どころを見事に演じ切った、白粉女の引退舞台。主役に天井が割れんばかりの拍手を捧ぐ客には、知らぬ顔の若い女を連れたフェオドリーが混じっていた。その半年後の晩。かつての歌姫は、扉の取っ手からぶら下げた紐の輪に首を通した。

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