平安時代の、ふところ島 ~ なでしこの情景

 第六章の、ふところ島のなでしこの情景は、菅原すがわら孝標たかすえのむすめの『更級日記』に拠りました。


 孝標女は、宮廷の女官で、当時の女流作家のひとりでした。

 十二歳ころ、父に従って、上総の国から、京都に上りました。

 その途中、ふところ島を通って、近辺の景観を書き記しています。


 『更科日記』に書かれたのは、寛仁四年(1020年)の情景です。

 本作でのシーンは、1157年ごろの話ですから、百年ほど誤差がありますが、それほど景色は変わっていなかったものと想像されます。





『更級日記 / 六・すみだ河、もろこしが原』拙訳;



 遠くに、西土肥にしとひという場所の山々が見え、それはまるで、絵を上手にえがいた屏風びょうぶを、並べたよう。


 左手は海で、浜の様子も、寄せては帰る波の景色も、とても素敵だ。

 そこは、もろこしが原という所で、とても砂が白い浜辺を、二三日歩いた。


「五月から七月くらいには、大和撫子やまとなでしこが、濃く、薄く、まるでにしき反物たんものを広げたように、美しく咲くのですよ。今は十月ですから、見えませんけれど……」


 と、地元の人が教えてくれたが、それでもなお、ところどころ、こぼれるように、心をくすぐるように、なでしこの花が咲きわたっていた。


 もろこしは中国、やまとは日本である。


「もろこしが原に、大和撫子が咲くなんて、おかしいわねぇ」

 と、みんなで冗談を言って、笑い合った。



原文;


 にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。

 かたつかたは海、浜のさまも、よせかへるなみのけしきも、いみじうおもしろし。

 もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二・三日ゆく。

「夏は大和撫子の、濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」

 といふに、なほところどころはうちこぼれつつ、あはれげに咲きわたれり。

「もろこしが原に、大和撫子咲きけむこそ」など人々をかしがる。





 「もろこしが原」は、大磯あたりだという説が有力ですが、原文に「二・三日ゆく」とありますから、孝標女の時代には、今の藤沢から土肥までの沿岸がずっと、もろこしが原だったのではないかと考えられます。


 白い砂浜がつづき、なでしこの花が咲き乱れる、素敵な情景が広がっていたことでしょう。


 孝標女が歩いたこの頃(1020年)は、奥州合戦(前九年の役1051-62・後三年の役1083-87)や、権五郎の大庭御厨の立荘以前の話ですから、ふところ島の内陸は、まだ未開の原野、大湿地帯だったと想像されます。

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ふところ島のご隠居・第二部・新都鎌倉編 KAJUN @dkjn

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