侍女

 オルカは、現在では帝国でも有数の貴族の一員であるアヴァロノフ家に仕えている。侍女であるから当然ではあるのだが、オルカの一日は、主人一家と比すれば二刻は早く始まるのが常だった。

 給金や待遇は、他の貴族の家に仕える同類と比較すれば良い方だろう。しかし、幼い弟妹を仕送りで支える身では、毎日馬車馬となって働いても、菓子一つ買う余裕はなかった。当然、髪も肌も荒れ放題である。もっとも、雀斑そばかすだらけの地味で平凡な顔には、どんな化粧を施しても効果のほどは期待できないので、構わないのだが。それに、若旦那様――アヴァロノフ家の放蕩息子フェオドリーのお手付きになるなんて、考えただけでぞっとする。

「……おはよう、オルカ」

 オルカの心の支えたる若奥様。このガルデニシク帝国をも含む、大陸東部北方イヴォルカの全てを治めていた一族の末裔でありながら、オルカたち使用人にも常に心を配ってくれる御方を裏切るなんて。

「若奥様、今日もお早いお目覚めですね。もっとお眠りになっていても構いませんのに」

「そうね。でも、孤児院に寄付をする服の補修を、早く終わらせてしまいたいから」

 二人の子を持つ身でありながら、若奥様ことアレスターシャの笑みは少女めいていた。女主人にはいつも、昨日は蕾だった鈴蘭の開花を見つけたような気持ちにさせられる。

 どうして若旦那様は、白粉で塗り固めた化粧お化けなんかを囲っているのだろう。それも、身も心もこんなにお美しい奥様を放って。

 今日も今日とて愛人の許に泊まりこんでいる男への憤りを押し殺し、適温に調整した湯と手拭きを差し出す。次いで着替えを終え、髪を結い上げると、若奥様は立派な貴婦人になった。

 あまり煌びやかな衣服だと着ていると気おくれしてしまうという理由で、アレスターシャはいつも質はよいが質素な衣服に身を包んでいる。色彩も濃紺や黒など、平民にとっても地味なものばかりだ。しかしだからこそ、滲む魂の美しさが際立っていた。

 だいたい若奥様だって、十分に整った容姿をしているのに。あの、誰もが見惚れる弟君と比べるからいけないのであって。

「おはようございます、母上!」

 誰に向けるでもない抗弁を心中で噛み殺していると、甲高い声が響いた。

「……おはようございます」

 次いで、ふにゃふにゃとした、可愛らしい挨拶が。

 父にも母にも似ていないが、美しいと評判のアヴァロノフ家の令息と令嬢の真の一日は、母親からの接吻で始まる。

「おはよう、わたくしの天使ちゃんたち」

 ふっくらとした頬に、薄紅の唇が押し当てられる。すると令息は毎日のことながら嬉しげな、令嬢はくすぐったそうな歓声を上げた。

「さあ、朝食に行きましょうね。今日の具入り麺麭ピロシキの中身は何かしらね?」

「わたしは甘く煮たりんごが……」

「俺は、母上と食べられるのなら、なんでもいいです!」 

 あと少しで父親も通った学習院に放り込まれる令息は、妹を跳ね除ける勢いで母親に抱き付いた。令嬢は薔薇の蕾の唇をむっと尖らせたのだが、彼女の兄の視界には入らなかったらしい。

「俺、今日は馬術の練習をするんです。そのうちもっと上手になりますから、そしたら一緒に遠乗りに出かけましょう!」

「それは楽しみね。でも、あまり頑張り過ぎて、怪我をしないようにね。わたくしは、あなたたちが毎日元気に、幸せに暮らせたらそれでいいのよ」

「はい!」

 幼くも凛々しい面立ちは、大好きな母親を前にするといつも蕩ける。青玉サファイアよりも深い青の瞳は、母を独占できる喜びで輝いていた。アレスターシャのもう片方の手は、しっかり娘の手を握っているのだが。

 絵画よりも完成された光景にオルカが感じ入っていると、いつの間にか食堂に到着していた。

「――お義母様。今日のお加減はいかがですか?」

 重い扉を開けばこの屋敷の女主人であり、アレスターシャの義母であるライサが、既に席についていた。

「なんだか胸が苦しくて、つい早く起きてしまったの。でも、今は何ともないわ。それより、」

 母親にべったりの孫について、思うところがあるのだろう。

 最近病がちになった奥様ことライサは、相変わらず母親に纏わりついている孫息子に、ちらと視線を投げかける。そうして、重苦しい溜息を吐いた。すると件のイルキヤンではなく、妹のリュシオーサがびくりと小さな身体を震わせて。子供たちと共にオルカの前に立つ若奥様は、大丈夫よと言いたげに、娘の手を強く握りしめた。

