庭師

 雀斑だらけの頬をぷうと膨らませつつも、オルカは口を動かすのをやめない。弟の許へ泊まり込んでいた若奥様を迎えに行った帰り。隣に座る彼女が褒美として頂戴したという焼き菓子は、歯で挟むとさくりと崩れた。濃厚な牛酪の風味は、確かに食欲をそそるのだが――

「それにしてもお前、食べ過ぎなんじゃないのか?」

 職務として日々身体を動かしている、食欲旺盛な自覚のある庭師のイェーミャでさえ、オルカの食べっぷりには引いてしまった。もっともオルカのこの勢いは、敬愛する主人を蔑ろにされたという怒りを、燃料にしているためなのだろうが。

「いくら、厚化粧女と途中でかち合ったってもさあ。旦那様に愛人がいるなんて、若奥様ももうとっくの昔から分かってて、慣れてるだろ?」

 オルカの機嫌を取るために、若主人の愛人をこき下ろす。秘めた想いに、働き者だが鈍感な彼女が気づいてくれる時は、いつ訪れるのだろうか。

「若奥様だってさあ、もうとっくに諦めてるだろうし。だから、お前がそう騒ぐこたあねえよ」

 オルカが心酔する若奥様ことアレスターシャ。彼女が生を受ける遙か前から没落していたとはいえ、千年続く由緒正しい血統を誇る女性が、夫を愛しているかは定かではない。イェーミャが女だったら、あんな不実な男は到底愛せないだろうが。

 オルカ曰く、若奥様は新婚の頃ならいざ知らず、二人の子を持つ身となっても、他の女の許へ向かった夫を健気に待ち続けているらしい。それでいて、近頃伏せがちになった義母への献身を絶やさず、恵まれない者たちへの慈悲の心を忘れないのだ。もう非の打ちどころがない。しがない庭師としては、近寄り難さを覚えてしまうほどだ。あまりにも完璧すぎる。

 だからイェーミャは、オルカが敬愛する主人でありながら、アレスターシャにさしたる興味や関心を抱いてはいなかった。言葉を交わした覚えもないから当然ではあるが。

 とはいえ、一介の庭師と若奥様の繋がりがないわけではない。アヴァロノフ家の庭の目立たない一画には、イェーミャが世話を任された薬草畑があるのだから。

 夫と結婚する以前の、昔の自分たち同様に困窮した民を、一人でも多く救いたい。

 若奥様とその弟の、崇高な志は、今や寄付だけでは止まらなくなっていた。アレスターシャはなんと、貧しさゆえ医者にかかることもできない者たちのため、婚家に薬草を植えさせたのである。自慢の庭が見苦しくなるとの、義母の反対を押し切ってまで。

 義母に従順な若奥様の、彼女らしからぬ行動の原因は、一家の愛娘リュシオーサが生まれる以前にある。

 若奥様は学院を卒業したばかりの弟と共に孤児院に訪れた際、風邪をこじらせ息を引き取った幼子の姿を目の当たりにした。

 自分もまた子を持つ身であるためか。上流階級ならば数日休めば治るような病に奪われた命のいとけなさに、心優しい奥方は深く悲しんだ。その衝撃の大きさは、自分ばかりが恵まれた生活をするのが申し訳ないと、弟の小さな借家にしばらく引きこもってしまったほどだったという。

 結局若奥様はアヴァロノフ家の使いによって連れ戻された。そしてその後すぐに懐妊が明らかになったため、悲しみを忘れたのだと周囲の人間は判断していた。しかし思慮深い聖女は、決して哀れな幼子を忘れていなかったのである。

 身体を壊したためか以前よりも発言力と存在感が落ちた義母に、アレスターシャがついに勝利したのが二年前になる。それもこれも全て、オルカが休憩がてらに教えてくれた。オルカとて自分が奉公する以前の事情には明るくないし、多分に無意識の脚色が施されているかもしれないが。

