第30話 化け物との話し合い、すれ違い
「は?」
八尋が何の言語を話しているのかすら聞き取れない。
まるで八尋が宇宙人にでもなったかのように感じる。
それぐらい、彼女の思考が理解不能だった。
「ほら、客の男にひどい目に合わされたんでしょ? そういうの、同性の親でないとなかなか分かってあげられないのよね」
どの口がほざく。
どの口でのうのうと謡っていられる。
そういう目に合わせたのはお前だ。
お前のせいで美海は心に深い傷を負ったのだ。
なのに加害者は自分ではないみたいに……!
「お……ま、え……!」
あまりの言い草に、怒りで手が震え、視界が真っ白に染まる。
言ってやりたいことが多すぎて、まともに呼吸することすら困難だった。
「いい加減に――」
机に身を乗り出して八尋の襟首でもつかもうと手を伸ばそうとしたところで、
「お父さん」
美海が繋いでいた私の手をぎゅっと握りしめる。
そのおかげで自分を取り戻すことができた。
「私は、だいじょうぶ……だから」
だから、お母さんと同じところに堕ちないで。
そんなことを言われたように思える。
「……ありがとう、助かったよ」
「うん」
そう。美海の案じた通り、暴力はダメだ。
私が襟首を掴んでいたら私自身の立場が危うくなり、ひいては美海の不利につながる。
払い戻し金の相殺やDV申し立てによる親権移譲など、実際の被害を受けるのはむしろ美海になるだろう。
もしかしたら、八尋はそれをこそ狙っているのかもしれなかった。
「…………」
深く息を吸い込み、一旦止めてから一気に吐き出す。
胸の中に渦巻いている感情を少し外に追い出してから八尋に向き直った。
「……本気で、そんな風に考えているのか?」
「本気よ。子どもに母親は必要不可欠なんだから。これが私なりに考えた形だけじゃない謝罪なのよ」
八尋の目は真剣そのもので、本当に一片の曇りもなかった。
「あなたと私はよりを戻せるし、美海も助かる。初海は少し反抗的だけど、私との時間が増えれば分かってくれると思うし」
本気でそれこそが必要なのだと考えているか、それしか道が無いからそう思い込んだのか。
いずれにせよ、八尋は『本物』だ。
私たちの理解が及ばないことわりによって動いている化け物だ。
「ね、全員がハッピーになれる方法でしょ?」
「…………」
「…………」
お前だけがハッピーになれる方法だ、とは声にこそ出さなかったが私だけでなく美海も思い浮かべただろう。
「それをしたとして、お前はこの家に住むつもりか?」
「もちろんそのつもりだけど? 母親は一緒じゃないとできないでしょ」
「………………はぁ」
盛大なため息が漏れる。
怒りが禁止されている場合、出てくるのは疲労感だということを人生で初めて知った。
「私がお前と離婚したのは、お前と一緒に生活したくなかったからだ」
「あなたはそうかもしれないけど、今は美海のためを思っての――」
「美海もお前とは暮らしたくなかったから設楽美海から嵩根美海になったんだ。初海だって斎藤初美になりたいと言っている」
姓名を変えたいと願うほど嫌われているなんて、そもそも母親以前に人として如何に信用がないかの証左だろう。
「私たち全員が、お前とは顔も合わせたくないんだ。お前の提案は、お前にとってだけ都合のいい妄言に過ぎない」
今度は、八尋が激昂する番だった。
膝立ちになって机に両手をついて身を乗り出し、顔を真っ赤にして睨みつけてくる。
「――それはあなたの意見でしょうっ!!」
「事実だ。全員が望んだからこそ裁判所が受理している」
私を陥落できないと見るや、八尋は矛先を私の隣――美海へと向けた。
「美海っ! あなたはお母さんを見捨てないわよねっ!!」
「――――っ」
私の手を握る美海の手がグッと強張った。
心の古傷を抉られて怖いのだろう。
美海自身が思い出したくないからとあまり教えてはくれなかったため、詳しくは知らない。
けれど、額に薄っすらと残る傷あとや背中にいくつか存在する火傷の痕などから、なにをされてきたのかはうっすらと想像がつく。
