義母

 荒れの痕跡を隠しきれない細い指に、不釣り合いな黄金の指輪が嵌められる。そうして至聖所に掲げられた聖像画イコンの前で佇む男女はくちづけを交わし、夫婦となった。ライサの嫁ぎ先が、息子が真の貴族となった瞬間でもある。

 錦の婚礼衣装に身を包んだ息子は、親の欲目を抜いても立派だった。聖像画に描かれた、軍装に身を固め異教徒を踏みしめる聖者にすら引けを取らない。

 娘も息子も、己の腹から出てきた子なのだから愛おしいに決まっている。だがしかし、結婚から十年が過ぎても女しか産めず、姑や使用人に陰で痛罵される日々を終わらせてくれた息子を、ライサは一番に想っていた。それに息子は、自分によく似ている。

 ライサは、女に生まれたがゆえに自分は掴めなかった栄誉の全てを、己の分身たる息子に与えてやりたかった。だのにその愛しい息子の妻として、アレスターシャなどを連れてきた夫を、恨みさえしていた頃がもはや懐かしい。

 嫁の身体は、屋敷に到着してから今日に至るまで毎日牛酪バターを使わせた菓子を食べさせていただけあって、華奢ではあるが女らしい丸みを帯びつつある。二か月前、アレスターシャを迎えてすぐに式を行うつもりだった夫を説き伏せた甲斐があったというものだ。あんな身体では、美々しい花嫁衣裳を纏わせても、却って貧相さが際立つだけ。いい笑い者となっていただろう。

 フェオドリーに恥をかかせないためにも、ライサはずっと、アレスターシャに磨きをかけるべく奔走していた。

 嫁の顔立ちは悪くはない。これを認めるのはやや癪だが、いずれも夫の方に似たライサの娘たちよりも、アレスターシャの方が美しくはある。それでも、白すぎる髪や肌に合う布地を探り当てるのには骨が折れたのだが。

 ようやく辿り着いた、真珠が縫い付けられ銀糸の刺繍が施された水色の絹は、花嫁の清楚さを引き立てている。仕立屋もそのように評していた。清楚であるとの賛辞は往々にして、華やかさに欠けるという嘲りを真綿で包んだものに過ぎないのだが。

 己の努力は実を結び、婚礼の招待客からも、可憐な令嬢だとの称賛を集めている。もっとも、多分に世辞が入ってはいるに違いないが。

 祝福の場を聖堂から屋敷へと移しても、花嫁の眼差しはどこか寂しげだった。折角の晴れの日であるにも関わらず。しかし、夫であるフェオドリーの側の招待客は百を越えるのに対して、アレスターシャ側の客はただの一人もいないという事情を鑑みれば、致し方無いのかもしれない。

 アレスターシャは父親の親類との付き合いは絶えてない。しがない地主の娘であったという母親の一族は破産し、どこにいるとも定かではないらしい。ただ独り列席できそうな親族だった弟も、旅支度を整えた途端に体調を崩し、今は寄宿学校で寝込んでいるのだという。つくづく運のない娘だった。

 そう。ライサはすっかり、おとぎ話の春になれば消えてしまう雪娘めいた嫁に、憐れみを覚えていたのだ。かつての国主の末裔として生を受けながらも、貧農同然の暮らしを強いられていたという身の上にではなく、一人の女として。

「――ああ、アレスターシャ。私は今、自分の不運を呪っているところですよ。フェオドリーの妻である貴女の眼差し一つで、こんなにも心揺らいでしまう己の愚かしさをも!」

 息子の友人の一人デミストフォロスは、文官であっても例外的に小役人の謗りを免れる、外務省に勤めている。学習院時代は、幾つもの外国語を自在に操る秀才として鳴らしていたらしい。もっとも、他の分野ではフェオドリーの方が上だったそうなのだが。

 デミストフォロスは、流行の詩人の著作だけでなく、女が手に取ればはしたないと眉を顰められる外国の文学や、歌劇を好んでいるという。そのためか身のこなしもすっきりと洗練された青年が、田舎娘相手に恋に落ちるはずがない。事実、くすんではいるものの金色をした髪に縁どられた端整な面立ちは、余裕の笑みを形作っている。つまりこれは、悲恋に擬せられた世辞なのだ。

