婚約者 Ⅱ

「お初にお目にかかります。これからフェオドリー様を夫として、心から敬ってまいります」

 田舎者にしては優雅に礼をした娘は、フェオドリー好みの美女ではなかった。

 卵型の輪郭に納められた造作そのものは繊細に、儚げに整っていると評せる。鼻梁は細く通っていて、小造りだがふっくらとした桃色の唇は、花弁を連想させる可憐さだ。だが伏せられた双眸がどうしようもなく悲しげで、共にいるとものの一刻で息が詰まってしまいそうなのである。

 身体も抱きしめれば折れそうに細く、豊満とは評しがたい。満足に食べることすらできなかったこれまでを鑑みれば、当然かもしれない。しかしフェオドリーは心底落胆させられた。こんな体にはそそられない。

 貧相な体を覆う衣服は、彼女が解放した農民の娘から譲られたものなのだろうか。施された刺繍は精緻かもしれないが、とにもかくにも泥臭すぎた。

 更に、これまた農民よろしく二本の三つ編みにまとめられた髪は、周辺の民族と比して淡い色彩を持つイヴォルカ人の中でも、滅多にないほど色が薄い。

 雪を連想させる、若干の青みを帯びた白い髪は、せめてあと少し濃い色合いだったら銀髪としてもてはやされたかもしれない。だがこれでは、艶はともかくそこらの老人のものと大差なかった。

 そして、けぶる睫毛に縁どられた瞳は、食卓に置かれた葡萄酒よりも鮮烈な赤。イヴォルカに突如として侵攻し、数百年の長きに渡り苦痛と屈辱を味わわせた草原の遊牧民。その首長の血を遠く引いているのだと、如実に表すあけだった。

 遙か昔。分裂と内乱を重ねていたエレイクの一族は、遊牧民の侵攻を抑えきれず、終にはその臣下となり果てた。つまりは、イヴォルカの民という家畜を見張る、牧羊犬の役目を飼い主・・・から押し付けられたのである。中には、率先して蛮族におもねった腑抜けもいたというが。けれども主の贔屓も手伝ってか台頭した家系には、何度か草原の民の姫君が降嫁・・していた。

 アレスターシャは中でも、一代で当時最大の版図を誇る帝国を築いた英傑の次代と、極東に存在していた大国の皇室の娘の間に生まれた姫君の系譜に連なるらしい。とすると、この娘にはなんと尊い血が流れているのだろう。しかし、それは全て亡国の栄華の名残でしかないのだ。

「長旅で疲れたでしょう? ましてあなたは、生まれてからずっと村から出ることすらなかったのだから、」

 母が言外に席についてはと促して初めて、そう遠くない未来フェオドリーの妻となる娘の、強張った面はほころんだ。

「ありがとうございます。……お義母さま」

 容姿に相応しくはある声が、密やかに響く。髪と同じく雪のよう。と称すれば聞こえが良いかもしれないが、白すぎて生気が感じられない肌には、ほんの僅か赤みが差していた。

「母とお呼びできる方ができて、本当に嬉しいですわ。……その、既にお聞き及びかもしれませんが、わたくしは物心つかない頃に母を喪いましたから」

「……私こそ、あなたのような娘ができて嬉しいわ。実を言うと、娘たちが嫁入りしてからずっと、どこか物足りない日々を過ごしていたのよ」

 嫁のみすぼらしさに落胆を隠しきれていなかった母も、慌てて体裁を取り繕う。そうして顔合わせを兼ねた遅い昼食は、恙なく終わった。

 それとなく観察したところ、大した教育は受けられなかったはずなのに、アレスターシャには不作法なところはなかった。事前の父の説明では、彼女の父の酒癖が悪化したため、十歳にならないうちに乳母にすら逃げられたはずなのだが。とすると、これが生まれ持った気品というものなのだろうか。そういえば曽祖父の故郷の村の住人も、しがない小娘であるはずの彼女に心酔していたと聞く。

「では、お言葉に甘えてしばしお休みさせていただきます」

 母が、疲れたでしょうから午睡でもと。言い換えればお前抜きで話したいことがあるからと発すると、娘はしおらしく従った。悲しげに揺れた眼差しから察するに、賢明にも悟ったのかもしれない。自分は期待外れなのだ、と。

 静かな足音が段々と遠ざかり、完全に消えるのを待ってから更にしばらく。

「ねえ、あなた」

 我慢ならないという体で口火を切ったのは母だった。

「嫁取りは慈善事業ではないんですのよ? エレイクの裔の家だって、他にもあるのに、どうして、」

 ――あんなみすぼらしい娘を、大切な跡取りの嫁に選んだんですの?