これ以上美海を傷つけさせないためにも、私が盾になるべきだ。
そう考える私を、しかし美海自身が引き止めた。
「…………っ」
震えながらも美海の手が、指が、私の指と交互に絡み合って結ばれる。
その行動には、美海の強い決意があるように感じられた。
「……さん」
顔を横に向けて美海を見る。
美海の頬は涙に濡れて、顔は恐怖に引きつっていた。
けれどその瞳には、確かに決意の光が宿っていた。
「先に見捨てたのはお母さん……ううん、違いますね」
美海は一度頭を振ってから八尋の瞳を正面から見据えて、
「設楽さんの方ですよ」
苗字で呼んだ。
「――なっ」
他人行儀どころの話ではない。
母とすら呼ばない、呼びたくない。
あるのは完全な否定のみ。
そんな、確固たる意志の表れだ。
「アンタ、私の部屋に住んでたこと忘れたのっ!? アンタが着てた服だって私の金で買ったものじゃないっ!! 生意気言うんじゃないわよっ!!」
「娘である私にパパ活をさせてお金を稼がせる道具に使うのは、十分に見捨てていると思いますが」
声の端々は震えている。
けれど美海は八尋に逆らってみせた。
これは、私が記憶している限り初めてのことではないだろうか。
もしそうならば、今こそ八尋を乗り越えるきっかけになるのではないかと思えてくる。
頑張れ。との意思を籠めて、繋ぐ美海の手を包み込むようにもう片方の手も重ねた。
「……それに、設楽さんが飽きて着なくなった服やゴミ捨て場で拾って来た服を着せておくのが子育てと言えるでしょうか。ここ日本の基準だと、虐待にあたると思います」
「ああ言えばこう言う……。ガキのアンタは私の言うことに黙って従ってればいいの!」
「待てっ!!」
私が静止しなければ、八尋は振り上げた手をどうしていただろう。
間違いなく美海を叩いていたはずだ。
もう見逃すことはできなかった。
体を浮かせ、上半身をふたりの間に差し込んで美海への敵意を遮る。
「八尋。例えお前がこの家に入ることができたとしても、強制執行による差し押さえは解かない。絶対に、なにがあっても」
「なによそれっ!! 私に死ねって言うの!?」
「死ぬほどじゃないだろう。生活の質を落とせ」
裁判所が行う強制執行は、きちんと最低限生活できるお金は残してくれる。
今の八尋は実家に身を寄せているはずなので、衣食住すべてが保証されているはずだから給料を全部失ったとしても死ぬなんてことはないはずだった。
「私がっ! 路上で物乞いをするみたいなっ! そんなみじめな生活をしろっていうのっ!!」
「今までの贅沢は、そもそもこれから先にお前が稼ぐ金を前借りして成り立ってたものだ。恨むなら過去の自分を恨め」
「…………っ!」
鬼のような形相で私たちの方を睨みつけてはいたが、ようやく八尋が口を閉ざす。
私たちが言ったことは、恐らくなにも彼女の心に届いていないだろう。
けれど、金を払わせ続けるということだけは理解してくれたのかもしれない。
最初の殊勝な態度に騙されたが、八尋はやはり八尋だ。
話なんて出来る相手ではなかった。
「もう帰れ。私たちはお前から私たちのものを……家族としての人生を取り戻す。それだけだ」
最後通牒を突き付けて、話し合いを終わらせる。
そのつもりだったのに――。
「お父さんっ」
「――――くっ」
突如として八尋が机を飛び越え、襲い掛かってくる。
体勢を崩した私の体に跨って、両手を拘束するつもりか、手首を掴んで畳に押し付けて来た。
結局はこうなるのかと、半ば諦めにも近い感情が胸の内で沸き起こる。
だが、違った。
「なぁんだ」
八尋は、化け物だ。
認識そのものが私とは違う。
「そんなに私が欲しかったんだぁ。最初から言ってよね」
ニタリと歪んだ笑みを浮かべた八尋が私に覆いかぶさると、そのまま唇を押し付けて来た。
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