「……まあ。都の方は本当にお口が上手ですのね。お世辞でも嬉しいお言葉ですわ」

 息子の友人に、僅かながら強張った笑みを向ける嫁の顔色は、元々の肌の白さを差し引いても血の気がない。並べられた祝いの料理にもほとんど口を付けていなかった。それが、単なる緊張のためであればよいのだが。

 しかしアレスターシャが真に恐れているのが宴の終わり――初夜であったなら。可哀そうかもしれないが、我慢してもらう他はなかった。折角のエレイクの血だ。娶るだけで満足してはならない。必ずや混ぜ合わせなくてはならないのだから。

 ライサの視線を察知したのか。招待客の相手をぎこちなくもそつなくこなしていたアレスターシャは、ふと大きな瞳をこちらに向けた。

 相次ぐ草原の民の侵入と彼らとの混血によって、赤い目は妖魔の証とされていた時代は遠い昔に成り果てた。それでも見つめられれば息を呑んでしまう双眸は、助けを求めていた。それは、夫に他言無用と念を押された、彼女の秘密を把握するがゆえの錯覚かもしれないが。

 いっそ騒々しいほどの賑わいもなりを潜めた。連れだって寝室へと向かった息子夫婦を見送り、ライサはふと夫の様子を窺う。皺が目立つようになった面は、一月前の晩と同じかそれ以上に固く強張っていた。


 婚礼の準備をあらかた整え、後は招待客へ使いを贈るばかりとなったある日。

「旦那様が、大切な話があると、」

 そろそろ寝台に潜り込もうかという時分に、ライサは夫の執務室へと呼び出された。神の前で愛を誓って早三十年余り。ライサの生活習慣は熟知しているはずの夫に混乱と幽かな苛立ちを覚えながらも重い扉を開くと、まず息子の仏頂面が目に入って。

「で、何ですか父上。その、大事な話というのは?」

 フェオドリーは恐らく、晩酌を邪魔されたことに立腹しているのだろう。寝しなの一杯をこよなく愛する息子だから、無理もない。

「アレスターシャのことで、大切な話があるんだ」

 頑固だが優しくはある夫の、いつになく苦味を含んだ声音に、ライサの身は自然固くなる。

「あの娘のことで? 私、今ではあの娘に不満はございませんわよ」

 ライサもすっかり、武官貴族の地位を除いても、あの娘以外の嫁など考えられないまでになっていた。幼少期から苦労を重ねてきたというアレスターシャは、血統を考えれば遙かに格下のライサにも決して驕ったところを見せない。ただただ、義母様、義母様、と雛鳥のごとくライサに付いて回っていた。

 同じエレイクの末裔の一族でも、何不自由なく育てられた令嬢だったら、ライサたちを蔑んでならなかっただろう。いずれ生まれる孫だって、そんな母親の背を見て育つのは哀れである。だからアレスターシャでも良かったのだ。

「まさかあなた、今更あの子をフェオドリーの妻にするのをおやめになるつもり? 私、少しばかり気が早いけれど孫の名前まで考えていましたのに」

 ライサが唇を尖らせると、夫は常になく力ない声を絞り出した。その孫や、フェオドリーの結婚生活に関するかもしれない、重大な話があるのだと。

「アレスターシャの父親が、物取りに襲われて死んだというのは覚えているか?」

「当然ですわ。でもそれにしても、アレスターシャと弟まで殺されなかったのは、幸運でしたわね」

 自分にも関わると知らされて、困惑しているのか。ひたすら黙っている息子の代わりをライサは買って出た。

「そう。そうなのだ。だけど、本当は違うかもしれないのだよ。――夜が明けてすぐ、アレスターシャたちが真っ先に助けを求めに行ったという農民曰く、あの子の顔には殴られたような跡があったそうだから」

「気が動転して転んで拵えたか、物陰に隠れる時にぶつけたんじゃありませんこと? どちらにせよ残る傷じゃなかったんだから、いいじゃありませんか。それに、あの子の父親は確か、」

 ライサにとっては信じがたいが、アレスターシャの飲んだくれの父親は、大切な跡取り息子に度々暴力を振るっていたらしい。そして、生まれてすぐ母親を喪った弟を、姉であるアレスターシャはその身を楯にして守っていたのだと。