 オルカが敬愛する主は、子供たちを平等に愛しているのだ。唯一の息子ばかり可愛がっていて、娘たちのことはほぼ放置していたという奥様とは違って。

 主人であるアレスターシャは、天上から舞い降りた天使である。それはオルカの中では、当然の事実になっていた。けれどもこうしてまた主人の美質を発見すると、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「……いいえ、何でもないわ」

「でも、何かがあっては大事ですわ。まして今日は、フェオドリー様もいらっしゃいませんのに。すぐに医者の手配を致しましょう。そしたら丁度、朝食が終わる頃には来ていただけるでしょうし。――オルカ」

 本来ならばオルカの早朝の仕事は、主人たちを食事の間に送り届ければ終わりになる。そうして使用人用の食事場に赴き、主人たちのものに比べれば品数も質も劣る朝食を平らげ、しばしの休息をとる。

 決まり切った行程の順序が一つでも崩れれば、どんな影響が及ぶのだろう。もしかしたら、朝の食事に間に合わなくなるかもしれない。

「……お願いしてもよいかしら?」

 それを、アレスターシャも懸念してくれているのだろう。寄せられた細い眉は、申し訳ないと物語っていた。オルカがこの家の侍女でなくとも、この顔で懇願されては無碍にできなかっただろう。

「はい!」

 敬愛する主人を元気づけるためにも腹の底から声を絞り出す。そうして絞り出した返事は、存外に大きく響いた。

 これだけの余力があるのだから、茶の一杯にすらありつけなくとも、なんとかなるだろう。

 覚悟して、けれど出来る限り素早く申し付けられた用事を済ませ、食事場に向かう。

「あ、オーリャ!」

 すると親しくしている仲間の一人が、ひらひらと手を振った。友人たちはあらかた食べ終えたらしく、歓談の花を咲かせている。

「こっちこっち。オーリャの分、取ってあるよ。あと、」

 オルカがほっと安堵の吐息を吐くと、友人はにんまりと微笑んだ。

「若奥様が、あんたは明日の早朝はゆっくりしていいって。それで今日の埋め合わせをしてくれって。ほら、体面上あたしたちの手を借りるけれど、若奥様はほんとはご自分で何でもできる方じゃない? だから大丈夫だって」

 良かったね、と友人たちは頬を緩ませたる。オルカも、心行くまで眠れるのはありがたい。しかし尊敬する若奥様と共にする時間が減るのは残念だった。

「あんた、本当に若奥様のこと大好きだよねえ。女同士だからいいけれど、あんたが男だったらとっくに屋敷から追い出されてたんじゃないの?」

 内心の葛藤が滲み出ていたのだろうか。友人は、苦笑を紅茶で流し込んでいた。オルカとて、自分の敬慕が行き過ぎているという自覚はある。けれども、アレスターシャは本物の聖女で天使なのだ。オルカはそれを、四年前の事件をきっかけに知った。


 オルカは元々は、アレスターシャの娘のリュシオーサの子守をするために雇われた。貧しい家庭に生まれ、母親を早くに亡くした後、六人の弟妹の世話に明け暮れていたという育ちを買われて。それならば、子守も巧みだろうと。

 引き合わされた赤ん坊はうっとりするほど愛らしかった。正直言って自分の弟や妹など、この小さな令嬢と比較するのも烏滸がましい。それでも十七歳だったオルカは、家族を想っては夜毎枕を濡らしていた。

 母亡き後、再婚もせずに一心不乱に働き、自分たちを育ててくれた父は、とうとう身体を壊してしまった。だから、自分が父の役目を果たさないと、家族全員が路頭に迷ってしまう。それでも、家族の許に帰りたかったのだ。

 だからオルカは、ある日令嬢の揺り籠の側の机に置かれた水晶の胸飾りブローチに、つい惑わされてしまったのだろう。

 若旦那様が、娘を産んでくれた感謝の品として、若奥様に贈った装飾品。愛人にはもっと高価な宝石――例えば金剛石ダイヤモンドをあしらった品を贈っているのに。あれでは若奥様が哀れだ。そう、先輩が零していた覚えがある。

 確かに、いつの間にかオルカの手の中に飛び込んでいた胸飾りは、主役の宝石こそ大きいものの安っぽかった。けれども一方で、こう考えてもしまったのだ。

 これぐらいの品ならば、紛失しても・・・・・大事にはならないのではないか。父の病気は、まだ酷くなっていない。だから今の内に手を打てば、回復できるかもしれない。そしたら自分は、懐かしい我が家に戻れる。

