平安時代の、ふところ島 ~ なでしこの情景
第六章の、ふところ島のなでしこの情景は、
孝標女は、宮廷の女官で、当時の女流作家のひとりでした。
十二歳ころ、父に従って、上総の国から、京都に上りました。
その途中、ふところ島を通って、近辺の景観を書き記しています。
『更科日記』に書かれたのは、寛仁四年(1020年)の情景です。
本作でのシーンは、1157年ごろの話ですから、百年ほど誤差がありますが、それほど景色は変わっていなかったものと想像されます。
◆
『更級日記 / 六・すみだ河、もろこしが原』拙訳;
遠くに、
左手は海で、浜の様子も、寄せては帰る波の景色も、とても素敵だ。
そこは、もろこしが原という所で、とても砂が白い浜辺を、二三日歩いた。
「五月から七月くらいには、
と、地元の人が教えてくれたが、それでもなお、ところどころ、こぼれるように、心をくすぐるように、なでしこの花が咲きわたっていた。
もろこしは中国、やまとは日本である。
「もろこしが原に、大和撫子が咲くなんて、おかしいわねぇ」
と、みんなで冗談を言って、笑い合った。
原文;
にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風を立て並べたらむやうなり。
かたつ
もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二・三日ゆく。
「夏は大和撫子の、濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」
といふに、なほところどころはうちこぼれつつ、あはれげに咲きわたれり。
「もろこしが原に、大和撫子咲きけむこそ」など人々をかしがる。
◆
「もろこしが原」は、大磯あたりだという説が有力ですが、原文に「二・三日ゆく」とありますから、孝標女の時代には、今の藤沢から土肥までの沿岸がずっと、もろこしが原だったのではないかと考えられます。
白い砂浜がつづき、なでしこの花が咲き乱れる、素敵な情景が広がっていたことでしょう。
孝標女が歩いたこの頃(1020年)は、奥州合戦(前九年の役1051-62・後三年の役1083-87)や、権五郎の大庭御厨の立荘以前の話ですから、ふところ島の内陸は、まだ未開の原野、大湿地帯だったと想像されます。
ふところ島のご隠居・第二部・新都鎌倉編 KAJUN @dkjn
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