 だが確かに、若奥様は素晴らしい御方だろう。でもイェーミャとしては、少しは隙を見せてほしかった。でないと、オルカはたとえ決定的な行動に出ても、自分を意識してはくれない気がする。

「……それも、そうね。でもそれにしても若奥様は、今日も本当にご立派だったわ。途中で出会った物乞いに、若旦那様から頂いた腕輪を、迷うことなく差し上げられて。もっとも、だからその後で出会った化粧お化けに、みすぼらしいなんて馬鹿にされちゃったんだけど」

 アレスターシャはその慈悲深さゆえ、身に着けた衣服はともかく装飾品は、結婚指輪以外はどんな高価な品であっても恵まれない者に与えてしまう。しかし義母のライサは、アレスターシャの施し・・を知れば、我が家の財産だのにと眉を吊り上げるのが常だった。

 ゆえにアレスターシャは、喜捨の場に居合わせた奉公人には、口止めとして細やかな褒美を与える。オルカが幸運・・に預かったのもそうだ。だからイェーミャも、今日のオルカの愚痴を他言するつもりはない。

 少年だった時期は、もうとっくに過ぎている。それでも、好いた女との二人だけの秘密には、心躍らさせずにはいられないのだ。

「あっ、もう仕事に戻らないと」

 慌てて立ち去っていったオルカもまた、主同様に飾り気からは程遠い。だが、イェーミャは彼女の外見ではなく内面に惹かれているので、少しも気にならなかった。むしろ、その地味さゆえに恋慕が募る。

 イェーミャは密かに、若奥様が我が身を投げ打ってまで慈善活動にのめり込んでいるのは、夫に愛されない侘しさを紛らわせるためだと確信していた。つまりしがない庭師は、若奥様を哀れんでいたのだ。若旦那様のような女を見る目がない男と結ばれなければ、若奥様は幸福に暮らせたかもしれないのに、と。だがそれは、思い上がりだったかもしれない。


 庭師が認識を改める切っ掛けは、想い人との一時のすぐ後に訪れた。

 燃えたつ炎。あるいはぴんと経った猫のごとく、筒状の花を連なって咲かせる狐の手袋ジギタリスは、その華やかな見た目とは反して、全体に毒を有する。そんな恐ろしい、けれども打ち身や切り傷への薬効新たかな植物を眺める男女の一対を、イェーミャは遠くからつい発見してしまったのである。もっとも己が丹精込めて育てた花に見入っているのは女のみで、男が熱のこもった眼差しを注ぐのは、傍らの彼女の横顔にであったが。

 注意すべく近寄れば、一対の片方は若奥様アレスターシャ。もう片方は同性であっても見惚れてしまうほど麗しい――だから、正直この屋敷にはあまり訪れてほしくはない男。奥方の弟のアガフィムだった。

 狐の手袋はもちろん薬草畑の植物は全て、若奥様の言いつけで育てているものだ。ついでに植えられている、若奥様が好むという秋水仙コルチカムや鈴蘭も含めて。つまり、アレスターシャがこの植物の毒性を知悉していないはずはない。だから放っておいても良いだろう。姉弟の一時を邪魔してはと、踵を返しかけた途端、ある会話が、耳に飛び込んできた。

「僕が選んだこの指輪、今日も付けてくれてるんだ」

 細い腰を抱き、これまた細い手をとり、指先に唇を落とした弟は、どんな女の心も蕩かしそうな笑みを姉に向けていた。これが、屋敷でどんなに侍女に言い寄られても、冷たい一瞥を寄こすのみだったという弟君なのだろうか。

「当然よ。あなたがわたくしのために買ってくれたものだもの。――大事にするわ。一生」

 雪白の髪を風に遊ばせた奥方は、匂いたつように艶めかしかった。

 香りで人々を誘う花は数あるが、白い花の方が薫り高い傾向がある。イェーミャにそう教えてくれたのは、誰だっただろう。とにもかくにも、相手が弟でなければ、不義を疑われるのは間違いない現場であった。