 自然、宝石を握る手に力が入る。この時のオルカのただでさえ地味な面はきっと、不埒な考えによって邪悪に捻じ曲げられていたのだろう。

「――ちょっと、貴女!」

 だから胸飾りを探しに来たと思しき年嵩の下女は、オルカの姿を認めるなり、大声を上げたのかもしれない。そうして、平手で打たれた頬の痛みに正気に返った途端、今度は拳を浴びせかけられた。

 自分はきっと、この屋敷から追われるのだろう。未遂とはいえ盗みを働いた使用人なんて、他の家でも雇ってもらえるはずがない。そうしたら、オルカの父や弟妹は、飢え死にする他ないのだ。本当に馬鹿な真似をしてしまった。でも、どんなに後悔しても時は戻らない。

「すぐに若奥様に付きだしてやりますからね!」

 ぐしゃぐしゃに乱れた髪を掴まれ、身体を左右に揺さぶられていると、熱い涙がとめどなく零れてきた。盗人には、嘆く権利などありはしないのに。

 罪の自覚はあっても迸る感情を抑えきれず、とうとうその場に崩れ落ちた途端。軽やかな足音が近づいてきた。

「一体何があったの?」

 騒ぎを聞きつけたのだろう。別室にいたはずの若奥様アレスターシャまでもが、小さな嵐が吹き荒れる一室に姿を現した。

「若奥様!」

 オルカを嬲っていた女は、喜色もあからさまに事の次第を主人に報告する。これで、自分は、いや自分たち一家は完全に終わった。絶望に頭の天辺まで漬かった女は、しかしすぐに暗い淵から引き揚げられた。

「説明するのが遅れてしまったわね。実はその胸飾りは、わたくしが先程オルカに差し上げたものだったのよ」

 この人は、何を言っているのだろう。呆気に取られて面を上げると、聖女よりも神々しい笑みが視界に飛び込んできて。

「あなたもオルカのお父様の御病気については知っているでしょう? だから、薬代にでもなればいいと思って。でも、あなたに説明するのが遅れたばっかりに、済まない事態になってしまったわね」

 この時の若奥様の背に後光が差して見えたのは、幻覚ではあるまい。淑やかに膝を折り、涙に濡れた顔を覗き込んだ人の手の中には、件の胸飾りがあった。

「さあ、もう一度受け取って頂戴」

「でも、」

「あなたはわたくしの娘のために心を砕いてくれているもの。御給金だけではあなたの頑張りに報いるに足りないと、いつも考えていたのよ」

 そっとオルカを抱きしめてくれた若奥様の身体はほっそりとしているが、遠い昔に喪った母を思わせた。オルカ同様に大柄だった母と若奥様では、似ても似つかないのに。

「……わたくしがフェオドリー様に愛されていれば、もっと高価な品を差し上げられたのに。そしたらあなたのお父様も全快できるかもしれないのに、本当に申し訳ないわ」

 若奥様の憂いを帯びた眦から一筋の涙が零れる。オルカはこの時、誓ったのだ。あたしは一生を、この方に捧げようと。


 若奥様の慈悲の心のゆえだろうか。胸飾りで購った薬によって、父の身体は以前ほどではないが良くなった。

 現在ではすぐ下の弟も労働者として働いている。だからオルカは実は、田舎に戻って、そうして実家から通える範囲で新しい職を求められもするのだ。しかし令嬢が子守を必要をしなくなってからは、自分付の下女にオルカを抜擢してくれた若奥様の期待に、少しでも応えたかった。

 麗らかな午後。休まれてはと勧めると、若奥様はだったらあなたもとお菓子の御相伴を許してくれた。

「そうだ。お義母様の調子だけれど、思ったよりもいいみたいなの。胸の痛みも、気分的なもののせいでしょう、って。それもこれも、あなたがすぐに動いてくれたおかげよ」

 罌粟の実の餡を巻いた麺麭菓子が、オルカの好物であると、覚えてくれていたのだろうか。若奥様の心使いには、感謝の念しか湧き起らない。

「それでね、わたくしは明日、アガフィムのところに行くことにしたの。色々と、話し合いたいことがあるのよ。だから、お伴と、あとイルキヤンたちの相手をお願いね。迎えには明後日の正午ぐらいに来てくれればいいから」

「かしこまりました!」

 優しい若奥様にお仕えすることができる幸福を、侍女は甘味と共に噛みしめ嚥下した。

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