第29話 謝ったから許してくれるでしょう?
それからの交渉はトントン拍子に進んだ。
予想通りではあるが八尋が裁判所からの呼出状すらも無視したため、完全に勝敗が決してしまったのだ。
こちらの要求はほぼすべて通った。
私たち三人が共に住めるようになったのだ。
余談になるが、初海の実父に対する要求は弁護士の活躍によって私が考えていたものより壮絶な物へとなった。
なにせ、2020年以前の遅延損害金を、認められ得る最高の法定利率に設定していため、慰謝料の請求額だけで一千万円を越えてしまったのだ。
要求する立場であるこちらの方が少し気の毒に思ってしまったくらいだ。
裁判所からの通知を受け取った瞬間、泡を吹いて気絶したらしい。
逃げなければ二百万円で済んだのに、後悔先に立たずといったところか。
全額貰えるとは到底思っていないけれど、とりあえずの決着はついた……と思っていた。
思い込んでいた。
「初海、今日はこのまま家に帰らず弁護士さんのところに匿ってもらいなさい」
私は玄関先で立ち尽くしている人物から視線を離さず、スマホに感情を押し殺した声を囁きかける。
『令次? え、なに? 急に電話かけて来ていきなり』
「来た」
『来たって誰、が……まさか……!』
たったひとことで話が通じたのは、それの襲来を予期していたからだ。
手入れのされていないぼさぼさの長い黒髪。
吹き出物が出放題になり、いたるところに小じわが存在する肌。
落ち込んだ目に卑屈そうな口元。
六十歳の老婆だと紹介されれば信じてしまいそうなほど老け込んだ、設楽八尋その人が玄関先で佇んでいる。
あの安アパートで争った日からたった二か月半でずいぶんと様変わりしていることに驚きを隠せなかった。
「とにかくそういうわけだから切るぞ。終わったらまた連絡する」
『あっ! ちょ、待っ!!』
初海はまだなにか話したかったのだろうが、早々に通話を切るとスマホをポケットにしまう。
そうして空いた手を斜め後ろに回し、私の背後で怯えていた美海を背中に庇った。
「美海。絶対に私を挟んで反対側に居なさい」
「で、でも……お、おとう、さんが……」
美海は先ほどから歯の根が合っていない。
唇まで真っ青にしてガタガタと震えている。
美海にとって八尋は絶対の存在だ。
幼い時から常に支配され続け、自殺未遂を考えるほど嫌なことであろうと断ることができない。
敵意すらなく、ただそこに存在しているだけなのにも関わらず、深く刻まれた心の傷のせいで怯え、震えてしまう。
娘の中で、母親とはそれほど強大な存在なのだ。
「いいから。力では私の方が上だ」
まだ、終わっていなかった。
まだ美海の呪縛は解けていなかった。
必要以上に甘えて来るのは、もしかしたらこの恐怖から逃れるためだったのかもしれない。
どうすれば美海を守れるだろう。
どうすれば美海は心から安心して生きていけるのだろう。
分からない。
けれど罰するだけではだけではダメなことは、今の美海が証明していた。
「絶対に、指一本触れさせない。なにがあっても私が守るから」
「…………う、ん」
後ろ手に美海の手を掴み、繋ぐ。
美海の手は、ハッキリと感じ取れるくらいに冷たく強張っていた。
「八尋、裁判所から接近禁止命令が出ているのは知っているだろう。なんで来た」
まだ敷居を跨いでいないとはいえ、八尋のやっていることは違反行為である。
本来ならば即座に玄関のドアを閉め、警察にでも連絡する方が正解なのだろう。
だが、私はそれでも八尋に声をかけた。
「……その、あなたに謝りたくて」
「美海と初海はどうでもいいわけだな。帰ってくれ」
「違うの! もちろんふたりにも。当然でしょう」
取って付けたような言い草で、八尋が本心から出ないのは明らかだ。
始めから彼女に期待することはなにもないが……。
「分かった。言い分は聞こう。中に入ってくれ」
しかし私はあえて八尋を家に招き入れた。
かつてこの家の住人であった八尋を、洋子と同じ位置――客人もてなす和室に座らせる。
