夫の友人 Ⅰ
この氷の国においては何より尊い陽光と同じ金色に輝く髪に、青玉のごとく澄んだ瞳。
友人夫婦の待望の長男イルキヤンには、両親に似たところが欠片も見当たらなかった。赤子ながら数多の異性を虜にする未来が約束された面立ちも、友人とはかけ離れている。
これは一体、どうしたことか。祝いの品を片手に――もっとも、銀細工の匙を携えていたのは御付きの使用人であるが――訪れた友人の屋敷。
奥方はまだ出産から二か月しか経っていないのだから、デミストフォロスは当初は長居をするつもりはなかった。けれども、子供の顔を見てほしいという友人の勧めを断りきれず、揺り籠の中を覗きこんだのである。そうして視界に飛び込んできたのは、愛くるしくも父母とはかけ離れた容姿の赤子だ。これで、期待するなという方が難しいだろう。
デミストフォロスはそれこそ物心ついたばかりの幼児だった頃から、他者の諍いや面倒事を観察するのを、賭け事と並ぶ愉しみとしていた。そしてそれは、たとえ渦中にいるのが友人であっても同じである。
内務省直轄の学習院時代に出会った腐れ縁連中の一人フェオドリーは、仲間内では一番成績優秀だったし、見た目だって良い方だった。だが、自分たちどころか学院で最も新参の家系であるのを気に病んでもいた。
その友人が、エレイクの一族の末裔を娶った際の反応は、非常に興味深いものだった。その上跡継ぎの息子が生まれ、元気な産声を耳にした際の友人の歓喜はいかばかりだったろう。そして、赤子の顔を覗き込んだ際の驚愕の程度は、直前の喜びが大きければ大きいほど深かったに違いないのだが……。
「これは一体、どういうことなんだ?」
ちらと様子を窺ってみても、友人の面は溢れんばかりの喜色を湛えたまま。そしてそれが、却って不可解だった。
デミストフォロスとて、親友の幸福を祈る気持ちは人並みには持ち合わせている。フェオドリーが何がしかの事件に巻き込まれたなら、これ以上観察しがいのない局面に陥った際には、救いの手を差し伸べるつもりはあった。デミストフォロスの裡で、好奇心と友情は並立しうるものだというだけで。
「驚くほど可愛い子じゃないか。父親に似なくて良かったなあ、イルキヤン君!」
冗談めかして探りを入れても、友人や、友人自慢の高貴な奥方の顔色はいささかも変わらない。
「それにアレスターシャ! 貴女は相変わらず可憐だ。その上、母としての美しさまで加わって、
「デミストフォロス様ったら。相変わらず、お上手でいらっしゃいますのね」
くすくすと、軽やかに笑う彼女は、魅力的ではあるのだ。豊満で健康的な、
デミストフォロスが愛読する外国の文学の面白さには、彼女のような物憂げな
跡取り息子であるフェオドリーとは違って、兄と弟に挟まれたデミストフォロスは、無理に身を固める必要はない。これはという女が現れるまで気ままな独り身でいても、両親も苦言は呈さないに違いなかった。もっとも、既に諦められているだけなのだが。
さて、次はどんな手を打ったものか。
あからさまに幸せいっぱいといった様子の友人夫妻。及びその間に生まれたはずの赤子の様子を観察していると、応接間の扉が静かに開かれた。
「姉さん。イルキヤンも、ここにいたの?」
そうして現れた少年は、髪の色も目の色も顔立ちも、安らかに眠る赤子と瓜二つ。そういえばフェオドリーが、休暇なので義弟が帰ってきているのだと零していた。
「やあやあ、始めまして。君の義兄の無二の友人、デミストフォロスだ。気軽に、ドゥーミャと呼んでくれたまえ」
友人の息子が誰に似たのか合点がいき、正直落胆した。しかし男は内心を欠片も出さず、とっておきの笑みと手を差し伸べる。けれども、美少年には取り付く島はなかった。
「……どうも」
凛々しく涼やかな切れ長の目は、あと一つ二つ歳を重ねれば、数え切れない女の心臓を恋の炎で焼き尽くし、灰にするのだろう。しかしその色合いとは裏腹に焔を連想させる双眸は、ただただ姉とその赤子に向けられていた。この場にフェオドリーやデミストフォロスがいなければ、姉の
「もう、アガフィムったら。フェオドリー様の大切なご友人に、なんて態度なの」
アレスターシャも、口吻の割に怒った様子はなかった。
「すみません。わたくしは、別のお部屋でこの子に道理というものを言い聞かせますわ」
むしろ、この場を離れる口実ができて、安堵しているようですらある。産後の経過は順調だと聴いてはいたが、未だ本調子ではなかったのだろうか。
「イルキヤンも、連れて行きますわね。殿方だけで積もる話がおありでしょう? 紅茶とお酒と、あと軽く摘まめるものを用意させますわ」
淑やかに一礼したアレスターシャの足音が聞こえなくなった途端。
「お前、幾らなんでも驚き過ぎだろう!」
フェオドリーはらしくなく、豪快に破顔した。己の密かな思惑は、感づかれてはいないらしい。
「確かにイルキヤンは俺にもアレスターシャにも似ていないけれど、俺たちの息子だよ」
「叔父に似たのは、君の息子にとっては幸運だったろう」
「相変わらず言ってくれるなあ」
ひとしきり爆笑したフェオドリーは、早速使用人が運んで来た紅茶を啜った。そしてなぜか、声を抑え、
「まあでも、イルキヤンはきっと祖母似なんだろうな」
感慨深げにひとりごちた。
「前には話しただろう? アガフィムは本当はアレスターシャの父の子ではないって」
「ああ、そうだったね。しかし君、」
――いくら自宅とはいえそんなことをべらべらと捲し立てていいのかね?
