奥方と仮面

田所米子

婚約者 Ⅰ

 嵌め殺しの採光窓から、差し込む朝日のためだろうか。フェオドリーの手札に描かれた女王が、色の無い唇をにんまりと吊り上げていた。

 驚愕のあまり反射的に閉ざしてしまった目をこじ開け、骨牌カルタの絵柄を確認する。すると、お澄まし顔は普段通りだった。昨夜から一睡もせずに骨牌遊びに熱中していたのだ。流石に疲労が溜っているのだろうか。

「どうしたのかね? 早く君の札を出したまえよ」

 学習院時代からの悪友の一人デミストフォロスの、揶揄いを含んだ笑みも常と変わりない。だが、今回ばかりは勝機はフェオドリーにあった。

 節くれだってはいるが、剣にも銃にも慣れていない指で、件の女王の札を差し出す。すると、友人たちは皆瞠目した。

「これはたまげたなあ。君にはもう良い札は残っていないのだと確信していたのに」

 自由に会話を楽しめるのは、金銭が絡んでいない遊戯ならではだった。骨牌を用いての賭博の最中は、賭けに関する専門用語しか発してはならない。不正を避けるため、いつとも知れぬ頃からできた規則であった。破ればその時点で負けとされ、多額の支払いを要求されるのも。

 フェオドリーも友人たちも、遊戯は銭が絡んでこそだと疑っていない。が、頭の固い母は、たとえ内々の集まりだとしても、許してくれなかったのである。

 良家の女主人たるもの、自身の屋敷において賭け事が行われるのを見逃してはならない。貴族社会の慣習は、まだ二十代半ばの青年たちにとってはいささか窮屈すぎた。

 成り上がりの癖に、何を格式ばっているのやら。

 もう何度も胸を突き、そして突き付けられてきた嘲りは剣よりも鋭かった。ふわりと漂う幻の――いつか噛みしめすぎた唇から流れた赤い臭いを、白葡萄酒でも押し流せない程に。

 肴もなくなったのだし、流石にこの勝負でお開きにしなければならないだろう。なんせ明日、いや、既に今日は、父がフェオドリーの婚約者を屋敷に連れ帰ってくるのだから。

 試合は、めでたくも自分の一番抜けで終わった。

「じゃあ、色々落ち着いたらまた誘ってくれよ」

「いや、婚礼の日に、一勝負しても面白いんじゃないか?」

 事情を心得ている友人たちは、口々にフェオドリーを囃し立てつつ、迎えの馬車に吸い込まれる。

「それにしても君は運がいいなあ! エレイクの裔の花嫁なんて、僕たち文官貴族にはもったいないお姫様じゃないか」

 ――結婚後は、尻に敷かれないよう気を付けたまえよ。

 朗らかに片手を振った友人と別れた後。青年は覚束ない足取りで自室へと急いだ。

 父の祖父の故郷であり、妻となる娘の父のただ一つの世襲の領土であった、小さな貧村。鄙びているにも程がある村から、大陸東部北方イヴォルカ諸国の、雄であり華であるガルデニシクの帝都までは、どんなに馬を駆らせたところで往復では十日は要する。

 父はきっかり十日前の午前に父祖の地へと発った。つまり少なくとも二、三刻は惰眠を貪れるはずなのだ。身支度を整えるのは、幽かながら頭に立ち込める霧が晴れてからでも遅くはない。

 いや、妻となる娘を待たせたところで、どんな支障があるだろうか。彼女はかつての国主の末裔ではあるものの、農民同然の暮らしを強いられていた貧乏人の娘。片や己は、曽祖父の才覚を礎として都でも有数の財を蓄えた、皇帝の覚えもめでたい伯爵家の跡取り息子なのだ。そんな自分が、娶ったところで財政上は旨味など一切ない女を貰ってやるのだ。それだけでも感謝してもらいたいものである。

