鎌倉時代の、甘縄
鎌倉時代の鎌倉には、主要な南北道が、三本あります。
「西の道」「若宮大路」「町大路」です。
中央の「若宮大路」は、鶴岡八幡宮から伸びる、鎌倉の背骨です。
若宮大路に平行する西側の主要道は、今、仮に「西の道」と書きましたが、吾妻鏡を読むかぎり、特に名前はなかったようです。
寿福寺から、六地蔵、長谷へと至る、この「西の道」の名前について、江戸時代には、寿福寺から巽神社までを「今小路」、巽神社から長谷までを「長谷小路」と呼びました。(『新編鎌倉志・巻之五』)
鎌倉時代には、「今小路」「長谷小路」という名は出てきませんが、この「西の道」と、若宮大路二の鳥居に至る東西道が交わる場所に、安達家の「甘縄屋敷」があったことが、吾妻鏡に記されています。(『吾妻鏡』寛元5・6月5日条)
(現在では、扇ガ谷1丁目のキリスト教会のあたりになるか)
つまり、鎌倉時代にはかなり広い範囲が、「甘縄」と呼ばれていたのであり、この「西の道」も鎌倉時代には、フィーリング的には「甘縄の道」という感じだったのでしょう。
安達家の甘縄屋敷は、大倉御所が火事で焼けた時に、代理御所として使用されるなど、吾妻鏡に幾度となく登場する、名屋敷です。
このあたりには、かつての鎌倉郡衙の遺跡(現・御成小学校)も存在し、源氏代々の亀谷館まで存在しました。
それゆえこの屋敷・屋敷地も、古くから存在する、非常に重要な、由緒ある屋敷であったと、考えられます。(藤九郎が入手する以前から)
「甘縄」の範囲としては、おそらく、次のように対応しているものと考えられます。
江戸時代 鎌倉時代
今小路 = 亀谷
長谷小路 = 甘縄
吾妻鏡では「甘縄神明宮」「御霊社」も登場しますから、南西は「甘縄神明宮」「御霊社」、北東は「安達家の甘縄屋敷」をふくむ、「亀谷/巽神社」より南の長い道、つまり江戸時代の「長谷小路」が、鎌倉時代には「甘縄」だったと考えられます。
ちなみに、「大路(おほぢ)」とは、大きな道、広い道のことではなく、お役所や、重要な寺社に、直接つながる公道のことを言ったようです。(鎌倉の場合は、大倉御所と鶴岡八幡宮)
この意味で、「甘縄の道」は、「大路」とは呼ばれえないのです。
現在、甘縄神明社の脇にある安達屋敷跡は、おそらく推量するならば、甘縄神明宮を管理するための別当屋敷のようなものだったのでしょう。
この神明社脇の屋敷と、吾妻鏡に出てくる安達家代々の甘縄屋敷とは、異なります。
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