第21話 娘のために、私のために
元義母である斎藤洋子を、入り口から入ってすぐの客室兼和室へと通す。
洋子には床の間の前である上座に――嫌であったが――座ってもらい、私を含めた三人は中央に置かれた座敷机を挟んで反対側に腰を下ろした。
「離婚の時に嫌というほど話をした覚えがありますが、もう一度手順をお話しした方がいいですか?」
「……基本的にわたくしたちはどの様な提案をされても受け入れるつもりでございます。娘がこのようなご迷惑をおかけして……本当に……」
謝罪は要らないと言ったはずだが、またも頭を下げられる。
注意したところで恐らく止めないだろうから、無視して話を続けることにした。
「録音は終わったらデータをお送りいたします。弁護士はまだ時間が作れていないとのことですから……」
必要事項を並べ立て、形だけの了承を取ってから……本題を切り出した。
「八尋が美海になにをやらせようとしたかは知っていると思いますが、まずはこちらをご覧ください」
「は、はい……」
私が数字の記された紙を二枚渡すと、洋子は恐縮しながら書類を両手で受け取った。
「それは、美海と初海の血液検査の結果です」
「はぁ……」
反応が鈍い。
歳を取ったというのなら、血液検査をする意味くらい分かってもいいだろうに。
彼女の鈍さが少し不快だった。
「医者に確認してもらっても結構ですが、記されている数値は栄養失調一歩手前のものです」
「えっ」
つまり、あのまま八尋の元で生活していたら、子どもたちは死ぬ可能性すらあったというわけだ。
「ですので、命の危険があると判断して緊急保護を行いました。八尋には子どもを養育する能力がないということになります」
日本の法律は基本的に親権を持っている者が有利に作られている。
子ども自身の意思で親から逃亡しても、匿った人間に誘拐が成立することだってあるくらいだ。
美海には売春の強要という保護するに能う理由が存在するのだが、初海にはない。
初海をこの家に泊めるためには、八尋の元に居ては危険があることを認めさせなければならなかった。
もっとも、私の現在している行為が誘拐にあたるなんて、裁判官以外は判断しないだろうが。
「それはどうなのか、わたくしでは判断――」
「なんでしたら料理を主に誰がしていたのか、初海が友人宅でした食事の回数も付けましょうか? 汚部屋といっても差し支えないアパートやこの子たちの自室扱いである押し入れの写真は必要ですか?」
「…………」
反論を更なる証拠の暴力で封じ込める。
先ほどどんな提案でも受け入れると言った舌の根の乾かぬ内に、娘の擁護。
ただ、誰しも自分の子どもが可愛くて当たり前なのだからこうなるのも予想の範疇内であった。
「八尋に養育の能力がない。その事実を前提としてお話しさせていただいてよろしいですね?」
「それは……」
問いかけの形だけれど、実質返事の強要である。
肯定以外の返事は求めていなかった。
「返事は、はいかいいえでお願いします」
俯いていた洋子の唇が一度横に引きしばられた後、蚊の鳴くような声で白旗を掲げた。
「では、私の要求を伝えさせていただきます」
ちらりと右後方――美海の方を見やる。
美海は正座したままうつむいて、黙りこくっていた。
「一つ目は美海の親権を私に移譲すること」
「……はい」
先ほどの威圧が効いたからか、この要求はすんなりと通った。
問題は、次だ。
「二つ目は、養育費についてです」
「それは……あの子に払えるとは思えませんが……」
自分の子どもの事をよくご存じのようだ。
私も八尋には無理だと結論づけた。
だから……。
「はい。これからの養育費を請求するつもりはありません。ついでに私の慰謝料二百万円も、支払い能力はないでしょうから結構です」
「うぇっ!? にひゃ――」
左後方――初海が素っ頓狂な声を出す。
中学生には額が多すぎて驚くような話だったのかもしれない。
不貞行為による浮気の恐怖を歳若いうちから刻まれてしまった少女に「しーっ」と注意をしてから話を続ける。
「その二つを請求しない代わりに、使い込んだ養育費の返還を求めたいだけです」
「よう……いく……ひ……」
洋子はまさに寝耳に水といった感じで呆然とした様子であった。
この様子だと、私が養育費を払い続けていたことを聞いていなかったらしい。
八尋のことだから、嘘をついて金の無心でもしていても不思議ではなかった。
「こちら、振り込んできた取引履歴です」
用意していた書類を目の前に差し出すと、洋子は紙面に目を走らせる。
「つ、月十五万円っ!?」
「はい。相場の二倍以上、今までずっと支払い続けてきました」
「…………」
絶句を通り越してあきれてものも言えないのだろう。
浅く呼吸を繰り返し、書類を握る手は震えていた。
「わ、私にも見せてもらえませんか!?」
唐突に、背後から美海が体を乗り出して書類の端を掴む。
そこまでしたところで、美海は我に返ったのか動きを止める。
「……すみません。なんでも、ありません」
そういえば、お金については郵便局に行くだけで終わってしまったので美海たちには何も話していなかったことを思い出す。
考えてみれば赤貧にあえぐ生活をせざるを得なかったのは八尋の使い込みが原因で、美海はそれを知らなかったのだ。
美海も履歴を見る権利くらいあるだろう。
「美海はこっちの通帳を見るといい。全部とはいかないが、今年のぶんくらいなら分かるはずだから」
「…………」
私が差し出した通帳を、美海はじっと睨みつける。
彼女の凍り付いた表情からは何も読み取ることはできなかったが、八尋への憤りは察するに余りあった。
「おと…………」
なにかを言いかけて、口を閉じる。
結局、美海がその続きを口にすることはなかった。
無言のまま私から通帳を受け取ると、ページを一枚一枚めくっていく。
美海も、初めて知った事実を前にショックを隠し切れていなかった。
「これだけの額を、八尋は美海から搾取していました。これは、美海に返還されるべきお金です」
「…………」
視線を洋子に戻して要求を再度伝える。
しばらくの間、洋子は黙ったまま書類を睨みつけていたが、何度か首を振った後に鋭い瞳を向けて来た。
「こんな大金、返せませんっ」
「こんな大金を私には払わせたのにですか?」
「それは……」
月十五万円。
年にすれば百八十万円。
決して楽に生活できる額ではないが、援助交際に手を染めなくても大丈夫な額のはずだった。
「なんの
この金は私が既に払い続けて来たものだ。
欲しいものも我慢して。
時には食費なども切り詰めて。
ただただ美海の生活が少しでも楽になるのなら、と。
「自分のために娘の金を奪っておいて、娘のために返すことすらしないとおっしゃる!?」
「……それは……」
私だけが煮え湯を飲まされるのならば構わない。
けれど、これは違う。
娘の将来がかかっている。
絶対に勝ち取らねばならなかった。
「や、八尋が全額着服したとも限りません。実際、アパートには住めていたのでしょう!?」
「…………」
苦し紛れの反撃とはいえ、確かに痛い所をついている。
家賃は美海のために金を使っていることにもなるだろう。
他にも例えば光熱費だったりは、誰に使ったものなのかを証明することは不可能だ。
故に、養育費は使い込みが基本的に成立せず、刑法の罰も存在しない。
例え着服したとしても裁判である程度の返済要求が出来こそすれ、返済の義務はほとんどなかった。
だが、それを受け入れるわけにはいかない。
認めるわけには、絶対にいかない。
「では、八尋に直接聞いてみましょうか」
だから私は、
「実家、つまりあなた方のお宅に匿ってらっしゃるのでしょう? 電話してください」
手札を切った。
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