 羽毛が詰め込まれた蒲団に潜る寸前。備え付けの姿見に映した顔は、若々しく精悍だった。

 誰もが認める美男ではないが、すっきりと整った容姿。朗らかな気性。備え持った美質ゆえに、フェオドリーは女に不足した覚えはない。そしてこれからも、思うがままに芳しい花の間を飛び回れるはずだったのだ。だのに、堆肥の臭いが沁みついているに違いない、田舎娘を妻にしなければならないなんて。どうせなら、あと十年は遊び歩きたかったものを。

 青年は待ち望んでなどいない花嫁の到着に備え、目蓋を降ろす。薄茶の巻き毛に覆われた頭の中では既に、不本意な運命が決定づけられた春の午後が再現されていた。


 祖父の才覚を継いだ父は、同時に一介の農民から都でも指折りの商人へと身を起こした曽祖父の、昔気質さまで受け継いでいた。

 このイヴォルカ諸国においては、遠い昔――まだイヴォルカが一つの一族に治められていた頃に伝来した、天主正教が国教とされている。父祖の教えが祖先を供養すべきと定めた春の日が近づくと、父は幾人かを伴って祖父が捨てた村へ赴く。そして、墓前に花や菓子を備えるのを習慣としていた。母や三人の姉たちが幾度となく墓を都まで移動させてはと仄めかしても、なお。

 フェオドリーがまだ幼い頃。フェオドリーの母方の祖母、つまり父にとっては義理の母が急な病に倒れたことがあった。だのにいつも通りに旅装に身を固めた父に、母は耐えかねてか涙ながらに詰め寄った。今回ばかりは、帝都にいてくださってもよいではありませんか、と。

『ええい、煩い! 私と祖父の約束に口出しをするな!』

 しかし父は蟀谷こめかみに青筋を立てるばかりで。そうしてそのまま出発したのだから、始末に負えない。

 結局祖母がけろりと全快したのも相まって、以来母も姉たちも、もちろんフェオドリーもこの件への干渉はやめにしたのだった。けれどもそれは、ただの怠慢だったのかもしれない。

「フェオドリー! お前の花嫁が決まったぞ!」

 長旅から戻ったばかりにしてはくたびれていない父に、満面の笑みで己の妻となる女の仔細と経緯を告げられた折。フェオドリーは丁度その場に居合わせた母と、顔を見合わせずにはいられなかった。

 アレスターシャ・ロスティヴォロダナ・クドゥーシカヤ。御年十七歳の、クドゥーシク公爵家の長女。このガルデニシク帝国の前身たるリャスト大公国の、そのまた前身であるグリンスク大公国――イヴォルカ諸国の全ての母であり、かつての中心たる国を建てた勇士エレイクの血を引く、高貴な令嬢。それが、父が大切な跡取り息子であるはずのフェオドリーの妻として選んだ娘だった。

 英雄の子孫たちは、一族の男子全てに領土を分け与えるという、分割相続と内乱を重ねすぎたために弱体化した。現存する三つのグリンスク大公国の後裔国家において、エレイクの一族が国の主の座を失って幾程の時が流れただろう。

 例えばガルデニシクの西。鬱蒼と茂る森に抱かれたナーリャ大公国おいては、エレイクの末裔はほとんど根絶しにされていた。搾取と圧制を恨んだ民草と、怒れる羊たちの間から立ち上がった、新たな支配者によって。

 しかしこのガルデニシク帝国においては、エレイクの一族は現在でも尊敬と憧憬を集めている。国の主という地位と栄誉を喪失してもなお、皇帝の一族に次ぐ位――数代前の皇帝が導入した他国の貴族制度。その中でも最も栄えある、公爵の位を与えられるほどに。

 少年時代のフェオドリー自身、学習院に在席していたエレイクの裔には、言葉にしがたい畏敬の念を覚えたものである。いかに成績で上回っていようと、はたまた年下だろうと。だがそれは、彼らの名誉と権勢が釣り合っていたためだ。

 五代目のグリンスク大公ロスティヴォロド――妻となる女の父と同じ名の支配者の次代から、分割相続は本格化した。彼は、妃との間に儲けた七人の息子に、ほぼ均等に土地を与えたのである。

