夫の愛人 Ⅰ

 紅で鮮やかに彩った唇から、澄んで朗らかな歌が響き渡る。フィルダは今日も歌劇場で、愛くるしいと称される容姿に並ぶ宝である、透き通って可憐な声を張り上げていた。細い喉から迸る調べは、愛くるしいと称される容姿に並ぶ宝である。

 今宵のフィルダは、竜に捧げられる寸前で騎士に救われる姫君である。だのに貴石の眼差しは、剣を構える勇士ではなく、観客席で彷徨っていた。愛しい人は今日も、己のために特等席を買ってくれた。その横には、いつもの友人を従えて。

 仲間であり敵である女たちは、妻子ある身のフェオドリーよりも、外務省勤めで未だ独身のデミストフォロスの方が優良物件だと囁いている。つまりフィルダは、馬鹿者共の見る目の無さに救われているのだ。もっともフィルダは、文芸を好む皇帝の肝入りで落成された歌劇場でも、一、二位を争う歌姫なのだ。たとえ百の敵が立ちはだかろうと蹴散らし、思い人の胸を射止めただろう。

 国を救うため、自ら志願して悪竜に身を捧げんとした健気な姫君は、無事に救われ逞しい勇士の妻となった。帝都でも指折りの歌姫にとってはもう何回目になるか定かではない幸福な終わりに、観客は万雷の拍手を送る。しかし、フィルダは満足してはいなかった。

 いつかフェオドリーの妻として迎えられ、愛しい人と、末永く豊かに暮らす。容姿と歌声のみを武器に貧民街からのし上がって来た自分が望むのは、ほんの些細なものだった。だが意地悪な神は、フィルダにろくでなしの両親だけでない困難を与える。それが、フェオドリーの妻だった。

 貧民街で春をひさいでいた母親と、その母に寄生していた父の間に生まれたフィルダでは、逆立ちしても敵わない高貴な女。イヴォルカのかつての支配者エレイクの一族のみならず、数百年もイヴォルカを頸木に繋いだ草原の民の覇者の血をも受け継ぐ、名門出の女。それが、フェオドリーの妻だった。

 フィルダはフェオドリーの妻と直接顔を合わせたことはない。だが、血筋以外の全てで凌駕していると断言できた。だがしかし、唯一敵わない血統の差は海が水溜りに思えるほどで。だからフィルダは、明日も明後日も歌声を張り上げるのだ。家柄の差を、名声で埋めるために。

 武官の地位に目がくらみ、一人息子に意に沿わぬ結婚を強いたという彼の両親は既に亡い。だからきっと、己の研鑽次第では、道は開けるはずだ。

「ねえ、あんた」

 舞台も終わり、愛する人の腕の中での一時を想っていると、不愉快な呼び声に夢を破られた。

「なあに?」

 寄る年端を化粧の下に隠した、かつての一番人気。そして、フェオドリーの以前の愛人でもあった女は、今日も今日とて眉を吊り上げている。

 ――あたしにあの人を盗られたのが、そんなに気に食わないのかしら。でも、あたしの方が若くて可愛いんだから、仕方ないでしょ?

 格の違いを見せつけてやるためにも、とっておきの笑顔を見せつける。この女には、フィルダの真似はできまい。せいぜい、ひび割れて落剝した白粉で、衣裳を汚すのがおちだ。

「あんた……」

 案の定、目の前の女はフィルダの若さに嫉妬してか、唇を噛みしめるだけで。

「フェオドリー様はあげないけれど、ご友人のデミストフォロス様を狙ってるっていうなら、口を利いてあげましょうか? あの方結構な変人らしいから、案外あんたみたいなのこそお気に召していただけるかもよ?」

 いくら気に食わない先輩とはいえ、弱者への哀れみを忘れるフィルダではない。だから、お情けをかけてやる。しかしかつて一世を風靡した歌姫は、今度は予想に反して哀れむような――ではなく、どこからどう判じてもフィルダを哀れんでいる顔をした。

「お気遣いどうも。と、言いたいところだけれど、その必要はないわ」

「え?」

「私、もうすぐ辞めるの。――結婚するのよ。こんな私でもいいと言ってくれた、私の過去を何もかも受け入れてくれた人と」

「それ、どこの誰?」

 しんと広まった部屋に響いた苦い叫びは、蜜よりも甘い歌声との誉れを一身に集める自分のものであるはずはない。だとしたら、誰が発したものなのだろう。

 もしもこのおばさん・・・・を選んだという間抜けが、地位であれ資産であれ、フェオドリーよりも上に位置する男だったら。フィルダは一体何のために、数人いた支援者パトロンのほとんどを切り捨て、以前よりも程度が落ちた生活に甘んじているのか分からなくなってしまう。今は雌伏の時だからこそ耐え忍んでいるのに。

 いずれ正式な伴侶になったフェオドリーと共に、この舞台に訪れる。そしてフェオドリーを見せびらかし、女優たちの嫉妬に歪む面を観賞するのが、何よりの目標だったのに。なのに、自分より先に誰かに幸福を掴まれては、意味がないではないか。

「あんた、ほんと昔から変わらないわよね。服であれ装飾品であれ男であれ、他人が自分のよりもいいものを持ってると、すぐ手を出す」

 それに何の問題があるのだろう。服も宝石も、それに男だって、より魅力的な持ち主を飾ってこそ、一層輝くものなのに。

「ま、安心なさいよ。私を選んでくれた人は、あんたのフェオドリー様には敵いっこない男だから」

 資産家だけど、貴族ではない。そして、既に若いとは言えない年で、孫までいる。

 自分を嘲る女が手を打った条件は、フィルダの裡の嵐を沈めてくれた。負け犬の遠吠えは聞き流すに限る。けれども、翌日から笑って済まされない出来事が次々に起きてしまったのである。