 母が熱い紅茶と共に飲みこんだ文句は、フェオドリーのものでもあった。アレスターシャはどこか、彼女を迎える前に友人と興じていた骨牌の女王を連想させる。堅苦しくて、つまらない。

「それはそうなんだがお前、アレスターシャは良い娘だろう? 大人しくて、聡明そうで」

 外見には一切触れないあたり、父もまたアレスターシャの容貌に関しては、フェオドリーや母と意見を同じくしているのだろう。だのに、娶るのは自分ではないからといって、よくも勝手な真似をしてくれたものだ。しかし子の結婚相手は親、特に父が決めるのが世の常である。

「それはそうですけれど、でも、残りの借金の肩代わりだけならまだしも、あの子の弟の面倒までこちらで見なければならないのでしょう?」

 アレスターシャの弟アガフィムが今日屋敷に来なかったのは、既に適当な寄宿学校に放り込んできたためなのだという。弟には勉学に励んで、教養ある立派な大人になってほしい。それが、アレスターシャのただ一つの望みだから。

「そりゃあ、フェオドリーに行かせた内務省直轄の帝国学習院ほどの費用はかからないでしょう。でも、納得いきませんわ!」

「所詮はした金じゃないか」

「でも、あの子の弟が大人になった後、陛下の召集があったら従軍しなければならないでしょう? それが真の貴族ってものですもの。――あなたまさか、そのお金すら負担するつもりじゃありませんわよね!?」

 ガルデニシク帝国の官僚は武官、文官、宮内官に分けられ、それぞれが皇帝に奉仕している。けれども待遇及び名誉においては、武官とそれ以外では歴然とした差があった。

 各々十四に区別される等級のうち、武官の場合は最下級の職であっても獲得さえできれば、官位の世襲が――貴族への仲間入りが許される。

 しかし文官および宮内官では、世襲貴族の一員となるには、最低でも八等級まで登りつめなくてはならない。それ以下はただの一代貴族だ。ただし名誉の引きかえとして、武官は一たび皇帝に命じられれば、自費で軍備を整え戦地に向かわねばならないのだが。しかしだからこそ彼らは、土地と小作人の保有が認められているのである。

 それにそもそも、軍務こそが貴族の真の務めという伝統が蔓延るガルデニシク帝国においては、貴族階級出身の文官は少ない。その上、無官の平民にさえ陰で小役人と罵られる屈辱を甘受しなくてはならないのだ。そしてフェオドリーの祖父が、財政難の折に新宮殿建設の費用を献上した礼として、時の皇帝から受け取ったのは文官の五等級。――つまり、そういうことである。祖父は破格の才と財を有しつつも、生涯なり上がりよと宮廷で嘲られ続けた。

 一方アレスターシャの亡父は、武官の十等官だった。下から数えた方が早い位とはいえ、紛うことなき真の貴族。ただしその位も、義務を果たさねば維持できぬのは、世の無情さと称すべきか。はたまた、公平さと取るべきか。

 どちらにせよ帝国の法律においては、世襲武官は常時従軍可能な一族の男子を一人以上国に登録すべしと定められている。その務めが果たせないのなら、たちまち平民にまで落とされるのだ。