なにか思うところがあるかと注視してみたが、そもそもが暗い表情であったため、なにを考えているかは分からなかった。
「美海はどうする? 私は、美海がわざわざ聞く価値はないと思う」
八尋が訪れた理由に大体の想像はつく。
大方、強制執行が行われた後の通帳でも見て、慌ててここに来たのだろう。
「……お母さんの話……」
「ああ。
「…………」
きっと八尋は自分のために嘘をつく。
その嘘は、美海にとっての針となって深く心を抉るだろう。
美海を守りたければ、今すぐ出て生きなさいと強く言うべきだ。
それが美海のためにもなる……はずなのに、どうしてもそう決め切れないのもまた事実だった。
「お父さん……」
ふと、左隣に座る美海がそっと手を重ねてくる。
美海の手は未だ冷たい。
けれど、確かな力が籠められていた。
「私も、聞く」
手のひらを返して美海の手を握り返す。
絶対の意思を籠めて、強く。
「……わかった」
私たちの覚悟は決まった。
手を繋いだまま、私たちは八尋に話をするよう促した。
「それじゃあ八尋、録音はしている。どうぞ始めてくれ」
「ええ」
虚ろな八尋の瞳が、真正面から私の目を見据えてくる。
それが、
「申し訳ございませんでした……」
消えた。
八尋は深々と頭を下げ、机に両手をついて額を擦りつける。
私から見えているのは八尋の後頭部やつむじだけ。
形だけなら立派な謝罪だった。
「あなたには本当にご迷惑をおかけしてしまいました。それから美海にも」
「…………」
「心から反省しています。今日はそのことをお伝えに参りました」
「そうか。じゃあ終わったな、帰ってくれ」
「ち、違うっ! それだけじゃないんです!!」
謝罪の体勢を解いた八尋に、やはりかと心中でため息をつく。
八尋は謝罪に来たのではない。
なにかの要求にでも来たのだろう。
謝罪だけでよいのならもう終わっている。
そもそも、本気で謝りたいと思っているのなら調停をボイコットしたりしないし、裁判所の召喚にも応じるはずだ。
最初の話し合いを逃亡してから二か月近くも音信不通ままで、一切連絡をしてこなかった時点で分かり切っていた。
「なら要件を話せ。こっちはお前に付き合って居られるほど暇じゃない。コンビニパンを放り投げて終わりなお前と違って、野菜たっぷりの夕食を作らないといけないんでな」
「これだけ謝っているんだから少しぐらい待ってくれてもいいでしょう!」
謝罪は毒だ。
謝られたのだから許されなければならないという認識をもたらす。
なんの償いにもなっていないのに、なぜか謝った側が勝手に報いたことになってしまうのだ。
「――あまりふざけたことを言うと警察に連絡する。バカも休み休み言え」
こちらは心と人生を壊され、二千七百万円も使い込まれ、娘を誰とも知らないヤツに売られ、今また大変な手間と労力を使っているのに。
頭一つ下げただけでそれらがチャラになるはずがない。
「お前がしたことは、常軌を逸してるんだよ。だから周りの人たちも今までのあやまちを清算しろって言ってるだけだ。それが理解できないならもう警察っていう物理的な力に頼るしかないだろう」
「…………」
「要件を言え。形だけの謝罪には意味を感じない」
断固たる拒絶を前に、八尋は美海へ助けを求めるかのような目線を向ける。
もちろん美海が受け取るはずもなく、つと視線を外した。
「あ、え……と……」
どんな要求であろうと私たちが飲むことはないと理解しただろう。
諦めて引き下がるか逆切れするか。
私はそんな予想を思い描いていたのだが……甘かった。
ここに至ってもまだ私は人間を相手にしているつもりでいた。
どこまでも自分さえよければいいと考えている女が、他人を慮ることなどあり得るはずがないのに。
本当のバカは私だ。
「美海にはね、やっぱり母親が必要だと思うのよ」
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