第20話 三千世界に鴉は鳴かず
「ねえ令次。炭酸ない? 甘くないやつ」
ドバンっと派手な音がするほどの勢いで書斎の入り口を開け、遠慮斟酌など一切ない態度でずかずかと入り込んできた初海に、思わず苦笑してしまった。
たった三日ですっかり馴染んでしまったのは、彼女の人懐っこい気性のなせる
「お客さまにお出しするのはお茶が一般的だと思うんだが」
「ん。だからアタシ用」
なんとも自由な物言いに、思わず脱力して肩を落とした。
「お前な、飲みすぎだぞ?」
「だってぇ……」
初海は照れ臭そうに金色の短髪をガシガシと掻く。
買ったばかりのパーカーに描かれたデフォルメされた動物の顔もテヘッなんて言いながら舌を出していて、今の初海と少しシンクロしていた。
「炭酸とか飲んだことほとんどなかったからさ」
「あー……」
初海たちは部屋の隅に追いやられるような生活をしていた。
もちろん、まともな食事はさせてもらえなかったし、一日なにも食べられない様なことだってあったらしい。
初日に行った寿司パーティーの時も涙を流して笑いながらがっついていて、とても不憫に感じたことを思い出す。
「飲んでいいけどお客さんが居ない所でな」
「うっしゃ、作戦成功っ」
「……言ってたら意味ないだろ」
まあ、こちらも取り消すつもりはなかったので、甘すぎると認識されているのかもしれない。
「レポートも満点取る様に」との条件も付け足して、父親としての面目を保ったことで話を終わりにした。
「んで、なにやってんの? もうすぐバアちゃんたち来るんでしょ?」
てふてふと歩いてきた初海が私の肩に顎を乗せてPCの画面をのぞき込む。
平日の昼間とはいえ今モニターに映っているのは仕事とまったく関係のない、調停などに関する情報だったので見られても問題はなかった。
「ネットでちょっと情報収集をな」
「あ~、戦闘準備だ。戦争だっけ?」
「……やめなさい」
あの時は怒りで我を忘れていたからこそ戦争なんて言葉を使ったのだ。
冷静になった今だと少し恥ずかしかった。
「そんな大層なものじゃなくて、同じような体験をした人たちの気構えを知っておこうという程度のものだよ」
「ふーん」
「……アゴを鎖骨に突き刺すのはやめなさい。地味に痛いから」
「うい~。じゃあゲーム機持ってっていい?」
なにがじゃあなんだ。関係ないだろう。
「やり過ぎるからダメ」
「けち~」
初海は今までできなかった未知の体験が楽しくて仕方がないのだろう。
とにかくなんにでも興味を持ち、寝る間を惜しんでやろうとするものだから、こちらが制限しないと体を壊してしまいそうだった。
「というか、これからする話し合いの意味わかってるのか? 初海は当事者なんだぞ」
「分かってるけどさぁ……分かってるから……じゃん」
初海は口の中でもごもごと呟き、後半に至っては耳元で囁かれているのに聞き取れなくなってしまう。
まあ、自分の将来すら左右しかねない決断をほんの数時間以内にしろと迫っているのだからずいぶんと酷な話ではあった。
「……ごめん、難しいよな」
「うぅん」
頭の上にポンと手を置くと、初海は首を振る。
彼女の否定は、私の謝罪に対してだろう。
「…………」
初海は、ちょっと粗暴でお調子者なところはあるが、基本は素直ないい娘だ。
だから初海を引き取ることも考えている。
けれど、彼女がどう思うかが分からない。
初海の父親は、私から妻を寝取った相手である。
私に対して複雑な感情を抱えているであろうことは想像に難くなかった。
「どんな結論を出してもいいんだぞ。私は……」
一瞬ためらって、直接的な言及は避けることにする。
いま一番安直な道を提示して、選択の邪魔をしたくなかったからだ。
「私はどんな道であろうと応援するよ、絶対」
「……ありがと」
ポンポンと頭を軽く叩くと、初海は「えへへ」と笑いながらアゴでグリグリと肩をえぐってくる。