「いくら嫁がエレイクの末裔といっても、その実家は既に平民、なんて夜会でいい笑い者になりますもの! あなた、本当にいい買い物・・・をなさいましたわね!」

 母が堪らず皮肉を吐くと、父は何故だか満面の笑みを浮かべた。

「そうなんだよ、お前。これはとてもいい買い物なんだ」

「え?」

「アレスターシャは、弟を武官にするつもりはないらしい。弟には判事か文官の一代貴族にでもなって、平穏に生きてほしいのだと」

 その代わりとして、夫になるフェオドリーを武官として国に申請する。道中で再三確かめたが、あの娘の意思は変わらなかった。

 父が弾む声で告げると、母は今度は歓喜の叫びを上げた。

「で、ではあなた、我が家はついに――」

「ああ。これで、本当の貴族になれるんだ」

 先ほどとは打って変わって、母は涙を流して父に抱き付いていた。母もまた文官貴族の娘である。生まれを詮索され唇を噛みしめた経験は、一度や二度では済まないはずだ。だからこその、この喜びようなのだろう。

 父母のようにあからさまに表しはしないが、フェオドリーの胸中にもまた熱いものがこみ上げていた。

 教師でさえ武官の子を優遇する学習院時代。少年だったフェオドリーは、どれほどの屈辱を味わわされたか。卒業後も、決して越えられぬ溝の深さに、何度絶望させられたか。だがこれからは、金で官位を買った成金と己を罵った輩を存分に見返せられるのだ。

「フェオドリー。あなた、あの子を大切にしないといけないわ。そうね。明日――はまだ疲れが取れていないでしょうから、明後日にでも帝都を案内してやりなさい」

 母の変わり身の早さには、舌を巻かずにはいられない。しかしフェオドリーとて、婚約者を粗雑に扱うつもりはもはやなかった。

 苦労を重ねてきたせいか。フェオドリーや父母のみならず、使用人にすら謙虚なアレスターシャは、たちまち屋敷の面々に受け入れられた。

 三つ編みを解いたら緩く波打つ髪は、流行に則って一部を結い上げる他はそのまま背に流すと、幾ばくか雰囲気も華やぐ。衣装もまた最新式に改めれば、アレスターシャもそれなりの貴婦人に化けた。しかし当世の社交界の、頬も肢体も薔薇さながらの、健やかな女こそ美しいともてはやす風潮からは程遠く、

「素晴らしい時を過ごさせていただいて、まことにありがとうございます」

 見物を終え、屋敷の門を潜る瞬間に向けられた笑みは、相変わらず寂しかったが。フェオドリーがわざわざ時間を割いてやったというのに、嬉しそうな顔一つできないとは、先が思いやられる。


 晩餐の後、青年は母に少しは話をと促され、しぶしぶ婚約者の部屋を訪れた。

「……フェオドリー様」

 するとアレスターシャは、ただのがらくたにしか見えない物体を文鎮代わりにして、手紙を書いていた。そしてそれこそが、彼女の細い腕の中に残された、たった二つの片割れなのである。

 アレスターシャに残された二つのうち一つはもちろん、父曰く大変な美少年だという弟。そしてもう一つは、何やら怪しい曰くがある短剣であった。

 柄の組紐文様の装飾も薄れ、鞘に嵌められていただろう貴石も剥落した短剣は、いつかの代のグリンスク大公妃の所持品だったのだという。つまりは祖先の品だ。だがこれは、彼女の家に代々伝わっていた物ではないらしい。幼い頃に村を訪れた行商人から、不思議な短剣ですから、エレイクの末裔の貴女ならば持つに相応しいと押し付けられたのだという。

 なんでも、所有者である女がこの短剣を愛する男に突き刺すと、その男は必ず絶命に至る。逆に心から慕う男でなければ、どんな深手を負っても一命はとりとめるらしい。

「この短剣の最初の所有者は、それは美しい方だったそうなのです。……わたくしも、ご先祖様のように美しかったら良かったのですが」

 申し訳ないと言わんばかりに面を曇らせた娘が綴っていたのは、弟への手紙らしい。ちらと垣間見えた文面は、退屈なほど善良だった。

 わたくしは大丈夫。夫になるフェオドリー様はもちろん新しいお父様もお母様も、使用人の方も、皆いい人ばかりよ。だから貴方も頑張ってちょうだい、と。

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