夫 Ⅰ

 フェオドリーが、自分たちの結婚式は体調を崩して欠席した義弟と顔を合わせるのは、これが初めてだった。

「初めまして。もう知っているでしょうが、アガフィム・ロスティヴォロドフ・クドゥーシクです」

 義弟が帰って・・・来たのは、他でもない姉のため。心労が募って――ここの件を説明する母の語気は、いつになく圧が強かった――倒れたアレスターシャを元気づけるため、母が呼びつけたのだ。

 育ちが育ちだから致し方がないが、義弟は入学当初は皆に後れを取っていたという。しかし寝る間も惜しむ勉学の甲斐あって、近頃はまずまずの成績を収めるようになったのだとか。加えて、もうすぐ休暇が始まるのだから、少しばかり前倒しにしても良いだろう。と、母は判断したのだ。

『あなたは、少しぐらいアレスターシャを見習いなさい。あの娘は務めを果たそうとしているのに』

 自分たちの結婚生活が早々に破綻したのは、フェオドリーの責任ではない。だのに母は息子ばかりを責め立てた。愛人に与えた家から久々に戻ると、使用人たちもまた、氷柱よりも冷たく鋭い目でフェオドリーを非難するばかりで。

 だから義弟を迎える際は、却って安堵したものだった。アガフィムは、自分が勉学に打ち込むことができるのはフェオドリーのおかげだと理解しているだろう。彼ならば、己に刃向かいはすまい。

「ああ。そちらも既にご存じだろうが、俺がフェオドリーだ。会えて嬉しいよ」

 あの子は凄まじい美少年だと父が零していたものの、フェオドリーはさして期待していなかった。だってアレスターシャの弟なのだ。しかしアガフィムは確かに、稀に見る美少年だった。

 柔らかそうな髪は陽光を集めたかのごとき黄金に輝き、同じ色の長い睫毛に囲まれた瞳は、貴石そのものの深い青に煌めいている。顔立ちも、アレスターシャには全く似ていない。

 姉同様に透き通るようだが、姉とは違って健康的な白い肌に刻まれた、高雅な造作は彫像めいていて。同時に、何とも評しがたい華やかさをも漂わせていた。もしも義弟が女だったら、フェオドリーは義弟の方を妻にしていただろう。

「それで、姉さんは……」

 そこにいるだけで周囲の視線を集めずにはいられない美形であるのにかかわらず、義弟は寡黙で内気な性質らしかった。つまり、社交性に欠けていて、陰気なのである。晩餐の間ずっと、フェオドリーが投げかけた世間話に耳を貸さず、姉の容体ばかりを気に懸けていたのがその証拠だ。

 熱は下がったが未だ本調子ではないというアレスターシャは、未だ眠っているはずだ。けれども寝顔を見せれば安心するだろう。

 面倒だという苛立ちは押さえきれないが、アレスターシャの寝室に義弟を案内する。その道中、学校生活はどうかとか尋ねたものの、返されたのは一言二言だけだった。幾らなんでも無愛想すぎやしないか。

 どうせ眠っているのだからと、叩きもせずに扉を開く。

「……え?」

 予想に反して目を覚ましていた妻は、豊かな髪を一本のお下げにしていた。露わになった項はどこか艶めかしい。身体も、顔を合わせない間に随分と女らしい肉が付いていた。寝間着の胸元からは、はっきりと谷間が覗いている。