これも地味に痛かったが、照れ隠しだろうから黙って受け入れた。
「令次って良い人だよね」
「……良い人だけどつまらないって言われるタイプだけどな」
「うっわ。言ったやつ見る目なっ」
美海と似たような反応をするあたり、やはり姉妹なのだと得心が行った。
「八尋だ」
「……納得」
次いで母親と似ていないところも似ているようだ。
反面教師という意味では、八尋はとてもいい母親だったのだろう。
「お互い八尋には困らされたみたいだな」
「そりゃもちろん。聞いてよ。あのクソばばあが居るせいでさ、友達ってかその親が――」
そうして共通の人物に対する不平不満で盛り上がっている所に、
「初海、なにしてるの」
冷ややかな声が割って入った。
「――っ」
「はうっ!!」
決して悪いことをしたわけではないし、後ろ暗いことでもない。
けれど、美海の声には咎めるような響きと有無を言わせない迫力があった。
「い、いやこれはだな……」
「令次。私が言われてるんだって」
「あ、ああそうだった」
まったく関係ないはずなのに、浮気現場を見られたらこんな気持ちになるんだろうか、なんてことを考えてしまった。
「その人から離れて」
「はい、はい、はい。おっけー、おっけーです」
美海から「その人」呼びをされて胸が痛い。
そういえば、今日はまだ一度も美海から「お父さん」と呼ばれてはいなかった。
「あの」
「なに?」
もしかしたら私のことを「お父さん」と呼ばないようにしているのかもしれない。
「さっき車が家の前で止まりました」
「そうか、ありがとう美海」
お客人が到着した。
初海にからかわれた言い方をするならば、これから戦争が始まるのだ。
私は手早くパソコンを操作して電源を落とすと、ふたりの少女を伴って階下へと降りていった。
――ピン……ポン。
折よくチャイムが鳴る。
前回鳴らした初海の物とは違ってかなりゆっくりと押されたたね、訪問者の緊張が伝わって来た気がした。
「……」
チラリと背後に立つ二人に視線を送る。
どちらとも固い表情で私を見返して来た。
いくぞという気持ちを込めて頷きをひとつしてから玄関へと向き直る。
「どうぞ。お入りください。鍵はかかっていません」
「…………はい」
私の言葉に一拍おいてから返事があり……ドアが開いた。
チェックのスカートスーツを身にまとい、首には真珠のネックレスをかけ、品の良いハンドバッグを肩から下げている。
白髪にメガネをかけ、渋面を浮かべた老女がたったひとり、玄関先に佇んでいた。
「お久しぶりです。十五年ぶりでしょうか」
「いいえ、十三年でございます。一度その子のことで……」
「ああ、そうでしたか」
できればもう二度と顔を合わせたくはなかった。
八尋と別れた時から、この老女――斎藤洋子とは親子で無くなったのだから。
「八尋の奴は来てないんですね」
「はい、どうしても連絡が取れませんで……。今も夫が探し回っております。ですので本日はわたくしひとりで参らせていただきました」
「なるほど、ね。
予想はしていたが、やはり八尋はこの話し合いから逃亡したらしい。
浮気がバレた直後もそうだった。
まあ、どうしようもなくなればいずれは顔をみせるだろう。
「誠に申し訳ございません。令次さんにはなんとお詫びしてよいのか――」
「以前も言いましたが、あなたに謝られる筋合いはありません。私たちは必要なことをするだけです」
謝罪する必要があるのは八尋であり、八尋の母親である斎藤洋子ではなかった。
「お入りください。この子たちのためにも」
「……はい、申し訳ございません」
勘違いしていた。
これは戦争なんかじゃない。
十五年越しの、戦後処理だ。
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