使用人は飲み物と摘まみを乗せた台を置いてすぐいなくなった。とはいえ、どこで聞き耳を立てているか定かではないのに。
「父親違いの姉が産んだ子が弟にそっくりということは、アガフィムは母親似なんだろう。アレスターシャが母親の美貌を継がなかったのは残念だけど、イルキヤンには受け継がれたからいいとするよ」
だのにフェオドリーは、何らの躊躇いもなく妻の弟が抱える傷を暴いていた。
「君の細君が、弟君とよく似た男と密通したという可能性も、なくはないような気がするけどなあ」
「……まさか! だってアレスターシャだぞ。そんなこと、ありえない」
「もちろん冗談だけれど。君、それでは奥方には女としての魅力がないと言っているも同然だよ」
「あながち間違ってはいないだろう。いつも地味な服を着て、辛気臭い顔をする女の相手をしたがる男なんて、弟ぐらいだ」
ついでに、いくら自分の好みからは外れているとはいえ、奥方に対して無礼でもある。
繊細な割りに他者の痛みに対しては鈍感。これこそまさにフェオドリーの、観察していて興味深い性質の一つであった。フェオドリーの鈍感さは純朴とも称せる、長所と表裏一体のものでもあるのだが。
「……いや、アレスターシャにとっては、それでいいんだろうな」
ちらと様子を窺うと、フェオドリーはらしくなく思い詰めた顔をしていた。が、それもしばしの間だけで。
「どうしたんだい? やっぱり何か思い当たる節でも――」
「お前、どうしてさっきから俺を寝取られ男にしたがるんだ?」
愛情深い母親の庇護――という名の干渉の下で育ったフェオドリーとは異なり、デミストフォロスは適度に放任されて育った。だから、友人程純粋には物事を受け止められないのである。
「しかし君。良くできた奥方に恵まれて、あんなに可愛い息子までできたんだから、女遊びはもう控えたまえよ」
これまでの人生で一番の愉悦の予感に胸を躍らせつつ、友人の器を葡萄酒で満たす。するとフェオドリーは一息に干した。
「お前は確か、白が好きだったよな?」
デミストフォロスもまた、幽かな琥珀色を湛える杯を傾ける。いつか己の予感の正否が明らかになる時まで、フェオドリーとの友誼は維持しなければならない。
「じゃあ、そのうちまた来るよ」
デミストフォロスの裡に深く張った娯楽の種の成長と共に時は流れた。友人の義弟は優秀な成績で学校を卒業し、都で働きだしたのである。
義兄であるフェオドリーの支援もあり、友人の屋敷の近くの小さな家を借りたアガフィムとは、幾度か顔を合わせた。彫像かおとぎ話の英傑と紛う美青年に成長したアガフィムは、しかし相変わらず姉のみをその瞳に映していて。
弟が働きだしてからしばらく後。友人の妻の再びの懐妊が明らかになり、今度は娘が生まれた。兄に、叔父によく似た、眩いばかりに麗しい女の子だった。
「これだけ美しいのだし、エレイクの末裔でもあるし、リュシオーサはいずれは皇族の妃にだってなれるかもしれない。アレスターシャは本当にいい子を産んでくれたよ」
リュシオーサと名付けられた娘の誕生が――正確には、娘が将来己に齎すだろう栄誉が余程嬉しかったのだろう。相好を崩して揺り籠の中に微笑みかける友人は、幸福そのものだった。
デミストフォロスもまた別の意味で、赤子ながら端整な面立ちの娘の将来が楽しみでならない。ゆえに適当な口実を拵え、以前よりも友人の許を訪れる頻度を増やすと、更に読み取れるものがあった。
友人たちの夫婦生活は相変わらずらしく、一時は鳴りを潜めていた友人の女漁りが復活した。しかし、既に二人の子がいるからと、友人の母も気付かぬ振りを決め込んでいるらしい。全て、酒の席で友人が教えてくれたことだった。