 これなら、最中ずっと人形か死体同然に黙りこくられていても、どうにか抱けるかもしれない。

 ふらつきながらも寝台から立ち上がった妻を支えるべく伸ばした腕は、しかし何者も掴まなかった。

「アガフィム! ……どうして?」

 フェオドリーの後ろで突っ立ていたはずの義弟の腕の中に納まった妻の頬は、歓喜と驚愕の紅が差している。

「ここの家の人が、姉さんが倒れたって教えてくれて。……だから、来たんだ」

「そう」

 赤い瞳から零れた涙は、少年にしては逞しい胸板を濡らす。並ばれて初めて分かったが、この姉弟は顔立ちのみならず体格もまた似ても似つかなかった。

 小柄で華奢なアレスターシャとは対照的に、アガフィムは骨太でしっかりとした体つきをしている。年の割に背が高くもある義弟は、既に妻よりも頭一つ分は背が高かった。

「会いたかったわ。わたくし、もう何度もあなたの夢を見たのよ」

「僕もだよ、姉さん」

 それでも姉が難なく弟の頬に挨拶の接吻を落とせたのは、指図されずとも少年がかがんだため。この妻が自分から男に接近するのを目の当たりにするのは、これが初めてだった。純潔と引きかえにしてまで守りたかった弟は、例外なのだろう。

「ねえ、晩餐はもう済ませたんでしょう? だったら今日は、ずっとここにいてちょうだい。話したいことや聴きたいことが、沢山あるの」

「……もちろんだよ」

 フェオドリーに尋ねもせずに答えた義弟は、しかしちらりとこちらを窺った。美しい青の瞳には、炎が煌めいている。

 この少年はもしかしたら、姉をフェオドリーに盗られたと、対抗意識を燃やしているのかもしれない。しかし、姉弟水入らずを邪魔立てするほどフェオドリーは無粋ではない。だいたいどうして、この自分がアレスターシャ程度の女を誰かと取り合わなければいけないのだ。

 気配を消しつつ己のものであるはずの寝室から出る。妻と義弟はフェオドリーの気づかいを知ってか知らずか、蕩けた表情で抱き合っていて。潤んだ瞳は、引き込まれそうなほど蠱惑的だった。


 母の策が功を奏したのか、はたまた単なる偶然か。弟と再会してすぐ、アレスターシャは回復した。

「やっぱり、精神的なものだったのね」

 久方ぶりの一家全員揃っての朝食の際、こちらに投げかけられた母の眼差しはまさしく針のごとしで。

「いいえ、お義母さま。全てわたくしの未熟さゆえですわ」

 アレスターシャは良かれと思って夫を庇っているかもしれない。けれどもこういう場合は逆効果であると、どうして察せられないのだろう。フェオドリーは妻の善良さと一体の愚鈍さを呪わずにはいられなかった。しかし、今朝の母の本題は別にあったらしい。

「何はともあれ、あなたはもう少し体をいとわないといけないわ。だから、弟君の看病は、もう他の者に任せてしまいなさい」

 旅の疲れのせいだろう。姉と入れ違いに熱を出した少年は、今は客室で身を休めている。そしてアレスターシャは、病床の弟の許に足しげく通っていた。

 故郷にいた頃はずっとこうしていたからと、呻く弟の汗を拭き、着替えを手伝ってやり、カーシャを一匙ずつ口元に運んでやる。その甲斐甲斐しい様子は周囲の者をいたく感心させていた。アレスターシャは愛情深い母親になるだろうと、皆口を揃えて称賛している。しかし、母の言う通り無理は禁物だった。

「あなたは頑張ってはいるけれど、この家に嫁いだという自覚が少し足りないかもしれないわね。フェオドリーの妻として、真っ先に為すべき務めを忘れてはいけないわ」

「……はい」

「弟も息子も、いくら可愛くったって、甘やかしてばかりでは駄目なのよ。それが男の子というものなの」

 持論を並べ終えると、母は得意げに胸を張って自室に戻っていった。大方、貴婦人の嗜みの一つとされている、編み物か刺繍にでも精を出すのだろう。

 卓を挟んで真向いのアレスターシャの狼狽ぶりには、見苦しさと同時に憐れみを催した。弟は心配だけれど、面と向かって義母に異を唱えられるほど気が強くはない妻だから、どうすればよいのか困惑しているのだろう。