「どうして……? 次の舞台の主役からあたしを下ろすって、どういうことですか?」

 新進気鋭の劇作家の、伝承を基にした新作。これまで喜劇の名手として名を馳せてきた作家の、従来の印象を一掃した悲劇は、既に地方の都市の劇場で嵐と紛う反応――万雷の拍手と、雨のごとく流れる涙をもって迎えられているという。

 都の文化人の心をも掴むのは間違いなしの名作に、更なる輝きを添えられるのは自分だけ。そうフィルダは信じていた。

「もう結婚が決まってるのに、悪いな。でも、このお妃を最も上手く演じられるのは、君だけなんだ」

「いいえ、そんな。最後に、このような名誉を頂けて幸運ですわ。あの人も、きっと温かく応援してくれるはずです」

 だのに主役に抜擢されたのは、昨夜フィルダを嘲笑ったあの女で。

 ――どういうこと。そうだ。あんた、結婚が決まってるのに支配人に身体で取り入ったんでしょ? 全部、あんたを選んだ間抜けにばらしてやるから、覚悟なさい。

 激高した女は、薄汚い真似で築き上げてきた栄光を奪い取らんとする女に詰めよる。

「ちょっと。ターリャはあんたじゃないんだから、そんな真似するはずないでしょ?」

 しかし腹立たしい女の襟首を掴んだ手は、女優仲間に振り払われてしまった。

「でも! こいつはフェオドリー様があたしを選んだのをずっと妬んでたはずよ! だから今になって、こんな仕返ししてくるんだわ!」

 もしも、フェオドリーが主役の座から降ろされた自分を見限ったら、どうしてくれるのか。どう責任とってくれるつもりなのか。

 将来がかかった一大事に、他の団員の多くの目も忘れて取り乱してしまったのがいけなかったのだろうか。

 フィルダが窮地に陥れられているのに、救いの手を差し伸べようともしない薄情者ども。仲間と称するのも腹立たしい間抜けたちは、最初は呆気にとられるばかりだった。

「ていうか、さっきからフェオドリー様、フェオドリー様って言ってるけどさあ。あの人、そんないい男でもなくない?」

 いつかフィルダが耳飾りを貰ってあげた・・・・・・後輩が、意地悪く唇の端を吊り上げる。

「そうそう。確かに金はあるけれど、上の子供はもうすぐ学習院卒業する年頃よね? じゃあ、いい歳したおっさんじゃない!」

「だのに、いつまでも女をとっかえひっかえしてるし。……そりゃ、もうこんな馬鹿女しか引っかからないわ」

 己を嬲り者にする女たちへの怒りは溶岩のごとく沸き起こり、身を焼いた。けれども、噴出させるのは流石に分が悪すぎる。だが、このまま黙ってはいられない。

 一体どうしたら、この性根がねじ曲がった不細工共を見返せられるだろう。

 血が滲むほどに拳を握りしめた女の、振り乱した髪に隠れた耳は、やがてある男の名を拾い上げた。

「アガフィム・クドゥーシクをモノに出来たっていうんなら、得意になるのも分からないではないけどねえ」

 当代一の美男子との評判をほしいままにし、宮廷中の女を魅了しながら、決して誰にも靡かない氷の貴公子。父が拵えた借金を肩代わりしてもらう見返りとして、武官の地位を義兄に譲ったものの、エレイクの一族として生まれた男。彼は、フェオドリーの妻の弟でもあった。そしてフィルダの何よりの敵は、この弟と仲睦まじいという。

 アガフィムが独身を通しているのも、彼の姉よりも優れた女を探し続けているためだと囁かれていた。フェオドリーの、巷では天使と称される奥方は、慈善家として名高いのである。そんな姉を母親代わりとして育ったのだから、アガフィムの理想が山よりも高くなったのは当然だと。

 付き合いとして歌劇場を訪れるものの、始終つまらなそうな顔をしている美男子は、多くの女優の胸を掻き毟っていた。今フィルダを嘲笑している女のうち何人が、彼に恋文を送っては破り捨てられたのだろう。

 要するに、フィルダがアガフィムを虜にすれば、万事解決するのだ。そうすれば醜女共は歯噛みして悔しがるだろう。支配人も自分を見る目を改め、頭を垂れてやはり新作の主役は君しかいないと懇願するはずだ。それにことが定められた通りに運べば、フィルダはフェオドリーを失わずに済む。

 アガフィムを篭絡する過程で、彼と一晩か二晩は共にするかもしれない。だが、それぐらいの冒険に目を瞑ってくれないフェオドリーではないはずだ。いや、アガフィムを虜にすることでフィルダの価値が上がれば、自ずからフェオドリーの価値も上がる。だから、きっと協力してくれるに違いない。ならば、まず打つべき手は決まっている。

 フィルダが潔く立ち上がり、その場を離れると、頭が空っぽな女どもは面食らっていた。愚鈍な彼女たちでは、自分の頭の回転に付いていけなかったのだろう。

 自室に戻り、過去に関係を持ったアガフィムの上官への文を認める。早速その次の夜に密会できた彼は、腕の中で強請ると約束してくれた。近々獲物を君の狩場に連れてこよう、と。これで、フィルダの勝利は決まったのだ。

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