 だから、アレスターシャに顔に痣があったところで、考慮するには値しない。せいぜい可哀そうにとか、適当な慰めを垂れておけばよいのだ。なのに夫は、なぜこんな些細な事柄に拘泥するのだろう。

 ライサが眼差しで苛立ちをぶつけると、夫は端の皺が目立ちつつある目をそっと伏せた。

「……私にこの話をしてくれた農婦も――彼女は父親の事件の後、アレスターシャたちが身を寄せていた村長の妻なんだが――同じことを言っていたよ、ライサ」

 けれどアレスターシャは事件の後、大人の男を怖がるようになったらしい。本人はどうにか隠そうとしているらしいが、伯父さながらに懐いていた村長に近寄られただけでも、一瞬身体を硬直させていたのだという。

 夫が躊躇いながらも告げた言葉の裏を察せられないライサではなかった。つまりアレスターシャは父親を殺した野盗から辱めを受けていたのだ。あるいはアレスターシャが、弟を見逃す対価として自ら身体を差し出したのかもしれない。事実、アレスターシャの弟は姉とは対照的に、かすり傷一つ負っていなかったのだという。

「じゃあ、アレスターシャは純潔じゃないんですか!」

 黙りこくっていたフェオドリーが絞り出した指摘は、悲鳴に近かった。

「……ただの無学な農民の憶測だ。だが、」

 ――わたしには、アレスターシャ様やアガフィムに真実を訊ねて、心の傷を抉るなんてできませんでした。酒に呑まれて子供に暴力を振るっていた方だったとはいえ、お父様を亡くしてもいるのです。先月には月のものもやってきて、妊娠していないのは確実だから、アレスターシャ様が純潔でなくてもどうか責めないでください。

 夫の祖父の村から発つ直前、村長の妻が涙ながらに告げたという言葉を、夫は掠れた声で絞り出した。私も彼女と同意見だ。アレスターシャはたとえ傷物でも、こんな成金の家には勿体ないお姫様だ、と。


 息子のつつがない初夜を祈っていると、義憤に駆られたかのごとき面持ちの息子が、寝室から飛び出してきた。ライサが確認に訪れると、果たして新床にいどこは多少の乱れはともかく真っ白のまま。寝台では、裸の嫁が身体を丸めて震えていた。

 唇を噛みしめ、あらかじめ用意していた鳩の血を床に滴らせる。嫁が傷物だったなどと広まったら家の恥だ。だから、口外するつもりはない。けれども瓶を握る手は屈辱のあまり、小刻みに震えてしまって。その様を見つめながら、アレスターシャは申し訳ございませんとしきりに繰り返した。

 初夜の後も嫁は夫婦の務めを拒否しなかったが、息子は半年も経たないうちに、外に女を囲いだした。

 なんでも、アレスターシャは最中もただただ身を固くするばかり。そんな妻を抱かなければいけないと考えるだけでも、気が滅入るのだという。息子は陽気で情熱的な女を好む。いつまでも夫を拒絶する妻の相手は、出来る限り避けたいのだろう。

 アレスターシャは、そんな夫の帰りをいつまでも待っていた。使用人の糾弾の眼差しに負けたライサが、もう先に休んではと勧めるまで、ずっと。

 結婚してから一年が過ぎた頃には、息子たちの夫婦生活は絶えてなくなっていた。だからと言って、使用人の目が光る前でアレスターシャを責められるはずがない。

「お義母様には、なんてお詫びをすればいいのか。わたくしが至らないばかりに、フェオドリー様だけでなく、皆さまにご迷惑をおかけするばかりで……」

 夫に顧みられぬ憐れな嫁は、日々自らを責め、塞ぎこむばかり。

 相変わらず華奢な肩を震わせ、大粒の涙で頬を濡らしながら、独りで夜を明かす日々の果て。アレスターシャは、高熱を出して倒れた。

「大方、疲れが溜っているのでしょう」

 嫁が抱える秘密は伏せて、大まかな事情を打ち明けたからだろう。大慌てで呼んだ医師はアレスターシャに同情的だった。

 このままでは、孫息子を授かるどころではない。

「奥様、」

 痛む蟀谷を抑えるライサは、年若い使用人がおずおずと提示した可能性に、縋らざるを得なかった。

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