 若奥様とその弟の仲睦まじさは、屋敷の皆、もちろんイェーミャとて知悉していた。しかし、ここまでだったとは。

 何とはなしに、奥方とその弟にこちらの存在を感づかれては不味い気がして、庭師は慌てて木立の影から立ち去らんとした。が、よくあることだが、転がっていた小枝を踏み折ってしまったのである。

「――あら?」

 仲睦まじい弟を従えた姉は、おっとりと小首をかしげながら、普段イェーミャが手入れしている木の許に歩み寄ってきた。アガフィムは、姫君を守る騎士のごとく、姉の後ろに控えている。

「あなたは、庭師のイェーミャさんでしょう?」

 整ってはいるが華やかさよりも儚さや繊細さばかりが際立つ面に広がった笑みは、どことなく鈴蘭を連想させた。

「アガフィム。この方があの薬草も含めて、この庭の草花を育てているのよ。お若いのに、素晴らしい御方だわ。いつもオルカが話している通り」

 長い睫毛に囲まれた瞳は、血のごとく紅い。若奥様も持つ、かつての大陸東部の覇者である草原の民が持つ赤い瞳は、現在ではイヴォルカ人にとっても見慣れたものとなっていた。現在の帝国には、天主正教の教えを受け入れた草原の民の末裔も少なくない。だのに、今日はその赤さが嫌に気になって。

「わたくしも、あなたが育てている花のように美しければよかったのだけれどね。手もこの通り、荒れは治っても皮膚がすっかり固くなってしまって。こんな指には、華やかすぎるものは似合わないのよ」

 女主人はそっと昔の苦労のほどが偲ばれる指に嵌めた指輪を指し示した。

「それで、いいかと思って結婚指輪を困っている方に差し上げてしまって。でもやっぱり後で後悔していたら、アガフィムが買ってくれたのよ」

 ふわりとほころんだ雪白の面は少女のごとく初々しく、穢れなかった。弟とはいえ、夫以外の男と抱き合っている光景を目撃されたというのに。それとも、イェーミャが気にしすぎているのだろうか。

「もっとも、前の指輪とは意匠が少し違うのだけれどね」

「義兄さんは見る目がない。僕があげたやつの方が、姉さんに似合ってる」

 逞しい背を撫でて、姉は弟をあやしていた。彼は子猫ではないのに。

「アガフィムの言い分はともかく、フェオドリー様がわたくしに興味を持って下さっていないのは確実だわ。指輪が変わったことにすら、気付いて下さらないんだもの。……元々は全てわたくしが悪いのだけれどね」

 淡い紅色の唇が、ふっと寂しげな吐息を漏らす。

「だからね、イェーミャさん。わたくしは、わたくしの周りの――たとえばオルカには、わたくしのような寂しい想いをしてほしくないの。愛し愛される、幸せな結婚をしてほしいのよ。……わたくしが言いたいこと、あなたならもうお分かりでしょう?」

 首を縦に振ると、白い花はついに咲き誇った。

「嬉しいわ! では、後はわたくしが全ていいように取り計らいますからね」

「……あの、」

「披露宴では、沢山お花を飾らないといけませんわね。時期が合えば、秋水仙はどうかしら? オルカもきっと、気に入ってくれると思うわ」

 イェーミャとオルカが細やかながら聖堂で式を挙げたのは、それから約一年後のことだった。妻となったオルカ曰く、若奥様にあんなに真面目で誠実な人は滅多にいないと勧められたのが、結婚の決め手だったのだという。

 若奥様の見る目は確かだった。あたしの今の幸せがあるのは、全て若奥様のおかげ。

 自分の腕の中でうっとりと呟くオルカに対する愛おしさが募る程、恐れもいや増した。イェーミャはきっと、生涯この感覚から逃れられないのだろう。

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