「母上はああ言ったが、俺は気にしない」

 たまらず心中に湧いたままを発すると、印象的な瞳でおずおずと縋られて。

「夜、母上が眠った後にでも弟のところへ行けばいい。お前たちも、母上に見つからないように取り計らってくれ」 

 給仕のために居並ぶ使用人たちは、心得たとばかりに頷いた。恩知らずな彼らは、既にフェオドリーよりもアレスターシャを自分たちの主として仰いでいるのだ。

「――嬉しいですわ、フェオドリー様!」

 すると妻は、ようやくフェオドリーに満面の笑みを向けた。そうして初めて、妻の双眸は理想の美人の条件の一つに挙げられる、大きな巴旦杏アーモンド形をしているのだと気づけた。

 朗らかに佇む妻は、普段の辛気臭さはどこへやら。あの義弟の姉だというのも納得の可憐さで。盛りの花の美さは、やがて回復した義弟が屋敷に逗留している間は保たれていた。もっとも、アレスターシャは夜になれば直ちに弟の許に向かったから、寝所を共にする機会はなかったが。

「お勉強を頑張ってね。でも、体調には気を付けるのよ」

 しかし義弟が寄宿学校へと発った途端、妻の魅力は雨に打たれた花でもあるまいに、儚く散ってしまって。それでも母の言いつけに従い、夫婦の寝室で妻を待つ。すると身支度を整えたアレスターシャが、頼りない拳を握りしめながら、フェオドリーの横に身を滑らせてきた。

 いつもどこか張りつめた様子のアレスターシャだが、今宵の様子は尋常ではない。フェオドリーがどうしたのかと問いかけるよりも先に、噛みしめられていた薄紅の唇が開いた。

「フェオドリー様はあの子を……アガフィムを、如何思われました?」

 日頃から細い声は、もはや虫の羽音そのもの。それでも潤んだ双眸は燭台の炎を写し、魔性の輝きを放っていた。

「どうって……。まあ、少し甘ったれたところは気になるが、」

 頭の程度は知らないが、ごく普通の子供じゃないのか。

 フェオドリーが続く応えを発する前に、なぜだかアレスターシャは突っ伏した。

「フェオドリー様のおっしゃるとおりですわ。でもそれは、あの子のせいではないのです。お義母様がおっしゃったとおり、わたくしがあの子を甘やかしてしまったのが悪いのです。わたくしは、あの子が不憫で……」

 生まれてすぐ母を喪い、父の暴力の的として育った弟を哀れと感じるのは、姉として、人間として当然の道理だ。だのに、アレスターシャは何を思い詰めているのだろう。

 つい眉を寄せていると、いつのまにやら白い面が間近に迫っていた。

「実はあの子はエレイクの一族ではないのです。わたくしたちの母が、父が従軍していた折に村を訪れた、遊芸人の間に身籠った子なのです。これは、村の者は全て知る事実でした。もちろん、アガフィム本人も」

 今まで騙していて申し訳ありませんと泣きじゃくる妻を、取り敢えず抱きしめる。

「それで父は、あの子に暴力を……。わたくしは少しでも、何も悪くないのに虐げられるあの子の助けになりたくて、」

 湿った声で耳元で囁かれた途端、フェオドリーは妻の父親が義弟に暴力を振るっていた理由を悟った。同時に、あの甘ったれで多少生意気な少年に、多少なりとも好意を抱けた。だって、没落はしたもののかつての国主の血統に生まれた、眩いばかりの美少年など、存在自体が面白くない。義弟自身には咎はない傷を知ってはじめて、フェオドリーは義弟に親しみを持てた。

「――厚かましい願いだとは承知しております。けれど、この先もどうかあの子を支えてやっていただけないでしょうか」

 わたくしもこれから務めを果たすべく励みますゆえ。そう締めくくった妻の面には、決意が宿っていた。ふっくらとした唇を塞いでも、柔らかな身体の線を辿っても、身構える様子はない。

 フェオドリーの努力は、思いがけず早く実を結んだ。義弟の出立から十月後、アレスターシャは健やかな男児を生み落としたのである。

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