 広大な領土を支配するにあたって血縁に頼らざるを得なかった千年ほど前では、致し方の無い措置だったのだろう。しかし、六代目以降の公たちは官僚機構が発展してもなお、無計画な分割を重ね続けた。結果、末期には村一つしか継げなかった公や、はたまた父から一切の財産を受け取れなかった公まで現れたのだから、呆れる他ないだろう。アレスターシャもまた、そんな哀れな公の子孫だった。だがそれだけが、彼女の貧困の原因ではない。

 貴族の務めとして集った皇帝の御旗の下、華々しい武勲を上げた彼女の父は、勇名以外のものをも得てしまった。要するに負傷の結果、杖を手放せない身となったのである。

 後遺症は騎馬であればどうにか従軍はできるし、日常生活にさしたる支障はきたさない程度だったという。けれども婚約者の父は段々と塞ぎこみ、次第に酒に溺れていった。念願の息子を産んだ妻が、産後間もなく死亡したのも、酒精アルコールへの依存を強めたのだという。

 荒れ果てるばかりの屋敷に閉じこもり、財産を片端から酒に替えていた男は、昨年の冬にぽっくりと逝ってしまった。酒精ではなく、館に侵入した物取りの、無慈悲な殴打によって。

 物陰で抱きしめ合って恐ろしい一晩をやり過ごした姉弟は、夜が明けるやいなや村長一家に助けを求めた。

 村長を始めとする一行は、ありもしない金目の品を探してか、荒らされるだけ荒らされた室内に入った。そうして無残な亡骸と、ついでに借金の証書を発見したのだという。その額は、たとえ曽祖父の故郷の村の権利を売り払ったとしても、十七歳の姉と十四歳の弟では背負いきれない額だった。

 依るべない姉弟に同情を寄せてならない農民たちだが、だからといって彼らの不幸の肩代わりなどできるはずがない。彼らとて生活があり、家族がいるのだから。

 辺鄙な片田舎では百年に一度起きるかどうかという大騒動。その最中現れた救世主は他ならぬ父であった。

 尊くも哀れな姉弟の保護者を自負する村長は、祖先の墓前にようよう辿り着いた父に、ここ最近の悩みの種を涙ながらに打ち明けた。すると父は、その場でアレスターシャをフェオドリーの妻にするという形で、孤児たちを救う決意を固めたのだという。

「あのエレイクの末裔を貰えるなんて、我が家には勿体ない名誉。ご先祖様もさぞかしお喜びになるだろう」

 砂糖を融かした紅茶を混ぜ混ぜ、話を締めくくった父の表情はいかにも満足げで。だがフェオドリーと母は俄かには納得できそうになかった。

「……ですが、父上。その、借金というのは、どれくらいなので……?」

 取り敢えずフェオドリーが、一番の懸念に言及する。しかし父は、呑気に破顔するばかり。

「お前は心配性だな、フェオドリー。そんなのはな、我が家の財産に比べれば微々たるものだったよ」

 改めて確認したところ、確かにフェオドリーたちにしてみれば些細な代物だった。母が嵌めている指輪一つにすら及ばない程度の。また、妻となる娘は農民たちに自由を与えるという名目で、援助を集っているのだという。

 ガルデニシク帝国においては領土だけでなく、そこで暮らす農民も領主の持ち物とされている。ために農民が領主の許から離れるには、領主が定めた金額で己が自由を買い取らねばならないのだ。

 アレスターシャはその法を逆手に取り、まず自分たち姉弟を援助してくれた村長一家を解放した。すると話を聞きつけた他の農民たちからも細やかながら施しが募り、彼女の父が作った負債そのものは、どうにか返済できる見込みが立ったのだという。だから、フェオドリーが面倒を見なければならないものといえば――


「あなたって子は、どうしてまだ正装していないの!?」 

 目の前で語っているのは父であるはずなのに、声がやけに甲高い。

 違和感に重い目蓋をこじ開けると・・・・、ふくよかな身体を品の良い絹の服で包んだ母が、眉を吊り上げていた。

「そんなことより、顔を洗う水は?」

 合点がいった青年は、慌ててしおらしい表情を張りつける。己の花嫁となる娘が、ついに到着したのだ。


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