一方、本人にとってはむしろ幸運かもしれないが、夫に放任されているアレスターシャは、弟とともに慈善事業に打ち込みだした。正確には、弟が職を得て以来始めていた活動を、本格化させたのである。
昔の自分たちと同じ、困窮し苦しむ人々を一人でも多く救いたい。崇高な目的を掲げたアレスターシャが、計画を話し合うべく弟の家に向かう。するとフェオドリーは愛人に与えた別邸へ向かうという寸法だった。
さして贅沢をしない。どころか、質素な暮らしぶりのアレスターシャだ。家の評判も良くなるし、これぐらいの自由は許す。むしろどんどんやってほしい。そしたら俺も愛人の許に行く時間が増えるのだから。
締まりのない顔で笑うフェオドリーは、デミストフォロスの頭の中を覗いたら、仰天するに違いない。それとも、巷で「天使の奥方」と称されるようになったアレスターシャがまさか……と、一笑に付すのだろうか。
「リュシオーサは可愛いねえ。将来は私のお嫁さんになってくれるかい?」
三歳になった友人の娘を抱き上げつつ、その後ろで微笑んでいる母親の様子を窺う。なお、リュシオーサの四歳年上の兄は、なぜかデミストフォロスを眼の仇にし、顔を見せると殴りかかってくる。なので今では、母親によってデミストフォロスとの接近禁止が言い渡されていた。
ちなみに、折角屋敷に訪れたというのに、フェオドリーは愛人が侍る別宅にしけこんでいて留守だった。最近では珍しくもないし、だからこそ夫人であるアレスターシャを観察する機会を得られたのであるが。
「やだ! リューシャはへいかのおきさきになる! ドゥーミャはうさんくさいからいやだ!」
予想通りの拒絶を笑い飛ばしつつ幼子を下ろす。すると幼くも美しい娘はとてとてと母に近寄り、
「かあさま、あれみせてー!」
と、裳裾と脚にしがみ付いた。柔らかな金の髪を撫でるアレスターシャの表情には、紛れもない慈しみが浮かんでいる。友人の妻が、己の子供たちを愛しているのは明らかだった。
「あれ、とは?」
一幅の絵画のような情景に、我ながら珍しく見入っていると、儚げな面立ちがふわりとほころんだ。
「わたくしがずっと文鎮代わりにしている短剣には、面白い謂れがありますの」
エレイクの一族が細分化する前の、既に滅んで久しいグリンスク大公国の妃が所持していたという短剣は、呪われている。
刃に時折最初の所有者――月を思わせる金髪に青い瞳の、朧にしか面立ちが分からずとも美しいと判ぜられる女の姿を映す一振りは、粗雑に扱えば持ち主に細やかながら不幸を齎す。また、女がこの刃を愛する男の胸に沈めれば、その男は必ず絶命に至るのだと、アレスターシャは行商人の老婆から伝えられたらしい。
「もっとも、真実かどうかは定かではありませんけれど。あの行商人だって、買い手もつかないがらくたの厄介払いがしたかっただけなのでしょうし。それで、適当な由来をでっちあげてわたくしに押し付けたんですわ」
ふわりと、淡雪の笑みを浮かべた友人の妻は、口振りとは裏腹にその短剣の言われを信じているのかもしれない。恋に恋する少女すら及ばぬ、熱を帯びた眼差しをしていた。彼女には、この短剣で殺したい男がいるのだろうか。
「でもリューシャ、まえみた! きんいろのかみにあおいめのおんなのひとがうつってた!」
「それは多分、刃に映ったリュシオーサの顔よ。だってあなたも金髪に青い目だもの」
鞘に収まっているとはいえ刃は刃だ。アレスターシャは危険な品を我が子からやんわりと取り上げた。彼女の細い指と、幼子特有のふっくらした指の爪は、そっくり同じ形をしている。
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